9-47 献身、或いは自己犠牲
「――僕が、彼女の代わりに被検体になります」
微震した少年の声が、ほの明るい青に照らされた室内にこだました。
視線の先、光源たる硝子の円柱の内側に閉じ込められているポーラの表情は、降り注ぐ彩よりも色濃い蒼白。母娘並べば陽がふたつ、と謳われた快活な少女の姿はそこになく、虚ろに天を仰ぐさまは意識の有無すら判然としない。
妹を救うため、決死の形相を以て放たれたヘイゼルの覚悟は、だが、枯木めいた老人の片眉をかるく引きつらせるだけにとどまった。
「要らん。去れ。邪魔でかなわん」
「っ……!」
狙いを看過されたのか、或いは本心から興味がないのか。にべもなく、どころか侮蔑をすら込めて鼻白んだ老人が、細めた目をふたたびポーラへと戻す。
円柱に据えられていた操作卓が軽快に打鍵されると、沈黙を保っていた硝子の容器が微震し、うなりをあげて再稼働をはじめた。
淡く落ちていた光が徐々に強まり、ポーラの身に繋がれた管がゆっくりと持ち上がった、直後。
「……待て」
ポーラの窮地を前に、無意気に迸ったヘイゼルの魔力を、老人が目敏くもするどく拾い上げた。虫の声ほどの愚痴と緩慢な手の動きを止め、身を強張らせて応じたヘイゼルへ、態度を改めるかのように体ごと向き直る。
「いま、被検体と言ったな? その話、どこで耳にした?」
「…………」
みずから持ちかけた戦に対して、しかしヘイゼルは苦々しげに口ごもった。
クラウディオの名を出せば、彼の救助を待つまでの時間稼ぎであることをいよいよ見破られてしまう。
しかして、力業もまた愚策。今にも枯れて朽ちてしまいそうにも見える老人が、外見に反比例するおぞましい魔力を隠し持っていることを、ヘイゼルは持ち前の魔力をもって見抜いていた。
ゆえの、沈黙。
貝のように黙り込む少年への助け船は、向かい合うふたりにとって最も意外な人物からもたらされた。
「……おにい……ちゃん……?」
「ポーラ!!」
硝子の内側を震わせた小さな声に、ヘイゼルがはっと視線を転じ、ふたたび眠るように沈黙した妹を心配げに見つめた。
その表情に、その仕草に、そして何より、滲みだしたその魔力から、老人がわずかな考慮を挟んで察する。
「小僧、ヘイゼル・ベルリッツだな? 十と余年前、フレデリカ・ベルリッツが抱えていたあの乳飲み子が、いかな手法を使ってそれほどの魔力を得た?」
「……さあ? 師匠に恵まれた、とでも言えば、貴方は納得しますか?」
人間を超えた力を得るため、老人は子とともに、茫洋たる時と犠牲をも厭わず実験を貫徹した。
その過程と結果を、ただ一言『やり方が悪い』と切って捨てたに等しいヘイゼルの痛烈な返答に、老人が不快げに目を細める。
放たれようとした二の矢は、だが、覚悟を決めた少年の高い靴音に、文字通り一足先に阻まれた。
「求める目的がどれだけ崇高であれ、得られるものがどれだけ莫大であれ、貴方がたの実験は、否定されて然るべき倫理に悖る行為です。ましてや――」
恥辱に打ち震える老人の喉元に激昂が湧き上がる。その苛立ちが沸点を迎える瞬間を待ちかねるように、たっぷりと余韻をおいたヘイゼルが、見るものを卑下する歪んだ笑みを浮かべた。
「――こんな小僧ごときの魔力に腰が引けているようじゃ、ねえ?」
魔法をファウストに、座学をメイベルに、そして話術を母フレデリカに学んだ麒麟児の挑発が、比すべきですらない時を歩む老人の精神を確と揺るがした。
「……よかろう。それほど妹の後を追いたいのならば、追わせてやる」
憤怒の視線を追いかけるように迸った老人の魔力が、生を与えられた蛇さながらに変形して、ヘイゼルの四肢にするどい牙を立てる。痛苦を感じる間もなく宙づりにされた体は、そのまま半円の軌跡をえがいて、ポーラが横たわる円柱の上部へと乱雑に放り投げられた。
「……っ……! ポーラ……!」
叩きつけられた痛苦を堪えながら身を起こしたヘイゼルが、死人の様相すら窺える妹に寄り添った。か細く、だが確かに響く呼吸音に安堵したのも束の間、どこからともなく現れた銀色の管が、なで下ろした胸部めがけて容赦なく突き刺されてゆく。
電撃の如く走り抜けるするどい痛みに体を折りながら、口元に浮かぶのは会心の笑みであった。
怒りに身を任せた老人の狙いをすげ替えることで、ポーラの身を守ることのみならず、わずかながらでも時間を稼ぐことができる。
或いは、狂気ともいえる献身の狙い。
さらなる激痛とともに掴むはずの成就の瞬間は、だが、成功を確信していた少年の指の隙間から、無情にも呆気なく零れ落ちていった。
「……あっ……」
掠れたポーラの呼吸音が、頼りなげな声に変わる。
意識を取り戻したものか、と、明転させたヘイゼルの表情が、すぐさま違和に歪んだ。直後。
「――ああああああぁあぁあぁーーーーっ!!」
目を見開いたポーラの口元から、涙声まじりの絶叫が迸った。掠れたその声は、半ばから容赦の無い量の吐血に変化して、愕然と見つめるばかりのヘイゼルの全身に紅色の斑を描いてゆく。何が起きているのか、と硬直する視線の端、硝子越しに操作卓を叩いていた老人が、満足げに口元を緩め、ひとつ頷いた。
「ふむ。やはり質のよい魔力だ。作業が妨害されたことを差し引いても、十二分に利が勝るよな」
怒髪天の様相から一転、夜の水面の如く平静を見せる老人の様子に、ヘイゼルは自身の過ちを今更にして知った。
老人は、感情に任せるがまま、被検体の対象をヘイゼルに差し替えた。そう見せかけ、その実、ヘイゼルをただポーラに注ぐ魔力供給源としてしか認識していなかったのである。
「やめろ――」
分の悪い賭けであることを知りつつ、最善を尽くし、それでも届かなかった無力さに、ヘイゼルがもはや体裁すら擲って懇願を張り上げる。
悲痛なその声は、しかし老人に届くより早く、なお悲痛を帯びるポーラの絶叫に飲み込まれ、硝子の内側をむなしく反響するだけであった。
「何か、何か……っ……!」
苦肉の策すら裏目となり、正攻法で敵うはずもなく、目前の絶望をただ見つめていたヘイゼルが、錯乱のなかに微かな光明を見いだした。
保証はおろか、およそ正気とは思えない。脳裏に過ったその案を、理性が拒絶し、感情が引き戻す。
過呼吸を連れた朧気な目が、ポーラと自身に繋げられた銀色の管を見据えて、ふいに鈍い光を宿した。
「ポーラ、ごめん!」
鼓舞するように叫ぶなり、ヘイゼルは力任せに管を引き抜き、互いのそれを次々と差し替えはじめた。
それは、策と呼べるほどのものではない、単純かつ強引な発想。こちらからあちらへと魔力が流れゆくのならば、その流れを逆転させてやればよい、と。まさに苦肉の策といえるその決断は、果たして、過剰な魔力に悶え苦しむポーラに確かな安らぎをもたらした。
そして、必然。
「……っ……あ……っ……あ゛あぁぁぁっっ!」
配慮も躊躇いもなく、ただ漠然と逆流した魔力が、ヘイゼルの体を内部から支配すべく暴れ回った。
彼自身の魔力と馴染むことなく行き場を失った莫大なそれが、涙血を体液を巻き込みながら、穴という穴から噴出をはじめる。
「い゛……ッ! あっ……! いだいッ……! 痛いぃいぃいいぃっ!!」
「? ……おや? これは……なんと……!」
文字通り、ポーラの身代わりとなったヘイゼルが、天に祈りを捧げるかのように首をもたげ、水音まじりの悲鳴を絞り出す。
緩やかに言語を取り戻すそのさまに、操作卓に指を這わせていた老人が、ふと眉をひそめ、虚ろな光を宿していた眼をヘイゼルに差し向けた。
「素晴らしい! 嵐の如く魔力に身を冒され、なお理性と言語を保持していられる魔力。成程、君たちの類まれなる魔力は母方由来のものであったのだな。いや、これはなかなか……ふふ……」
額に手を当て、天を仰いだ老人が、語尾に隠しきれない笑みをこぼす。怨嗟を浮かべるヘイゼルの眼前、ひとしきり笑ってみせた彼は、淀んだ視線に不穏な閃きを乗せて、ふいに顔を上げた。
「予定変更だ。このまま君を本命に据えよう」
「……っ……!?」
問い掛けながら、回答に先んじて理解を得たヘイゼルが、痛みも忘れて管に手を伸ばす。しかし。
「その管を引き抜けば解決、などと思っているのなら、触れぬほうが懸命だぞ。流出した魔力がひとたび大気中の魔力と混じれば、途端に君とも彼女とも馴染まぬ魔力に変異する。手っ取り早く魔物になりたいのならば、止めはせんがね」
――嘘だ、と。
気持ちの上では否定すべき老人の言が、しかし真実であろうと察するに足る知識をファウストから得ていたヘイゼルが、全身を鎖に縛られたかのように硬直する。
同時に、拒絶めいた反応を見せていた体に溢れていた痛みと血が、不自然なまでにおさまっていることに気付いて、彼は艶めいた紅を纏うみずからの両手をまじまじと見つめた。
「ほお。肉親の魔力とはいえ、もう馴染むか。私が奴に魔力を流した際は、三日三晩悶え苦しみ、ついには人前に姿を晒せぬほどに容態が悪化したというに」
老人の言う"奴"と国王を結びつけたヘイゼルが、目元を覆う血を血で洗い流し、浅い呼吸をひとつ挟む。
老人と国王の狙いは何か。その達成のため自分が提示しうる手札は何か。
或いは本心からの協力の姿勢も辞さぬ、と、理性を以て保たれていた少年の平和的思考は――
「ふむ。しかし、実兄に命を捧げるのならば、彼女も浮かばれよう。王族としての務めを果たせぬ無力感に苛まれていた心も、報われるというもの……」
――老人が伏していた実妹の処遇を知ったその瞬間、猛獣さながらの凶暴性へと変異を遂げた。
「……あ?」
呆然と言葉を区切った老人が、違和にふと目を落とし、そして戦慄する。
暗がりのなか、ぼんやりと光る操作卓へと伸びていた手首から先が、出血すらも忘れて漠然と消失していた。
「! なっ……あッ……!?」
驚愕、ながらも凝らした視界は、その疑問の解を得ることなく、晴れることのない暗中へと永遠に閉ざされた。
喪った右手に代わり、みずからの顔面をまさぐった左手の指が、眼球があるはずの場所に広がっていた空洞をむなしく掻きまわし、漸く悟る。
「ねえ。よく聞こえなかったから、もう一回言って欲しいんだけれども」
闇の奥、底冷えのする声を発したその少年が、自身の利き腕と両眼を奪い去ったのだ、ということを。
「ポーラが……なんだって……?」
「ひっ……!」
瞬きのうちに戦況を覆された老人が悲鳴を漏らし、それでも抗うべく、倒れ込むように操作卓へと身を寄せた。手探りながら正しく入力された命令に応えた容器が、開放されていた上部蓋を重々しく閉ざして、哀れなる老人の命を辛うじて繋ぎ止めた。
「……ばかな……ばかな……っ!」
訪れた静寂に呻き声をこぼした頬に、生ぬるい脂汗がじわりと滲み出す。
人であることを辞めながら、なお棄てきれなかった生存本能が、主の脳内に警鐘を打ち鳴らしていた。
それに急かされるように身を起こした老人が、ひとつ残された腕を杖がわりに、悲願を謳っていた研究成果すらも放り投げ、這々の体で踵を返した。
「疾く……疾く逃げねば。私さえ生きていれば、何度でも――」
高尚なる大望を掲げていた老人が、想像だにしていなかった窮地を前に本性を露わにする。
命乞いに等しいその台詞は、だが、背面から響き渡った破砕音に半ばから引き裂かれた。
「……ふざけるな……!」
硝子の内側、主の激情のままに放たれたヘイゼルの魔力が、国王の暴走にすら耐え抜いた頑強な装置を飴細工のごとく破砕し、なお吹き荒れる。勢いそのままに溢れ出した熱波が、見えぬ眼を凝らした老人の野望を、その身もろとも影すら残さずにこの世から焼失せしめた。
そして。
「もう……大丈夫だよ……ポーラ……」
すべてを出し尽くしたヘイゼルもまた、妹の無事をみとめた瞳に穏やかな光だけを残して、自身がつくった血だまりへと静かに落ちていった。
「…………?」
動くものがなくなった暗闇のなか、微かな兄の呼び声に応じるかのように、ポーラがゆっくりと意識を取り戻す。
「あ、れ……? 私……?」
辺りをぼんやりと眺め回した目が、闇のなかに散乱した硝子と瓦礫をみとめて、彼女はゆっくりと実験の経緯を推し量った。
「失敗したのかな……? でも……」
ふわりと落とした視線の先、溢れんばかりに感じられる魔力は、紛れもなく自分のもので。
半信半疑でありながら身を委ねた実験が、老人の言葉通り、結果的に魔力の増強に繋がったことを、ポーラは困惑しながらも確信した。
「……うん、よし。私も地上に戻ろう。戻って、お母さんと一緒に戦おう。こんな時に逃げだす王族なんて、みんなに認めてもらえるはずないよね」
自分自身に言い聞かせるように頷きながら、ポーラはさっと立ち上がった。
穢れたその王族の血も、もはや自身を残すのみであることも。兄ヘイゼルが、身を挺して守り抜いてくれたことも知らないままに、決意を秘めた小ぶりの唇をきゅっと結ぶ。
「そうだ。私がやらなきゃ。私が……」
繰り返す言の葉に乗せられた感情は、純粋なる献身か、或いは自己犠牲か。
自覚もないまま、判然としないまま、ポーラは闇のなかを振り返らずに駆けてゆく。
光と魔力あふれる地上にて、非情な現実と絶望が待ち受けていることも知らずに。
……憧れた母の命を、自ら散らしてしまう未来も知らずに。




