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境界線上の魔王  作者: 羽山一明
第九章 『昏き追憶の水底にて』
201/212

9-42 血の縁

 人類の領土の北部を占める国家ラフィアの、その北端。

 人類の席巻を阻むかのように聳える山脈の、その地下。

 広大な空間をくり抜いて建てられた王城の、さらに奥。


「……無知に幸福を見いだすことも、ひとつの選択肢であると思うがね」


 秘されていた研究所に響く二種の靴音に、重く低い老人の声が入り交じった。

 追い縋り、されど距離をおいて歩いていたポーラが、嘲るようなその言い回しにぴたりと足を止める。


「そんなこと、王族として――」


 咄嗟の反論を口にしようとした直後。視界の端、斜光を跳ねた硝子の円柱。きらりと映りこんだその内側に真っ赤な単眼を見いだして、憤然と開いた唇が声にならない声をこぼした。


 緩慢に振り返った老人が、暗がりのなか青ざめる少女を、そしてその視線を追いかけて、円柱のひとつへと歩み寄り、触れる。ふたたび影に閉ざされた硝子の向こう側、赤黒い蛇を連想させる紐状の何かが現れて、皺だらけの老人の指先へと手を伸ばした。

 それを追いかけるように、影の中に溶けていた巨大な輪郭線が、水気をともなう音を連れて、こちらへ這い寄ってくる。


 ずるり、ずるり。重さと粘度を伴う何かが、硝子の円柱の薄い表層をべたりと覆い尽くす。立ち尽くすポーラの背筋に得も言われぬ悪寒が走り抜け、彼女はそのまま無意識に後ずさった。

 一歩、二歩。蒼白のままに靴を滑らせた彼女は、しかし暗闇の中に潜んでいた別の円柱にぶつかって、反射的に振り返り――


「ひっ!!」


 ――闇に慣れた目が、薄い硝子に閉じ込められていた"人ではない何か"を明瞭に捉えた。


「今の悲鳴は、どちらの意味だね?」


 硝子に寄り掛かった赤黒い"何か"を背に、老人が事もなげに問いを投げ放つ。

 真意はおろか、意図の推量さえかなわないポーラは、錯乱のままにその場で震え、黙することしかできない。場違いかつ無垢、そんな少女に向けて、老人が乾いた溜息を吐き出した。


「……本当に何も知らんのだな。大方、この場を突き止めたのも偶然で、覚悟に見えた意気も単なる虚栄心であろう?」


 ふたたび、沈黙。

 言外に期待外れをあらわにした老人が、首を振りながらのそりと踵を返した。


「去るがよい。このまま君を受け入れたとて、互いの利益にはならんだろうからな」


 瞬間、影の中で俯き立ち尽くしていたポーラが、ぐっと拳を握りしめた。

 ひたひたと重なる老人の靴音が響くなか、恐怖と戸惑いに包まれていた感情が、やがて自責の念に色を変え――


「ふざけないで」


 ――滲みだした怒りとともに、ポーラは勢いよく顔をあげた。


「私だって王族よ。自分の無知を損得ごときで容認するほど、無責任でも臆病でもいられないの」

「ほう……?」


 嘲るように振り返った老人は、しかし前触れもなく足元を滑った冷気と、不意に騒ぎ始めた異形たちの反応に、はたと表情を改めた。

 視線の先、小さくか細い少女の全身から、触れるものを凍らせる絶対零度の魔力が溢れ出している。その身はなお微震を続け、堅い床を踏みしめる脚は、突風に立ち向かう小鳥の如く頼りない。一方で、淡い焔を思わせる橙黄色の瞳は、恐怖心を焼き尽くす敵愾心を滾らせながら、老人を見据えて微動だにしない。

 未熟な精神と相反した強固な意志に。何より、主を守るかのように顕現した魔力の精度と速度に、老人の口元がにやりと綻んだ。


「なるほど。覚醒前でその魔力なら、無知のまま育てる判断にも頷ける」

「……覚醒前……?」


 またしても不可解な呟きをこぼした老人は、白衣に付着した霜を手で振り払いながら、ひとり満足げに暗がりの奥へと歩き去ってゆく。

 自己完結きわまりないその態度に、わずかに緩んだポーラの感情がふたたび怒りをまとった。


「ちょっと!」


 烈火の如く跳ねた掛け声ひとつ、ポーラはみずから凍らせた床を勢いよく踏み抜いた。薄く張っていた準透明の氷が打ち砕け、映り込んでいたポーラの凛とした表情が、硝子の割れる快音とともに蜘蛛の巣状にかき消された。


「はぐらかすのはやめて、ちゃんと説明してくれない? それとも、私の反応を見て楽しんでるだけ?」

「……まあ、そう急くな。事実とは過去だ。過去は急いても逃げはせん」

「~~~~っ!」


 急かすような真似をしたのはどっちだ、と、ポーラは内心で舌打ちを打った。忙しげに早めた足並みが、どこまでも緩慢に先を行く老人のそれと噛み合わず、ポーラの内側に赤熱化した苛立ちが湧き上がってゆく。それに応じるように滲みだした氷の魔力が、昂ぶる主の体温をゆるやかに鎮めていった。


「…………」


 老人の背から、代わり映えのしない周囲の景色へ。

 冷えた靴音だけが響き渡る無為な空間のなか、平静を取り戻したポーラの警戒心が徐々に視野を広げ、止まっていた頭脳が現状分析へと切り替わる。

 謎めいた老人の言葉と、異形としか表現しえない何かの生命体。虎穴はおろか冥府を思わせる窮地の半ば、少女の思考が、みずから名乗りを上げた王族にふさわしいものへと、自然と方向を転じていった。


「(……また一体。最初の二体を含めて、これで五体目。思ってたよりは少ない、けど……)」


 老人を追随する道程、視界の端に垣間見えた、異形なる存在。足を踏み入れるほど、その数は加速度的に増すのであろう、と身構えていたポーラの予想に反し、壁に並ぶ円柱の数々の殆どは沈黙を保ったまま、廃墟を思わせる背景に溶け込む質素な装飾品と化していた。

 稀に見かける個体はといえば、硝子に張り付き襲い来る様子などはやはり無く、顔か胴体かの判別すらつかない巨体をじっとこちらに向けるのみである。当座の脅威にはなりえない安堵の一方、クラウディオが厳に禁忌としていたその意図がいまだ掴めず、内心にわだかまる不安はより不鮮明になるばかりであった。


「(……魔物を無力化する実験? でも、それだけじゃ私をのけ者にする理由にはならないし、むしろ堂々と実験成果を公開したほうが賛同が得られるんじゃ……?)」


 眉根に皺を寄せて考え込むも、納得のできる推察に辿り着くことはかなわない。思慮がいよいよ混迷をきわめる頃合、一定の調子を続けていた老人の足音が、ひとつ音高く鳴り響き、静止した。

 持ち上がった視線の先、行く先を阻んでいた乳白色の壁に、ポーラがはっと研究所の入り口を思い起こす。その表面に伸びた老人の手が、焔を思わせる真っ赤な魔力を浮かべた直後、何の変哲も無い壁に音もなく亀裂が走り、滑るように口をあけた。


「何も、嫌がらせのために黙っていたわけではない」


 姿をみせた部屋に足を踏み入れた老人が、様子を窺うように立ち尽くすポーラに視線を向けた。きっと睨み返しながら追従したポーラは、その向こう側、薄ぼんやりと浮かぶ巨大な硝子の壁をみとめて、小さな眉をはたと寄せた。


「君は『習うより慣れろ』という考え方の持ち主だろう。見ず知らずの私の口から細々と説明するより、自分自身の五感を働かせて確かめるほうが性に合っている。なればこそ、何よりも先に真実を見せるべきだと判断したまでだ」


 言うなり、老人はゆっくりと身を横に寄せ、奥に座する巨大な硝子を手のひらで指し示してみせた。開けた視界の向こう側に、魔物の食餌だろうか、臓物と生肉が入り混じったような物体が積み上がっている。

 さあご覧じろ、とでも言いたげな老人の態度に、すべてを見通しているかのような口ぶりに、誘われたポーラがむっと唇を尖らせる。


「よくご存知ですね。私のことを歯牙にもかけない割に、随分と念入りに調査されているご様子で」


 慇懃無礼な牽制の一撃は、だが、老獪な鉄面皮に当たってむなしく砕けた。わずかに光量の増した部屋の中、細めた老人の瞳が、ポーラと同じ色の光の輝きを湛え、瞬く。


「……面識がないとはいえ、同じ血の流れる孫娘のことだ。何も知らぬほうがむしろ不自然であろう?」

「はっ……?」


 孫娘、と。不意に告げられた言葉を確かに耳にしながら、ポーラの無意識が理解を拒絶した。意味のない吐息を放った少女を一瞥した老人が、視界を埋め尽くす硝子の壁へと歩み寄り、音高く小突く。


 乾いた余韻、のちの静寂を、浅く早いポーラの呼吸音が埋める。

 二度、そして三度。ふたたび訪れた無音の空間を、地を這うような重低音が跡形もなくかき消した。


「起きろ。無垢な末娘が、わが王家の真実を知りたいそうだ」


 硬直したポーラの視界の先、うず高く積み上がっていた肉の塊が揺らめいた。重低音に次いで、濡れた衣服を引き摺るような嫌な音がべたりと耳朶を打ち、穢れのない橙黄色の瞳が、艶を纏う臓腑の紅色に塗りつぶされてゆく。


 そして、ポーラは目にした。

 全景を晒した巨大な異形の、その真芯。

 肉に飲まれかけた、斑点のようなふたつの穴の奥。自身の瞳と色彩を同じくする橙黄の光を。


 そして、察した。

 その身に纏う魔力の気配から、かつて人間であった化物の正体を。


 ……変わり果てた、父の姿を。

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