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境界線上の魔王  作者: 羽山一明
第九章 『昏き追憶の水底にて』
209/212

9-50 花、ひとひら

 冬虫夏草、という名称の菌がある。

 或いは昆虫に。或いは小動物に。ある種の生物に寄生して養分を得るこの種は、最期に宿主の命を奪い――


「おかあ……さん……?」


 ――宿主の眼球や頭部を貫いて、花咲くが如く生長を遂げるのだ。


「…………」


 ポーラの問いかけに応えるかのように、フレデリカが顔をもたげる。

 彼女の性格を象徴する橙黄色の瞳、その片割れは、いま、眩いその色彩を塗りつぶす黒によって完全に消失していた。その空虚から飛び出た骨張る枯れ木のような物体が、触覚のごとくぴくぴくと左右に揺れ、立ち尽くすポーラへとゆっくりと焦点を定めた。


「ひっ……!」


 異形化を免れた左目もまた、泥水に沈められた宝玉がごとく光を失い、失意と無念が垣間見える視線だけを、ただ漠然と前方に向けているのみである。

 変わり果てた母の姿に悲鳴を漏らしたポーラが、無意識に後ずさりをしようとして、ぺたりと尻餅をつく。強大な魔力を瞬間的に発現させたことによる虚脱と、それを凌駕する恐怖と混乱によって自由を失った全身は、捕えられた小動物のように、ただただ震えることしかできなかった。


 動くことのかなわない視界の奥、氷漬けの木々の隙間が揺れ、蠢く。

 どろりと揺蕩う莫大な魔力を嗅ぎつけたのだろう。亡者のように現れた魔物どもが、左右対称を失った体をもたげて、ふたりのもとへにじり寄る。その歩みが、自身ではなく母へと向かっていることを知ったポーラは、辛うじて自由を取り戻した首から上を懸命にふるって、かすかな抵抗だけをしめした。


「いや……お母さん――」


 体が動かないならば、と、感情のままに魔力を放とうとしたポーラは、だが、半ばでみずからその動きを止める。母に危機をもたらしたのが、他ならぬ自分の未熟な魔力であることを思い出した彼女は、喉まで溢れた魔力を押しとどめ、己の無力さにただただ嗚咽を流した。


「おかあさん……!」


 少女の切なる願いは、だが、異形と化した者どもに届くことはなかった。

 緩慢にふるわれた魔物どもの爪牙が、静止を続けていたフレデリカの背に食い込んで、彼女がまだ人であることを証明する鮮血が噴き上がる。目の前で裂かれ、食まれゆく母のさまを映す眼が涙に濡れそぼったその直後、彼女の目に映る悲劇のすべてが、目の覚めるような透き通る青によってかき消された。


 光の向こう側、収束し、やがて鎌の形を成したそれを掴んだフレデリカが、振り向きざまに強烈な一撃をふるった。

 幾倍の報復を見舞われた魔物の肉片が、さながら五月雨のように降り注ぐ異様のなか。

 フレデリカは、首から上だけでポーラを見やり。


「強なったなあ、ポーラ……」


 その横顔に、苦く悲しげな藍をふわりと浮かべて。


「……ありがとうな。ほんで、ごめんな」


 影から湧き出るかのように数を増してゆく魔物の群れめがけ、力強く地を蹴り出した。


 ひそやかに憧れていた、戦士としての母の姿。最初で最期であろうその勇姿は、だが、繰り返す戦闘のさなかにも異形化を進行させ、ポーラが思い描いた理想像をいびつに塗り替えてゆく。


「…………っ!!」


 行く末を否応なく想起させられたポーラが、感覚すら曖昧な体を奮い立たせ、唇を噛んで、母のもとへと手を伸ばした。だが、ようやくにして前傾した体は、そのまま一歩を踏み出すことなく地に落ち、もたげた拳は何を掴むこともなく、溶けはじめた氷が滲む土にはらりと触れるのみであった。


 せめて目だけは逸らさぬように、と。泥にまみれた首から上を持ち上げた頃。顔の半分だけであったフレデリカの異形化は、片方の眉目と唇、そしてわずかに揺れる前髪だけを残して、彼女を人たらしめる証左のすべてを変質させてしまっていた。


「……頃合、やな」


 すべての魔物が倒れ伏せた静寂を、フレデリカの呟きがそっと破る。

 次いで吹き出た血を拭おうと腕を持ち上げた彼女は、だが、鋼のように硬質化した自身の肌をみとめると、諦めたように短く重い溜息を吐き出した。


「ポーラ」


 もはやまともに振るえなくなった鎌を引きずりながら、フレデリカは掌に純白の魔力を滲ませた。風に吹かれる花びらのように浮かんだその光が、懸命に体を起こそうとしていたポーラへと舞い下りて、彼女を束縛していたあらゆる痛苦を和らげてゆく。


「……なんで……?」


 自由を取り戻したポーラの唇が、痛ましい疑問をそのままに吐き出す。残り少ない魔力を振り絞って顕現させた治癒魔法を、自身ではなく娘に放った母が、ふ、と力ない笑みを零して応じた。


「こんなんなっても、人の親やからなあ」


 自嘲の後を追いかけるように、するどい破砕音が鳴り響いた。人のそれではなくなったフレデリカの腹部に生まれた亀裂が、はっと立ち上がったポーラの目の前で、放射状に勢力を広めてゆく。


「それに、助かるほう助けるんが、戦場の鉄則やしな」


 言いながら、フレデリカは砕けゆく両の手で鎌の柄を掴み、命を刈り取るその白刃を、みずからの首筋へ添えた。

 その意図を理性で解し、感情で解せなかったポーラが、自害を目論む母から鎌を引き剥がそうとしがみついた。


「お母さんっ!!」


 絶叫めいた声をあげたポーラの渾身は、しかし今や過半が魔物と化したフレデリカの膂力にかなうはずもなかった。ならば、と、標的を柄から刃に変えた狙いは、花を愛でるように突き出された人差し指によって制され、ポーラは頽れるようにして尻餅をついた。


「……ほんまは見てへんとこでやりたかってんけどな。もう、ほとんど体が言うこと聞かんのよ」


 つぷり、と立った刃が、辛うじて肌色を保っていたフレデリカのうなじに食い込んで、鮮やかな紅がとろりと流れ出る。


「多分な、自我を取り戻せたんもたまたまやねん。襲われた痛みで意識が戻っただけで、いつまたバケモンになるかわかったもんやない。やから、早いとこ――」


 瞬間、終わらせるべく力を込めたフレデリカの体が、わずかに均衡を失った。話も半ばで駆け出したポーラが、鎧めいた何かに変質した母の胴に飛びかかり、節くれ立った体表に頬が裂けることも厭わず、ぎゅっと顔をうずめる。


「……なあ、ポーラ」


 何かを言いかけてやめたフレデリカは、鎌を手放した利き腕を、ぽん、とポーラの頭に乗せる。


「あたしな、昔っから魔力とか魔法が苦手やってん。旦那もそれで亡くしとるし、シルヴィアが滅んだんも、まあ似たような話やしな。ほんでも、適性があるんやったら、生きるためには魔法とも付き合わなあかんって言い訳しながら、傭兵続けててんけどな……」


 言葉を切ったフレデリカの唇から、ぬるい血の筋がこぼれ出る。

 死か、変異か。間もなく母を蝕む二択の予兆を見たポーラの頬に、熱を帯びた一雫がはらりと流れ伝った。


「結局、元人間を殺し続ける事実は変わらん。そのことに耐えきられへんなった頃合を見計らったみたいに国王に見初められて、あたしはそのまま剣を捨てた。こういう生き方もありかもしれんな、って思とったら、王の狙いは跡継ぎやのうて、人体実験の材料やったってことを教えられた……」


 苦悩と自戒をまとったフレデリカの声が、しだいに弱々しく萎み、吐血を伴って千々に切れてゆく。その姿に、幾度となく声を掛けようとしていたポーラは、しかし、母の今際の言葉を阻むまいと、懸命に唇を噛みしめた。


「なんべん死のうと思ったかわからん。楽になりたいわけやなかったけど、のうのうと生き延びるくらいやったら、潔く報いを受けるべきやと思っとった……そんでも、死ねん理由があった」


 ふ、と。痛苦を堪えて掠れたフレデリカの目に、穏やかな生気が灯った。異形化した腕の先、ほんのわずかに人の名残を保っていた指先が、顔をあげたポーラの頬に伝う血をそっと拭い取る。


『――お母さん、見て見て! 今度の魔法はすごいよ!』


 霞みゆく意識に過ったのは、もはや帰ることのかなわない、在りし日のひととき。

 王宮の奥深くにあてがわれた庭園にて、ずらりと並ぶ純透明な戦士たちの像を背に、小さな胸を嬉しそうに張るポーラの姿がそこにあった。


『……何やこれ? 謁見の間に並んどる銅像か?』

『そう! 氷魔法で模造してみたの。これ、暑い季節とかに街じゅうに置いたら、みんな喜んでくれるんじゃない?』

『んん……思いつきはええけど、このまま置いたら魔力に耐性ない人は逆にしんどなってまうで』

『えっ……?』


 弾むような声から一転、ポーラが困惑と落胆をまとった反応をこぼす。

 娘の努力を否定しかねない自身の発言を悔いる一方、魔力という不透明な概念がもつ危険性を改めて説く必要がある、と。そう結論づけ、俯くポーラに向けて重々しく唇を開く。


『多分、な。あたしたちはともかく、普通の人には魔力が毒になることもあるしやな……』

『……わかった。じゃあ、また別のやり方を考えてみるね』

『はっ……?』


 思いがけない反応に、今度はこちら側が面食らう。

 顔をあげたポーラのまなざしには、後悔や苦悩はおろか、あらゆる負の感情の一欠片すらも宿っていなかった。


『いま、私たちが当たり前みたいに火を扱えてるのだって、最初に火を見つけたご先祖さまが、危険を承知で試行錯誤を繰り返した成果でしょ? じゃあ私たちも、魔力っていう不確かなものとちゃんと向き合って、後世の人のために何かを残すべきじゃない?』


 それに、と。

 陽光のない空の下、言葉を続けたポーラの表情に、陰すら飲み込む光がぱっと射し込んだ。


『せっかくお母さんからもらった才能なんだもん。いっぱい使って、いっぱい磨いて、いっぱい人の役に立ててみたいの』


 年相応の思いつきや好奇心などではなく、歴史に学び後世を紡ぐ根拠を示してみせた、その理知。

 命を奪うためだけに発展を続けた力を否定することなく、向き合い、活かしてみたいと言い切った、その無垢。


 幼少期の殆どを王宮の奥で過ごし、経験はおろか十を数えたばかりの幼子から飛び出した、希望あふれるその意志に、何も言い返すことができなかったかつての記憶が、走馬灯のようにフレデリカの脳裏に蘇る。

 あの日、あの時。強烈な印象とともに焼き付いた笑顔が、いま、目の前の悲哀に満ちた顔と重なり、溶けていった。


「……ポーラ。お前はあたしの生き甲斐やった。今を嘆くばっかりのあたしと違って、行く先を信じ続けるその姿勢に、数えきれんくらいなんべんも救われた」


 緩やかに、だが確かに、命の灯火と比例するかのように、フレデリカの身を灼く痛みが増してゆく。それでも平静を取り繕うのは、ただ、目の前の娘から少しでも不安を取り除きたい、と。そう願う親心を尽くすゆえのことであった。


「誰かて成功を掴むまでには失敗を繰り返す。その反動も、ふるう力が強けりゃそれだけ大きくなるもんや。ましてや、望んでもない力を押しつけられたお前が罪の意識に囚われることあらへん」

「…………」

「生きてたら辛いことも色々ある。けど、いつかきっと、その苦しみを分かちあえる人とも出逢える。だから迷いながらでも、自分が正しいと思う道を胸張って進んでけばええ」

「……ん……」


 かき消えそうな頼りない返答に肯定を見たフレデリカは、やわらげていた口元をふっと引き締め、深く長い溜息を吐いた。落とした視線の先、寂しげに地に伏せていた相棒たる鎌を拾い上げ、首筋に引っ掛けるようにしてあてがう。


 強く握りしめた柄に、全体重を掛ける。それだけで全てが終わる。

 自死への躊躇いに生じたわずかな間。その隙間を縫って伸びたポーラの手が、硬直していたフレデリカの手のひらをきゅっと掴んだ。


「……こら。手ぇ汚すんはあたしだけでええて」

「ううん……それじゃ……それだけじゃ、だめなの……」

「はっ……?」


 胸元に縋り付く掠れ声が、半ばから涙声に濡れる。

 堰を切ったように溢れ出た嗚咽に肩を震わせながら、それでもポーラは懸命に声を紡いだ。


「あの、ね……? わたし、お母さんみたいに……これから、魔物をいっぱい倒して……この国を守っていくの……だから……」


 ゆっくりと顔をあげたポーラが、潤んだ瞳の色に決意を乗せて、強く、まっすぐにフレデリカを見据えた。


「だから、逃げちゃだめなの……命を奪うことも……その罪の重さも、全部……」

「…………」


 突きつけられた、涙ながらの覚悟。

 そう望んだはずもなく、だが、母を手にかけたという確かな事実。のみならず、国を守るために魔物を屠り続ける重荷までをも背負おうとするポーラの意志に、フレデリカはわずか言葉を失って。


「……かなわんなあ……」


 ふわりと破顔し、異形化を迎えた片腕をもたげて、ポーラの髪をくしゃくしゃに掻き回した。

 前髪の隙間で目を瞬かせるポーラの、鎌の柄を握るやわらかな手のひらに、自身のそれをそっと重ねる。


「わかった。任せるわ」

「……うん……」


 数多の戦を潜り抜けてきた蒼白の刃。憧れの対象でもあったその柄を委ねられた手のひらが、荒れる動悸につられて震える。

 深く、長く、とめどなく。絶え絶えに繰り返される呼吸を押さえつけたポーラが、最後の覚悟を乗せてぐっと歯を食いしばった。幕を落とすかのように柄が引き下ろされ、薄い氷の刃がフレデリカの首筋にすっと吸い込まれてゆく。


 瞬間。


「ポーラ」


 娘を呼ぶ母の表情に、陽光のような眩い笑顔が花咲いて。


「元気でな」


 別れの一言ひとつを残して、はらりと散華した。

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