9-44 悪魔
「どこまで行ってるんだろ、ポーラ……」
ぽつりと零れたヘイゼルの独り言が、手に持つカップの琥珀色をわずかに揺らす。その声を掬い上げたクラウディオが、ティーポットを傾けていた手を止め、慣れた様子で懐中時計を取り出した。
「……そうですね。もともと散策するのが好きな子ではありますが、状況も状況ですし、長い間ひとりにするのは好ましくないですね」
そう返したクラウディオは、色彩の薄い長眉をひそめながら、半端に注がれたカップを差し出す。言葉なくしてその意図を汲んだヘイゼルが、慌てたように鞄を手に取り、勢いよく立ち上がった。
「僕も探しに行きます」
奪われた先手に唇を開閉させたクラウディオは、しかし、ややあってゆっくりと首を振った。
「……あー、私としては、すれ違いを防ぐ意味でも、ここで待っていてほしいのですが」
「いえ、僕の結界魔法が捜索の役に立つはずです。あの子が近くにいればすぐに察知できますから、足手まといにはならないと思います」
ひと目、溌剌とした妹が放つ光に、儚くも覆い隠されてしまうような。そんな第一印象であった少年が、いま、黄金に似た色の瞳を煌々と輝かせ、不動の意志を突き刺すようにこちらを見据えている。
その所作に血の繋がりを垣間見たクラウディオが、ふっと表情をやわらげ、手に持っていたままのカップをさっと口に運んだ。
「わかりました。ただし、何か起こったときは私を見捨てて逃げることを約束してください」
「はい。承服はしませんが、約束します」
「……行きましょうか」
呆れたような、あしらうような、そんな年長者の返答に、ヘイゼルがむっと唇を尖せる。
その態度に、その言葉選びに、なるほど、これは兄妹だ、と。クラウディオが苦笑まじりの感情を口元に零しながら、そそくさと踵を返した。
親心にも似たそんな胸中を、年若いヘイゼルが察することなどできるはずもなく、ポーラによく似た荒々しい足取りで、暗闇に消える背を追いかけていった。
……
…………
………………
……………………
地獄絵図。
王都上空へ舞い戻ったファウストが目にした光景は、その一言に凝縮されていた。
腰を抜かした両親を指先でつまみ、変異を遂げた巨大な口腔へと放り込む娘。
半端に魔力を宿していたのであろう、魔物化が半ばで途絶し、その場から動くことも出来ずに食いちぎられる青年。
疑心暗鬼に駆られるあまり、魔物化の兆候すらない人間へ手当たり次第斬りかかる老婆。
恐怖と混乱、そして怨嗟が渦を巻くたび、生者が魔物へ、或いは死者へと成り果ててゆく。
視界の各所で噴き上がる血の色が、紅に染まる空色に照らされて輝き、さらさらと折り重なる雪景色を鮮明に彩っていた。
予想違わず、しかし後れを取った事実と、ゆえに起こってしまった惨劇を前に、ファウストは半ば無意識のままに、荒ぶる風の魔法を行使した。
この世でもっとも美しく、そして残酷であろう殺戮兵器。死に瀕する都に降りしきる粉雪を、巻き起こした暴風をもって強引に押し戻してゆく。それは、彼自身がかつて女王と定めた境界線への不干渉、その禁忌を明瞭に破る行為に他ならなかった。
自身と境界線への激情を身に宿したファウストの魔力は、粉雪を蹴散らし、それを運ぶ風が力尽きてなお強く吹き荒れた。上空に滞留していた高濃度の魔力ともどもが境界線へと送り返されると、不気味な色に塗り替えられていた空は、やがて澄みわたった本来の姿を取り戻していった。
「…………」
ややあって魔力を解いたファウストは、訪れた平穏に不似合いな警戒心を、彼方の境界線に差し向ける。
拒絶反応か、或いは純粋な第二波か。そう予見して身構えた不穏は、しかし予見だけにとどまった。代わって押し寄せた疲労に耐えながら、息つく間もなく地上へと向かった、直後。
「たす、け――」
猛禽の如く勢いで降り立った目前、掠れた悲鳴をあげる少女を目にした体が、残り少ない魔力を滾らせて地を蹴り出した。振りかぶった五指が刃と化して、哀れ、少女を胃袋におさめようとした元人間は、罪を重ねることなく切り刻まれ、魔力の粉となって四散していった。
「急ぎ王宮へと逃げてください。あの場所なら、まだ――」
振り返りがてら飛ばした決死の指示は、しかし半ばで凍り付いた。
見開かれた紅緋色の瞳に映りこんだのは、あらゆる理性を喪失した人外の半身。時間差で魔物へと変異をはじめた少女が、呆然と硬直したファウストめがけ、触発された本能のままに襲いかかったのだ。
「――――っ!」
不意を突かれたファウストが、不安定な体勢のまま身を捩り、強引に掌を突き出した。その先から迸った鉤爪状の魔力が、護ろうとしたばかりの少女の喉元を捉え、あまりにも呆気なく貫く。
瞬間、不穏をもたらす獣の咆哮が、耳を劈く絶叫にとってかわった。
「ぐっ……」
藻掻くたび広がる傷口から生暖かい鮮血が噴き出し、ファウストの全身を容赦なく塗りたくってゆく。不快げに細めた眼に流れ込んだ紅色が、鮮やかな彼の瞳を皮肉にも美しく際立たせた。
やがて絶叫が消え入るように途切れると、異形の巨躯は二度、三度と痙攣を繰り返し――
「……は?」
――人間のかたちを保ったまま、ファウストに寄り掛かるようにして絶命した。
触れた体はまだ温かく、透明な涙で滲んだ眼は、理性なき獣が持ち得るはずのない、恐怖と失意の感情を静かに湛えたままであった。
「…………」
瞳から流れ落ちた返り血が、涙のごとく頬を伝い、佇む靴先に斑を描く。
もう動かない"少女"を無言で地面に下ろしたファウストは、ふらりと顔をもたげ、阿鼻叫喚が反響する王宮への道を矢のような勢いで駆け抜けていった。
陰の射す目に"人ではない何か"が映りこむたび、流れる景色の端々に魔力の光彩が瞬き、四散してゆく。王宮へとひた走るその横顔には、不干渉を是と貫いていた自分自身への怒りと、不干渉を破ることを決意した強い意志が滲みだしていた。
「境界線……」
呻くような声とともに蘇るのは、遙かなる時をともに過ごした知己の顔ぶれ。
半生を費やした研究の場で好敵手として出会い、やがて将来を誓う仲となった女性、アルティア。
公人としてはいざ知れず、私人としては不出来なあれこれを確と支えてくれた研究者、アイゼン。
そして、肉親のように慕ってくれた弟子でありながら、その親しさが徒となるかたちで死なせてしまった青年。
『――今日から俺も主任って呼んでいいですか、ファウストさま!』
そう言って顔を上げるクラウディオの笑顔に、ポーラを想起した瞬間。
「……お前は、私から二度も故郷を奪うというのか……!」
かつての故郷シルヴィアが、嵐に睨まれた蝋燭の如く呆気なく滅び去った過去の光景が、眼前の惨状、その行く末と重なった。
……
…………
………………
……………………
「クラウディオさん?」
赤髪を揺らしたヘイゼルが、ふいに足を止め、彼方を見つめた背に呼び掛けた。
やや遅れ、ゆっくりと首を振ったクラウディオが、青白い表情に薄い笑みを浮かべながら振り返る。
「すみません。見知った人の魔力を感じたような気がしまして……ええと、どこまでお話しましたっけ?」
「国家が隠蔽していた人体実験について、までですね……」
応じた声に含まれた疑念が、誤魔化すように先を急ごうとしていたクラウディオの背を摘まみ、引き寄せる。ふわりと翻った白衣が、淡い光の射す通路の半ばを覆うように広がって、血色の悪いクラウディオの蒼白さをなお際立たせた。
気付かれたことに気がついたヘイゼルが、遠慮がちに引き締めていた口元をそっと解き、喉元でわだかまっていた疑問を言葉に変えて吐き出した。
「……あの。なぜ、初対面で部外者の僕に、これだけの秘密を明かしてくれるんですか?」
「初対面で部外者だからこそ、ですよ」
「え?」
上半身だけで振り返っていたクラウディオが、投げかけられた疑問符をかき消す甲高い靴音をたてながら、ヘイゼルに向き直る。溜息まじりに首を竦めるその仕草には、明瞭な自嘲と、それを上回る皮肉がたっぷりと込められていた。
「君ほどの魔力の使い手ならば、この王宮、ひいては国家が隠し持つよからぬ雰囲気を感じ取っていることでしょう。ここが伏魔殿であると知りながら、家族の身を案じて足を踏み入れる。そんな人間が、家族すら生贄にする世界の事情を知らないままでは、あまりにも、でしょう?」
狐を思わせるクラウディオの細い瞳に、その色を映すような烈火の魔力がじわりと滲む。
勘付いたというより、叩きつけられたとでも言うような。変化に乏しい感情のさなかに迫真を垣間見たヘイゼルが、その真意に向けてふらりと歩を向けた。
瞬間。
「「…………――!」」
喩えるのならば、空から夜が落ちてきたかのような。前触れもなく身を包み込んだ重く暗い魔力に、ふたりがびくりと顔を巡らせる。クラウディオに先んじて何かを捉えたヘイゼルの視線が、無機質な灰に塗られた壁の一点に吸い付き、愕然と突き刺さった。
「……何、ですか、これ……?」
龍という概念を知らぬまま、龍に愛でられて日常を過ごし、自身もまた類まれなる才覚に恵まれたヘイゼル。その身をもってしてなお非日常たる魔力が、胆力を示してみせたばかりの声を掠らせた。
幾百。幾千。或いは数万。莫大な種と量の魔力を無作為に混ぜ、力任せに詰め込んだ"何か"が、こちらを見つめ返しているような感覚。
未知に対する怖気に居竦むヘイゼルの一方、その正体を国王と心得るクラウディオもまた、無言で臨戦態勢をとる。
直後、四条の視線を一身に浴びた壁の一点が、前兆たる亀裂すらなく、瞬きのうちに文字通り吹き飛んだ。
「伏せてっ!!」
咆哮ひとつ、クラウディオの魔力が青白い迅雷となって、空を切って飛来した石片の全てを焼き焦した。瞬きの間もなく巻き起こった振動と轟音に、ヘイゼルの視界が瞬間的に遮断される。
じわりと晴れゆく景色の向こう側、真に見るべき悪魔が、異臭を引き連れて正体を現した、が。
有り体に言えば、それは生物のかたちを保ってすらいなかった。
切り刻まれた生肉と臓腑を、無垢な赤子が積み木よろしく山積させたような巨躯。
艶のある体表に脈打つ青は、生命力を象徴する血管の名残であろう。だが、その下に広がる肉体はひどく浅黒く、胴体にめり込んだ四肢がべたりと歩を進めるたび、端々から崩れてぼとぼとと腐り落ちる。そのたびに隆起を繰り返す体は、重心や均衡はおろか、前後左右すらも判然としない有様であった。
龍ではない。ましてや、人間であるはずがない。
正しく悪魔と呼ぶべきその存在と対面したヘイゼルが、言葉を失った唇から、無意識の感想を呟いた。
「……境界線だ……」
魔力に鋭敏な少年が呟いたのは、まだ真新しい先刻の記憶。
見上げた先、王都の空を覆い尽くす紅色の魔力から感じた、多種多様の生命を取り込んで輝く境界線の気配であった。
「…………!」
ヘイゼルの言わんとしていることを理解したクラウディオが、人の良さそうな眉を口惜しげに歪め、いよいよ人であることを止めた国の主をきっと睨み付ける。
数多の命を代償に、莫大な力を得た存在。
ファウストをはじめとする龍族、目の前に立ちはだかる怪物、そして境界線。
その全てが、経緯と外見が異なるだけの同種であることに、今更ながらに気付かされたのだ。
「……なるほど、私のこの感情は、ただの同族嫌悪だったんですね……」
化物を凌駕する巨躯を誇る境界線へと向けた自嘲の声は、だが、化物の無意味な絶叫にかき消され、背を向けたヘイゼルの耳に届くことはなかった。




