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境界線上の魔王  作者: 羽山一明
第九章 『昏き追憶の水底にて』
204/212

9-45 師弟

「――ヘイゼル君」


 凛、と。

 轟く咆哮を掻き分けたクラウディオの声に、澄んだ金属音が続いた。

 月夜のごとく空間に舞ったそれを、目ではなく魔力で察知したヘイゼルが、咄嗟に手を伸ばし、確かに掴み取る。ひやりとした感触に目を落とせば、仄暗い照明を跳ねて恥ずかしげに光る、小さな紅玉の指輪がおさまっていた。


「私の魔力を込めた指輪です。持っているだけで、ある程度の脅威から身を守ってくれるはずです」

「…………」


 なぜ、ここまで、と。

 喉までこみ上げた疑問は、だが、背を向けたまま伸びたクラウディオの指先、生まれて爆ぜた雷に阻まれた。


「化物が出てきたあの穴の先が、例の話にあった私の研究室です。最悪を想定するならば、ポーラはその奥部にいるはずです」


 後はわかりますね?とでも言いたげなその態度に、ヘイゼルは師ファウストを重ねて見、言葉足らずの理由をどことなく察した。

 或いは、この二人は――と、思わず滲み出た場違いな思考を振り払い、黒い穴を開けた伏魔殿の入り口に向けて、決した意を込めた鋭い視線を突き刺す。

 鮮明に示された少年の意志に、クラウディオが口角を緩め、指先に滲ませた雷にゆっくりと魔力を注ぎ込んだ。


「準備と覚悟が済んだら、あの穴めがけて走り抜けてください。合図をすると、意図が悟られてしまいますからね」

「はい、わかり――」


 素直な頷きを追いかけた返答を、化物の足音と思しき重低音がかき消した。天災紛いの強烈な振動が、意地と虚勢をもって固められていたヘイゼルの心をぐらりと揺るがす。


「――……っ!」


 目も鼻もない、意思疎通すら図れない肉塊が、確かにこちらを見据えているのであろう恐怖。

 傭兵でも、ましてや王族でもない。立場に裏打ちされた経験をもたないヘイゼルは、だが、その身に流れる血統の宿命を示すかのように、強く唇を噛みしめた。

 舌先と鼻腔に感じた血の味が、未知と死の香りに気圧された身を三度奮い立たせ、気付けば彼は駆け出していた。


 瞬間、クラウディオの全身から迸った雷光が、ヘイゼルを捉えようとしていた化物の視界を白一色に塗りつぶした。両者の隙間を縫って走った牽制の一撃は、蠢いた化物の爪先と表皮を容赦なく灼き焦し、人ならざるモノの視覚をすら眩ませる光となって辺りを飲み込んでゆく。


 時間にしてわずか数秒。まさに稲妻のごとく儚い寿命を迎えた光が霞み、消えた、その先。雷とともに姿を消していたヘイゼルに対し、かつて国王であった化物が怒りの咆哮をあげる。

 それを見やったクラウディオ――同じく、かつて人間であった化物が、相反する会心の笑みを浮かべた。


「滑稽ですね」


 三日月を描いた口元から滑り出した嘲笑に、国王がのそりと巨躯をもたげた。言語理解を証左するその反応に、クラウディオが意地悪そうに笑みを重ねる。


「不服ですか? 力を求めて人間を止めることを選んだあなたが、人間の弱さと業である感情に未だ支配されているさまは、そう形容するほかないでしょう?」


 緩めた口角もそのままに、クラウディオが「ところで」と二の句を継ぐ。


「ここには何用ですか? あなたを解放したお父上の意図は理解できますが、あなた自身にも目的があるのでしょう?」

「…………」


 問われた国王は、不定形な図体を緩慢に揺らし、顔面らしき先端の部位で天を仰いだ。その一点、粘着音を引き連れて生まれた亀裂から、人間の声らしき音がごぽりと漏れ出した。


「……キョ……カ……セン……」

「は? 何……ああ、境界線ですか?」


 繰り返したクラウディオが、国王の発した音を意訳し、色濃い溜息をこぼす。


「言ったはずですよ。人間性を賭して得たその力を以てしても、境界線を破壊せしめるというあなたの目的は叶いません。取り込まれて養分になるだけならまだしも、下手な刺激はさらなる状況悪化に繋がり得ます。然らば、あの装置の中で身を潜めていることこそが、あなたに課せられた覚悟だと――」


 粛々と、淡々と。国王に教鞭をふるうクラウディオの頭上に、大槌のごとき巨大な前足が振り下ろされた。

 床、壁、そして天井へ。瞬きの間に走り抜けた衝撃が放射状の亀裂となり、狭苦しい回廊は瞬く間に砂塵と轟音に支配されてゆく。

 天災と見紛う振動に均衡を失った国王は、それでも獣の如く咆哮をあげ、圧倒的なその暴をふたたび振り下ろした。

 直後。


「――だから、あなたは半端者なのですよ」


 亀裂の中心、防護膜におさまったクラウディオの瞳が眩い光を纏い、次の瞬間、静かな言の葉に反する莫大な魔力を連れて迸った。

 雷へと変異を遂げた魔力は、身を押し潰した国王の足を焼き切るにとどまらず、歪なその体躯を蜘蛛の巣状に引き千切り、なお荒れ狂った。絶叫とも悲鳴ともとれぬ声と、崩落間近の回廊に跳ねた雷鳴が、耳を劈く二重奏をかき鳴らす。


「……私があなたの実験に協力したのは、魔力はおろか寿命にも恵まれなかったあなたの境遇に同情しただけの話です。境界線に対する私怨は、同調こそすれ、肩を貸した覚えなどありませんよ」


 反響する音の余韻と入れ替わるように呟いたクラウディオが、人間大にまで身を削がれた肉塊を見下ろした。冷え切った眼光に映る国王はもはや微動だにせず、おさまった振動と相まって、辺りはすっかりもとの静謐を取り戻していた。


「恐れ入りますよ。人間を辞めなければ命すら危ぶまれていたあなたが、二百余年を生きる私が成し遂げられていない悲願へ手を伸ばす、その傲慢さだけはね」


 言うなり、クラウディオは荒れた呼吸を整え、周囲に揺蕩っていた雷の魔力を解いた。

 ヘイゼルを追うべく転じた一歩は、だが、次の一歩に繋がることはなかった。


「……あ?」


 零した吐息が半ばから鮮血に染まり、クラウディオはわけもわからず膝を突いた。項垂れた視線の先、自身のそれであるはずのない幾種類もの臓器が、下腹部を貫きなお伸びて、赤黒いその身を小刻みに蠢かせている。


「ぐっ……?!」


 総毛立つ光景めがけ振り払われた掌は、水を掴むようにするりと躱され、絡まれ、腹部の後を追うように食い破られてゆく。次は腕ごと、と言わんばかりに鎌首をもたげた臓器は、直後に降り注いだ雷の矢に意趣返しのごとく射抜かれ、影すら焼き尽くすほどの執拗な雷撃によって、悲鳴すらあげることなくこの世から消え去った。


「――傲慢なのは、君のほうではないかね」


 致命傷に喘ぐクラウディオの背に、朗々たる男の声が浴びせられる。力なく振り仰いだ視線の先、明滅する照明の下。国王を模して作られた首から上を、剥き出しの筋肉と内臓をもつ下半身に植え付けた、と、そう称するほかない生物が佇んでいた。


「境界線への復讐を諦めたと嘯く一方、私の悲願を根拠もなく値踏みし、理論すら知らず否定する性根。それを傲慢と呼ばずしてなんとする?」

「……なに……?」


 延命と力を求めて注ぎ込まれた魔力によって、もはや理性の喪失は時間の問題であろう、と。他ならぬ施術者によってそう判断され、事実、一度理性を忘我した国王が、今、流暢な人語を操っている。

 その事実が、不意を突かれた一撃にもまさる衝撃をもって、クラウディオの全身に電流を走らせた。


「……境界線を破壊せしめる理論、ですか。そんなものが実在するのなら、是非、この場でご教示いただきたいですね。そもそもが大陸を二分するほどの長大な河川、魔力が通っていない状態ですら困難では?」


 血の塊を吐き出したクラウディオが、不可解な現状の解明のため、時間稼ぎの弁舌を弄する。それと悟ってか、はたまた油断からなるものか、人の形を取り戻した国王は、身の回りでくねらせていた触手めいた臓器の動きをはたと止め、言の葉飛び交う戦場へと身を乗り出した。


「わからんか? 化物と成り果てた私の前で、君が幾度となく口にしていた昔話。それに着想を得ただけの単純なものだぞ?」

「……私の、昔話……?」


 愕然と、しかし急速な回転を始めた思考が、ほどなく心当たりに辿り着く。

 よもや、人語を解する状態にはないだろう、と、国王の前で独りごちた回想。紛うこと無き人として生まれたこの身が、龍と変わり果てた経緯。


 ――即ち、龍の造り方、その全貌と真実。


「それこそ非現実的です。あの時実験のため収集された魔力は、その実、収集などといった生やさしいものではありません。結果的にほぼ全員が命を落とすことになった、非人道的極まりない――」


 険しく厳しかったクラウディオの語気が、半ばで掠れ、ぷつりと途切れる。紅緋色の瞳に映りこんだ笑み、その奥に秘されていた国王の真意を察して、震える喉から懸命に声を押し出した。


「まさか……。貴方、この状況を待って……? 魔物化した民たちを、そのまま実験の生贄にするつもりですか……?」

「……だとしたら、どうするね?」


 瞬間、理から暴へ。みずから戦場を変えたクラウディオが、烈火の感情のまま魔力を滾らせる。

 それよりも早く伸びた触手が、雷と化そうと爆ぜたクラウディオの全身を押さえつけた。


「餞に教えてやろう。それを知った君が邪魔立てするこの状況も、すべて想定通りだ」


 龍を造るのみならず、龍そのものすら生贄と目論む実験であること。

 想像すら悍ましい計画を知ってしまったクラウディオは、しかし今や抗う術もなく、ただ歯を食いしばる。口惜しげなその表情めがけ照準を定めた触手どもが、もたげていた鎌首をいっせいに振り下ろした。


 ――よりも、早く。


 何処からか飛来した薄く鋭い風の刃が、獲物に食らいつく触手のすべてを切り裂き、早くも勝利に耽っていた国王の頬を横切った。ぱくりと開いた傷口から溢れた紅色が、人間の形を辞めた下半身へと流れ、伝う。


「そんな姿になっても、流れる血はまだ紅いんですね」


 壊れた照明が生んだ暗闇の先から、不敵な声が、次いで足音が姿をみせる。

 ややあって正体を晒したファウストに、国王が忌々しげに、クラウディオが弾むような、まさしく相反する反応を示した。


「貴様は……!」

「ファウスト主任っ!!」


 熱を取り戻した声を冷却するかのように、風がふたたび戦地を駆けた。クラウディオの四肢を拘束していた触手までもが破壊される事態に、国王がいよいよ臨戦態勢に入る。


「主任、いったい、なぜここに? どうやってこの場所を――」


 自由を取り戻したクラウディオが、かつての師のもとに駆け寄り、口早に問いかけを放った。忠犬のごとくその様子を億劫そうに一瞥したファウストが、すっと掌をもたげ、弟子の二の句を静かに遮る。


「……聞きたいことも言いたいこともありますが、まずはこの状況をなんとかしましょうか」

「はい! お供いたしますっ!!」


 子供のように目を輝かせたクラウディオが、痛ましい傷を忘れ去ったかのように生き生きと臨戦態勢を返した。その一方、沈む心情を如実に乗せたファウストの瞳の色が、変わり果てた国王の姿を流し見て、なお暗く淀んでゆく。


 メイベルが、フレデリカが、今この瞬間も絶望に抗い、見ず知らずの命を守るため奮闘している。

 その裏側で、彼女たちを守るべき者が、彼女たちが守り抜いた命を浪費している事実。

 非道な矛盾を目撃したファウストが、人里を見守るべく遣わされた龍にとっての最大の禁忌を、強く胸に刻みつけた。


 ――この国を、滅ぼそう、と。

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