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境界線上の魔王  作者: 羽山一明
第九章 『昏き追憶の水底にて』
199/212

9-40 雪化粧

 公路を覆う豊かな緑は、王都を彩る仮初の演出であった。

 その色は、王都からの距離と比例して薄れゆき、やがて寂れた軍事拠点の点在する荒野が巨体を晒す。

 無彩色の景色を横目に道をゆき、やがて国土の半ばにまで至ると、丘陵や盆地といった地形の変化すらもいよいよ乏しく、遥か東に聳える山脈を仰ぐほか見るもののない、冷たい死の世界が広がっている。


 およそ十八年前、ラフィアの国土を侵した境界線の魔力は、かつてそこに点在していた森林や湖水といった大自然を容赦なく飲み込み、今なお無言の圧力を以て揺蕩っていた。

 無論、生命の気配など微塵もなく、吹く風すら彩を奪われる無色の空間が横たわるのみである。

 

 そんな世界を見下ろす、薄紅色の魔力に濁らされた薄雲――の、さらに上空。

 くぐもった景色を切り裂くように駆ける、二条の光があった。


 高く、どこまでも高く。神秘性の糸を引いて駆ける螺旋状の軌跡は、だが直後、魔法が解けてしまったかのように急減速をはじめた。溢れんばかりの光が薄れた向こう側、脱力するように動きをとめた片割れに向けて、連れ添うファウストが空中で身を翻す。

 流れ伝う尋常ならざる量の汗に前髪を磔にされながら、メイベルが口惜しげに顔を持ち上げた。


「……大丈夫、です……っ!」


 何かを言いかけたファウストに先んじて、メイベルが過呼吸まじりの声をあげる。意地で塗り固められただけのその表情は、だが、諫める声を耳にするより早く驚愕を形作った。

 小首を傾げたファウストの眼前、メイベルの焦点が遙か彼方へと定まってゆく。


「ファウストさま、あれ……」

「? 何を――」


 話を逸らすようなその所作に、訝しみつつも振り返った、先。

 視界の下半分、荒廃をしめす土色が広がっているはずの地上は、どす黒い紫色の魔力を纏った魔物の群行に。

 そして上半分、隣国ルーレインを見晴るかすはずの国境は、境界線の稚児ともいえるような淡い銀色の壁に、その一面を侵食されていた。

 ゆっくりと北上する魔物たちに目を凝らせば、肥大化と変質を重ねるその表皮と、地ならしのような足跡の所々に、千切れた銀色の装具が見える。

 その光景に事態を悟った瞬間、ふたりは同時に顔を見合わせ、同時に頷いた。


「メイベル、まずは彼らの侵攻を止めましょう。私は西方から、貴女は東方から、挟撃するように――」

「いえ、ファウストさまは境界線の調査へと向かってください」

「は?」


 フレデリカを安心させるため、無理を通して断行した高速飛翔魔法の連続行使。

 本来であれば、詠唱者の体を地上から地上まで送り届けるはずの魔法が、経路も半ばで終わりを迎えたこと。

 その現状が、すでに彼女の限界を物語っている。にも拘わらずの反発に、返すファウストの声が明瞭な棘を帯びた。


「……可か不可か、の問題ではないのです」


 応じたメイベルが、静かに呼吸を整えながら応えた。霞んだ目に薄い笑みを乗せながら、視線だけは凛と上官に重ねる。


「目の前に広がっているこの惨状が本命とは限りません。因果関係などを含めた事態の本質や、二次災害を考慮した多面的な規模の推量など、すべきことは溢れています。今ここで優先順位を決断するのは早計であり、真に優先させるべきは現状把握であると具申します」

「……それは……」


 ――貴女を見殺しにするということではないのか。


 脳裏に浮かんだ言葉が、事実であろうその予測が、ファウストの眉目を痛烈に歪ませる。

 斜め下に逸れた視線が、暗雲のように地表を汚す魔物の群れの行く先をわずかになぞった。

 何者かの意思によるものか、或いは帰巣本能めいたものがそうさせるのか。いずれにせよ、万を数える元兵士たちは、いずれ王都に辿り着き、ラフィアはラフィアを守るべき者たちの手によって滅亡するであろう。

 まさに災害と呼ぶべき波に立ちはだかる者が辿る命運は、想像に難くない。


「それに、あの一群の中には私の部下もいるでしょうから。彼らの上官として、始末はつけねばなりません」


 仄暗い想像を前に、それでもメイベルは笑った。

 虚勢を張ったものではなく、形を作ったような笑みでもない。

 絶望の奥に希望を見るための笑みである、と、ファウストは根拠もなくそう確信した。


「龍の使命に背を押され、人を守るのではありません。傭兵メイベルとして与えられた職務を全うする、それこそが、私が今、人として生きるために必要な行動だと思うのです」


 言い終えたメイベルは、覚悟を眼光に乗せて口を噤み、ただ風に吹かれるままに時を待った。

 押せど突けども揺るがぬであろうその姿勢に、ファウストは静かに天を仰ぎ、遠い目を遙かに投げかける。


「……ごめん、アルティア……」


 囁くような懺悔が、初代女王の名を小さく添える。

 微かに聞こえた言葉の意味が理解できず、小首を傾げたメイベルに、魔力を湛える手のひらが向けられた。


「貴女の意見はよくわかりました。では、どうぞこちらへ」


 ふいに冷感を帯びたファウストの呼び掛けに、メイベルはびくりと身構え、ながらも従った。

 胸元に翳された手のひらが、魔力の扱いに長けた彼女ですら耳にしたことのない詠唱とともに、七色の光を帯びる。膨張したその光がメイベルの体内に触れた、瞬間。彼女の周囲に時計のような模様がひとつ、またひとつと浮かび、文字盤をぎしりと逆転させては消えていく。

 不可解なファウストの魔法、その効用を問うべく開かれたメイベルの唇が、質疑の代わりにはっと吐息を吐き出した。


「貴女の時を一刻ほど遡らせていただきました。これで魔力はある程度戻ったはずです」


 言い終えぬ間に、辛うじて浮遊を維持していたメイベルの体が、淀みない均衡を取り戻す。見つめた両掌から、次いで全身から、漲るような魔力を自覚したメイベルが、頭で理解の及ばない説明を肌で理解する。


「……時を……?」

「はい。私はそう推測しています。莫大な魔力をねじ込まれた原初の龍だけが宿した、解析や再現の不可能な魔法。死の概念にすら逆らいうるゆえに、女王さまとともに禁忌と定めた異能。つまり……」


 ぷつりと途切れた言葉の尾を、蠢く魔物たちが起こす地鳴りが掻き乱す。微震を浴びた靴先の向こう側、地獄絵図の如く窮地を背景に、ファウストはただ静かに微笑んだ。


「……これで私も共犯者です。どうぞご存分に、ご自身の生を全うしてください」


 間接的に告げられた認可の言葉に、メイベルは二度三度、信じられない、とでも言いたげに目を瞬かせ、拒絶の返答に身構えていた体をふっと脱力させた。


「変わりましたね、ファウストさま」

「? 変わった? 何がです……?」

「全てが、ですよ」


 くすりと微笑みを返したメイベルの足取りに、そしてその表情に、先ほどまでの曇りはみられない。軽やかに空を蹴ると、目を瞬かせたファウストの傍へ、見上げるように身を寄せる。


「出会ったばかりの貴方ならば、私の感情など度外視し、迷いも躊躇いもなく大局を見据えていたことでしょう。以前、私の変化について触れられていましたが、貴方も同じく人間に影響を受けていたのですよ」

「…………」


 押し黙るファウストの脳裏に過ったのは、人間に裏切られた恋人を救うため、人間を辞めることを選んだ、遙か過去の出来事。

 紛れもない善意から始めた研究を悪意によって歪め、あまつさえ、異能を得たと知った途端に手のひらを返し、利用すべくすり寄ってきた、人間の弱さと恐ろしさ。

 そして、絡み合うその感情に忘れかけていた、はじまりの記憶。


『――この研究が、沢山の人の幸せになってくれるといいですねえ』


 初代女王。

 後にそう呼ばれることとなる恋人の声が、その思いが、永い時を越えて鮮明に蘇った。


「……ふっ……」


 裏切られることを怖れ、無意識に人間と距離を置き、結果、思い人の信念にすら背を向けていたことに気がついたファウストが、自嘲のあまりに苦笑をこぼす。

 去来する感情を整理した手のひらが、予想だにしなかった反応に眉を寄せるメイベルに、ゆっくりと差し向けられた。


「変わったのではありません。元に戻ったのですよ」


 別離を告げるための所作と、憑きものが落ちたような澄んだ一声。

 その手を、その顔を、交互に見やったメイベルが、応じる手を持ち上げながら口元を緩めた。


「ふふ、それはよかったです。初めてお目にかかった時は、なんと頑固で卑屈なお方でしょうか、と、幸先が不安で仕方が無かったのですが……」


 繰り返される別れに、悲劇ともいえるこれからの命運に、メイベルは今、この瞬間だからこその本音を重ねた。


「今は、貴方とともに戦えたことを、とても誇りに思います」


 花を咲かせた笑みをその場に残し、メイベルは強く結んだ手を開いた。

 足取りも軽やかに、死地へと身を投じた彼女を一瞥したファウストは、一呼吸、嬉しそうに緩めていた表情を引き締め、無言を貫き聳える境界線を険しく睨めつけた。


「さて、と……!」


 無言で纏った風の矛先を視線に重ね、一息を挟んで解き放つ。放たれた弓矢の如く勢いで境界線へと迫ったファウストは、だが、その偉容の膝元に辿り着くまでもなく、辺りを包む強烈な違和を感じ取った。


「…………?」


 無理やりに喩えるのならば、蛇の群れに身を浸すかのような。ぬらりと重く生ぬるい空気が、身の毛のよだつ嫌悪感とともに押し寄せてくる感覚に、身構えていた口元がなお強く一文字をえがいた。

 むせ返るような不穏さを振り切って突き進むと、空を覆い尽くしていた赤黒い魔力もいよいよ濃度を増しはじめ、吹き荒れる向かい風に乗って侵入者の行く手を阻んだ。無色透明であるはずの魔力が飽和し、可視化されるその有様が、目的地が近いことを否応なく知らしめてくれる。


「なっ……!」


 そして辿り着いた境界線の光芒、その奥に広がる長大な河川は、ファウストの想像を遙かに超える様相へと変質を遂げていた。


 いかなる時も泰然と凪いでいたはずの水面は今や面影もなく、溶岩を思わせる真っ赤な水を煮えたぎらせながら、魔力を上空へと立ち上らせていた。焦点をわずか逸らせば、小山を飲み込まんばかりにうねり立つ白波たちが、我も我もと川辺に身を叩きつけ、同じく魔力を拡散させている。

 瞬いた視界のさらに奥、フェルミーナ方面へとまっすぐに伸びる西部、ならびにラフィア国土に寄り添う北部は、見慣れた沈黙をただ厳粛に保っていた。今、この場にのみ限定された嵐の如く変貌が、経緯を知るはずのないファウストの思考に、フレデリカに語った『第三者が境界線の不興を買った前例』が浮かぶ。


 境界線みずから、およそ人智の及ばない存在であることを見せつけてくるような。

 何らかの意思が介在している、と思わざるを得ないほどの光景が、しかし却ってファウストを冷静にさせた。


 目の前の事態が、自然現象とは一線を画する、きわめて明瞭な境界線の意思によって成り立っているものだとするのならば、と。巡らせた思案と推論が、荒れ狂う境界線の眼前で、音を立てて形を変えていく。

 立ち上る魔力、吹き荒れる風と、汚染された空。

 龍族ですら目眩がするほどの魔力の暴風雨。発生の経緯はさておき、ほど近い場に居合わせたラフィア兵が巻き込まれたことは、むしろ必然の流れであろう。

 しかし。


「それが本命ならば、今なおこの異常が続く意味が――……」


 呟きを阻害した閃きが、並べた材料を無意識に組み替える。

 憶測に憶測を重ねただけの――しかしながら、極めて正鵠に近いであろう――最悪の想像。


 ラフィア兵たちの身を襲った不運が、真に無意味な巻き添えであったとするならば。

 ……異なる目的をもって吹き荒れる風と、道中をともにしただけであったのならば。


 仄暗い思案から逃げ出すように、ファウストは上空へと舞い上がった。身を守ることのみにとどめていた魔力を一気に滾らせ、異常事態の根幹たる景色を、視力ではなく魔力でもって見渡す。

 果たして、魔力を連れて吹く風のすべては、するどい鏃の尖端を、まっすぐに北へ、北へと。その遥か先にある、今や唯一の都へと突きつけていた。


「まさか……」


 瞬間、弾かれたように迸った魔力が、ファウストの全身を半ば強制的に彼方へと追いやった。

 三度目の高速飛翔魔法に霞む意識のなか、彼は己の杞憂を懸命に願った。


 前例に基づいた、己を傷つけた者への境界線の復讐という仮説。

 その傷が、ラフィアという国家すべてを飲み込む規模のものであったのならば、と。


 ……そして、同刻、王都にて。

 鮮やかに輝く紅色の空を仰ぎ見る人波、その視線の向こう側から、ひときわ巨大な厚雲が姿を現した。

 物珍しい空模様を遮る邪魔者の影に、人々が流れるように踵を返した、直後。


 はらり。


 無彩色となった空から、紅色の粉雪がひとひら、舞い落ちた。

 それを見やった子供の無邪気な歓声に、人々はふたたび足を止め、身を翻し、めいめいに空を見上げる。ほろほろと降り始めた雪は、雲の隙間からこぼれた紅を浴び、見るも珍しい雪化粧となって、人々の感歎を誘った。


 美しい光景のなか、初めて声をあげたひとりの少女が、最初の一雫のもとに駆け寄り、まだ小さな両の手のひらで嬉しそうに掬い上げ――


 ――切なるファウストの願いは届かず、おぞましい予感は的中した。


 我が身を傷つけた兵士への報復に飽き足らず、同郷をも巻き込んだ境界線の怒り、その尖兵たる粉雪に触れた無辜なる少女の上半身が、乾いた破裂音とともに人であることを辞めた。

 瞬きのうちに異形へと化した少女を、ただわけもわからず見つめた人波の頭上へと、街並みへと、降り始めた雪化粧が静かに飾る。


 はらり、はらり。今、静かに。

 ただ、静かに、滅びを告げる。

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