9-38 正体
茜色に染まる街、立ち並ぶ屋根を跳ねる軽やかな靴音が、心地の良いリズムを奏でる。
視線の群れも、驚嘆の漣も、風のように上空を駆るフレデリカの耳には届かない。見上げた民衆は、異様な空へと向かうその残影に、さざめく動揺をただ重ねることしかできなかった。
「この感じ、久しぶりやなあ……」
独り言を呟くフレデリカの口元が、剣を捨て生きることを決めて以来、決して見せることのなかった、不敵な笑みに緩む。
身を切るような冷気が、死地へと向かう緊迫感と複雑に混ざり合い、針の如くするどく肌を射る。久しく覚える感覚に、心の奥底から湧き上がる高揚感に、フレデリカは自身が戦場にて生きる人種であることを改めて実感した。
やがて、見据える景色の人工的な凹凸が、風に揺れる大自然の情景に取って代わる。
聳える門の付近、行き着いた人の群れを横目に街を飛び出した彼女は、なだらかな傾斜のある公路を道なりに進み、人目が途切れる頃合を見て立ち止まった。
「……ん。大丈夫そうやな、ほんで……?」
勢いのまま駆け抜けた脚を休め、深呼吸をひとつ。
緑の香りで満ち満ちた肺と、指先から感じる胸の鼓動。昂ぶりながらも衰えはみられない身体にほっと安堵を挟み、思い出したように辺りを見回す。
道沿いを駆け抜けるにせよ、最短を狙って空を翔るにせよ、その軌跡には必ず風魔法の名残がある。
まずはそれを手がかりに、と凝らして配らせた琥珀色の瞳は、しかしすぐさま不満げに形を歪めた。
「こっちは大丈夫どころやないな……」
呟きがてら、木々に縁取られた赤い空を忌々しげに見上げる。
喩えるのならば、それはさながら雷雨の如く。激しく降り注ぐ歪な魔力を前に、色濃く特徴的であるはずのメイベルとファウストの気配が曇り、探せども探せどもいっこうに捉えられない。
ならば空から、と展開した風魔法は、同じく正体不明の魔力にずしりと阻害され、しとどに濡れた衣服のように重苦しい。ぬるい溜息を全身で吐ききったフレデリカは、意気揚々と纏っていた雰囲気はどこへやら、首を左右に振ってがっくりと肩を落とした。
「あー……こら、間に合わんかったか……?」
落胆を隠し切れない声をこぼしながら、致し方ない、と踵を返す。
物悲しげなその背が、ひとつ吹き抜けた葉風に添えられた微かな音色を拾い上げ、はたと動きを止めた。
「んん……?」
訝しむよりも先に翻った身の赴くまま、フレデリカは森の中へと足を踏み入れた。
不気味な空色をやわらげる薄暗さのなか、朧気に聞こえた音の再訪を願いながら、辿々しく進んでゆく。
奇異な巡り合わせか、はたまた魔力の感覚を越えた直感によるものか。
暗中模索は、彼女自身にとっても意外に過ぎる速度で成果を得た。
「……はり――返し――」
寄り添うように立ち並ぶ幹の奥から、覚えた違和を裏付ける話し声が漏れ聞こえる。
切れ切れながら耳馴染みのある男女のやり取りに、フレデリカは茜射す顔を思わずほころばせ、重く沈めていた足を速めた。
「……――で――リカ――」
声を掛けようと口を開いたその矢先、耳に滑り込んできた自身の名に、彼女は反射的に身を隠した。
盗み聞きの罪悪感を押し退けた好奇心のまま、小さな背を太い幹にぴたりと隠し、息を潜めて耳を傾ける。
「これから先に待ち受けているのは、龍たる私たちとて生死の保証のない激戦です。いま、ここを発てば……」
「だからこそ、ですよ。再会を約束してしまうと、覚悟が揺らいでしまうでしょう?」
(……龍……?)
見当のつく文脈の一点、ひときわ耳に残った聞き慣れない単語に、フレデリカの眉が険を形作る。
生い茂る灌木の隙間、こっそりと覗かせた瞳が、目を伏せるメイベルと、それを嗜めるファウストを交互に見やった。
「……それを言うのならば、心残りがあるのはファウストさまも同様ではないのですか?」
「私はよいのですよ。各地に身を伏せ監視することを責務と課して二百年。人間との別れには慣れていますからね」
(監視……? 二百年……? 人間との、って……?)
交わす声と表情の迫真さが、不可解な言葉に不穏を上乗せする。
何一つ明らかにならないまま紡がれていく会話に、フレデリカはいよいよ本来の目的を見失い、ただ静かに会話の終着を待つ傍観者に徹した。
「貴女は違う。まだ年若い。それに、フレデリカさんのこともそうですが、ヘイゼルも――」
「――やめてください!」
ぽつりと零れたその名を遮るように、向かい合うメイベルが声を荒げた。
みじかい沈黙ののち、長く重いファウストの溜息が、怒りに打ち震えた残響をすっと押し退ける。
「……言っておきますが、この提案は私の思い込みでも、ましてやお節介でもありませんよ。貴女は人として生きることを選び、その道中で彼に恋をしました。そして彼もまた、貴女を意中の人と定めています。これを忘れ出立することを、後悔と呼ばずしてなんとするのですか?」
諭すような言葉に応じる声はない。だが、じっと伏せたメイベルの横顔に浮かぶ恋煩いの色が、覚悟の薄膜に隠していた彼女の本心を如実に語っていた。
やがて顔をあげたメイベルは、細く長い金色の眉を八の字に曲げ、何かを堪えるように口元を引き締めながら、小さく首を左右に振ってみせる。
「最初は、私もそう思っていました。ですが、近づけば近づくほどに、知れば知ろうと思うほどに、その度に見える種の壁に、現実を見せつけられてしまうのです。私が――」
辿る言葉に、咽ぶ音が絡みつく。
口に出してしまえば、触れていなかった現実が真実に変わってしまう。
ゆえの躊躇いを挟みながら、それでも彼女は、続く言葉を涙に乗せて吐き出した。
「――私が、人間ではない、ということを」
……
…………
………………
……………………
「先生ー! ちょっと冒険してきてもいいー?!」
クラウディオに案内された先、両開きの扉を押し開いたポーラが、答えを待たずして駆けだした。
王宮そのものが地下空間にある都合上、外観から正確な規模は窺えない。しかしながら、覗き込んだ先に広がっていた空間は、私室という表現におさめるには広大に過ぎた。
「……いや、構わないけど、研究室には入らないようにね」
「わーい!!」
年齢のわりに大人びている妹が見せる年相応の振る舞いに、彼女に押し切られるかたちで同行したヘイゼルの警戒心がわずかに緩む。が、傍らで笑む男の姿を視界に捉えると、思い出したかのように気を引き締め直した。
「さ、ヘイゼル君も、どうぞ」
「……はい、お邪魔します」
決して背を見せぬよう、そうっと潜った扉を後ろ手で閉める。それを意にも介せず背を向けたクラウディオが、「少し待っていてください」と小さく言付け、横合いに伸びた通路のひとつへ姿を消した。
「…………」
遠ざかる足音に耳を澄ませながら目を配らせるも、こっそりと魔力の気配を探って見るも、取り立てて変わった点はみられない。
やけに広い居間の中心には、羊毛らしき灰色の絨毯と、重厚な光沢が鮮やかな胡桃のローテーブル。それを挟むように向き合うベージュのソファがあるのみで、他に目に映るものといえば、気まぐれに点在するサイドボードと、壁際を埋める書架くらいのものであった。
ポーラが走り去った奥の空間は、いよいよ更地のごとく何もなく、木目の表情豊かな無垢の床材と、梁が目を引く天井だけが、ちらりと見える上下階段までの間を埋めている。
「すまないね。何もないところで退屈だろう?」
いつの間にやら舞い戻ってきたクラウディオが、未だ玄関に立ち尽くしていたヘイゼルに声を掛けた。片方のカップをすっと掲げ、テーブルに置いたそれを手のひらで勧めてみせる。
「いえ、そういうわけでは……」
ぎこちない所作で腰を下ろしたヘイゼルが、湯気の昇るカップを事もなげに啜る目の前の男に、矢の如くするどい視線を投げかける。それに気付いてか否か、カップをかたりと下ろしたクラウディオが、貼りつけたような和やかな笑みを投げ返して見せた。
「……さて、それで、君は僕に何を聞きたいのかな?」
瞬間、強張っていたヘイゼルの全身が、びくりと反応をしめす。
「何のこと、でしょうか……?」
平静を装ったはずの声は、しかし看破されていた焦燥を前に、呆気なく動揺をあらわにする。堪えるように力を込めた指先が膝を鷲掴みにすると、放射状に捩れた布地がぎしりと悲鳴をあげた。
「いえ、何か聞きたそうな顔をしていたような気がしたので、つい。緊張させてしまったのならすみません」
決死の覚悟と抵抗を見せるヘイゼルの一方、悠々と両手を持ち上げたクラウディオが、降参めいた仕草を示してみせる。
突きつけた敵意にすら気遣いを見せつけるその余裕に、ヘイゼルは自身が噛みしめていた根拠のない反抗心が、言いようのない恥じらいに変わっていく実感を覚えた。
期せず脱力した体が、懸命に押しとどめていた魔力をじわりと滲ませる。目の前、ただ微笑むクラウディオの魔力に触れた感覚が既視感に辿り着き、ヘイゼルは半ば無意識的にその心当たりを口に出した。
「……ファウスト先生……?」
独り言のようなそれを拾い上げたクラウディオが、かるく腰を浮かせて身を乗り出す。
「ファウスト主任のことについて、ですか?」
「あ、いえ……え? お知り合いなんですか?」
まさかの共通項を見いだしたヘイゼルが、声の語尾をあからさまに上ずらせる。緊張を脱したゆえか、掠れた喉を手でおさえたその所作に、クラウディオがはたと小首を傾げ、何かを悟ったかのように小さく頷いた。
「失礼、無糖はお好みではありませんでしたか。今、ミルクと砂糖を……」
「いらないですっ!!」
斜め上の生真面目さまで恩師に似たクラウディオの気遣いに、ヘイゼルはいよいよ赤面した。カップを勢いよく引っ掴み、飲み干した液体の熱さと苦みに耐えながら、鼻息も荒く正面を見据える。
クラウディオもまた、ヘイゼルの意地の張り方にポーラの面影を重ね、くすりと零れた笑みを誤魔化すように話題を戻した。
「知人といえばその通りです。もう少し正確に言うならば、あの方が上司で、私が部下、といった関係ですね。むろん、過去のお話ですが」
「はあ。上司、ですか……?」
「……君も、なかなかに歯に衣着せぬ物言いをしますね」
話の真偽はさておき、ひとまずファウストの人柄に上司という単語を結びつけることに失敗したヘイゼルが、声と態度でわかりやすく疑問符を呈した。同調するようなクラウディオの苦笑を前に、むしろ「何がおかしいのですか」と言わんばかりに真顔をもたげてみせる。
「いえ、凄い方なのは承知の上なのですが、生活力のなさだったり、つい、そういうところばかりが目に留まって……」
「そこは、まあ、はい。むしろ生活力という概念のほうから逃げ出しそうなお方ですからね」
「ふふ、本当、そうですね……あれ?」
あどけない笑顔を浮かべたヘイゼルが、その半ばでふと目を瞬かせた。
「……先ほど、研究室、と仰っていましたが、クラウディオさんは当時の研究を今も継続なさっているのですか?」
「そうですね。機密がありますので詳細は明かせませんが、私は……」
直後、クラウディオの唇が、「は」の形のまま微動だにしなくなった。天井を、床材を、何かを思い悩むように泳いだ視線が、ややあって訝しむヘイゼルをまっすぐに見据える。
「すみません。やっぱり、これ以上は機密とさせてください」
「えっ……?」
それはさながら、ちらつかされた餌を取り上げられた猫のように。
ヘイゼルが、行き場を失った好奇心をわかりやすく反応に変えた。
「私の身の上を訊ねるということは、つまり主任の身の上をご存じない、ということですよね?」
「……それは、はい、そのとおりです……」
「でしたら、ここで私の口から何かを語るわけにはまいりません」
誘導めいた会話にて、ファウストの過去を覗こうとした目論見は、しかし呆気なく看破、棄却された。
紅玉を溶かし込んだような色を映したクラウディオの瞳が、読点ごとに声を落としたヘイゼルをすっと見据える。
「身の上とは、いわばその人の機密です。主任が、決して短くない付き合いである君に語らぬことを選んだのであれば、私がその意を破るわけにはいきませんからね」
訥々と、粛々と、教え子を嗜めるように。
一度は敵と定めたはずの相手に指導を受けたという事実が、ヘイゼルの肩を口惜しげに落とした。
目に見えるその落胆に気を使ってか、クラウディオが小さく「すみません」と前置きし、伏せた耳目の注意をさりげなく引きつける。
「意地悪で言っているわけではないのです。むしろ、主任は君を大切に思っているからこそ、口を噤んでいるのだと思いますよ」
「大切に……ですか? でも、信頼に足る相手には、何かしら身の上を語るものではありませんか?」
「……そう簡単にいかないのが大人というものでして……」
口にした苦味のような表情を微笑みで誤魔化しながら、クラウディオがゆっくりと言葉を継ぐ。
所在なさげに胸元に添えられたカップの湯気が、複雑機微な彼の表情を文字通り薄煙に巻いた。
「目を覆いたくなる出来事や、忘れてしまいたい過去。歳月と比例して増えていくそれらを他人に語るのは、年若い君が思う以上に、相当な覚悟を要するものなのですよ」
「……はあ。苦労は補い合ってこそのものだと思っていたのですが……」
「それが、そう上手くはいかないのですよ。背負ったあれこれを他人と分かち合うには、まず、相手がその重みに耐えられるかどうか、という見極めをしなくてはなりません。さもなくば拒絶され、せっかく築いた縁が断たれてしまいます。ですから、みな平気なフリをして生きていくことを選ぶのですよ」
「…………」
経験を振り返るかのような厳かな口調に、ヘイゼルが返す言葉を失い、押し黙る。
その対面、揺れるカップから視線を引き剥がしたクラウディオが、すっと天井を仰いだ。
「ましてや、親しい方に過去を語る恐怖は、なおのこと……」
同時刻、郷愁を浮かべた瞳が差し向けた方角、その遙か先。
何の因果か、何の皮肉か、期せずみずから伏せていた過去を口にしたメイベルの横合い。
「――それ、どういう意味?」
草叢から姿を見せたフレデリカが、親友と信じて疑わなかった彼女に、冷えた疑念を問いかけた。




