9-36 死の行軍
ふたりの龍が飛び去って間もなく、その崖の背後に鬱蒼と広がる森から、ラフィアの装具をまとった偉丈夫がのそりと姿を現した。
荒々しいその足取りに、無骨な鎧を飾るペンダントが揺れ、ほの明るい陽光をちらちらと跳ねる。金縁の意匠におさまった大粒のルビーが、将官たる彼の地位を鮮やかに示している。
その一方、歴戦を思わせる白鬚を蓄えた口元と、魔力の残滓を含む虹を見上げた眉根は、嫌悪と自嘲をないまぜにしたような複雑な歪みを浮かべていた。
「……あれが、クラウディオの言っていた例の猟犬か」
吐き捨てるような声を、枝葉を擦る物音が継ぐ。微動だにしない偉丈夫の背後から、同じくラフィアの装備を身につけた青年が、枝葉を振り払いながら姿をみせた。
意匠を同じくする鎧の上を、士官をしめす小粒のルビーを嵌めた銀縁が跳ねる。鈍いその輝きを視界の端におさめた偉丈夫が、視線もそのままに口を開いた。
「遅い。呼び出しておきながら、一体どこをほっつき歩いていた?」
「すみません。隊から抜け出すのに少し手間取ってしまいまして」
応じた青年が、弁明ながらに頭を垂れ、半ばで動きを止めた。吸い寄せられるように空を見上げたその仕草を諫めるでもなく、偉丈夫も同じく目を凝らす。
「……尋常ではない魔力ですね。あれが我が国最強と呼び声高い、傭兵メイベルですか?」
「と、その飼い主であろうな」
「…………」
残り香のごとく漂う龍の魔力に押し黙った青年を、片眉をもたげた偉丈夫が訝しげに見やる。
「どうした? 本物を前に怖じ気づいたか?」
「いえ、怖くないと言えば嘘になりますが、ただ純粋にあれだけの魔力と正気を両立する術に興味が湧きまして」
「興味だけに留めておけ。力に溺れてつけあがり、乱心の末に狂死した者たちのようにはなりたくないだろう?」
「違いないですね」
偉丈夫が肩を竦めて踵を返すと、青年も苦々しく笑いながら後を追う。
南から西へ、転じた視線の先。十と余年にわたって世界を分かち続ける光の壁が、変わらぬ偉容をもってそこに鎮座していた。
「目標はどこに据える?」
忌々しげな偉丈夫の声に、細く白い指が応じる。半弧を描いたその軌跡が、境界線の麓で倒れ伏す二本の木のうえでぴたりと止まった。
「×字に倒れたあの木の付近を想定しています」
「ふむ、その心は?」
「この一帯は盆地ですので、万が一の氾濫に際しても影響は軽微です。経過観察も容易ですし、調査にはうってつけかと」
「仮に、軽微で済まなかったらどうする? 境界線の魔力が魔物を産み出していると仮定するならば、水ではなく魔物が溢れかえることも考えられるだろう。我が国のみならず、対外的な問題も生じうるが、その場合はどうするね?」
「……よろしいのでは?」
淡々と紡がれていた声が、重く低く変調をみせる。白眉を歪めた偉丈夫が何かを言いかけるより早く、青年が靴音高く一歩を踏み出した。
「境界線が世にもたらす影響は、すべての国家にとって等しく、そして早急に解決すべき喫緊の要事です。魔物の発生源、ないし遠因であることは明白ですし、発生時のような地殻変動が二度起きない保証はありません。その問題解決の足掛かりに副作用が生じるならば、我が国のみが泥をかぶる必然性はないでしょう」
熱量を増す声に呼応するかのように、その身に秘されていた魔力が滲む。立ち上る度、濃淡や色彩を変えてゆくそのさまは、さながら莫大な人間の気配を無理やりに閉じ込めたような、得も言われぬ歪さを迸らせていた。
「ならば重ねて問う。貴官のその意思が、あの装置から与えられた魔力に汚染されたがゆえの狂気ではない、という保証はあるかね?」
「覚悟の提示をご所望でしたら、今ここで、腕の一本でも……」
いっそうに声を低めた青年が、いっそうに顔を曇らせた偉丈夫の目の前でふいに苦笑し、両腕をぱっと持ち上げてみせた。
「と、まあ、あの魔力に精神を侵された者ならばそんな風に言ってのけ、止めるより早く実行してみせるのでしょうね」
「……冗談はよせ。引退が早まってしまうわ」
苦い溜息を吐き出した偉丈夫が、部下のそれと気配を同じくする魔力を体内に押し戻す。
「それこそご冗談でしょう。先生のお力は、逼迫した今の世になくてはならないものですよ。引退など……」
「褒め言葉と受け取っておこう。だが、けじめというものもまた、この世になくてはならんのでな」
被せられた声に冗談の色はなく、はっと口を噤んだ青年が間もなく真意を悟る。
その反応に初めて口角を吊り上げた偉丈夫が、目を見開いて硬直した肩を強く叩いてみせた。
「日和見主義といえばそれまでだが、境界線の調査には三国いずれも慎重な姿勢を示している。その意に反する独断には、相応の代価があって然るべきだ」
「ならば、私が……」
「馬鹿を言え。独断とはいえ先を見据えるゆえの選択の為、未来ある若者を犠牲にする必然がどこにある?」
青年が苦悶を浮かべて目を伏せる――より早く、その額を武骨な指先がおさえ、引き起こした。
「胸を張れ。いまは罪に問われる行為であろうとも、我らの意志は、いつか歴史が汲んでくれるであろう」
みずから死期を定めた偉丈夫の瞳が、過ぎ去ったいつかの光景を、意見ひとつ呈することのできなかった気弱な若者の姿を、目の前の同じ輪郭に薄らと重ねた。
「おあつらえ向きに、上空に雷の魔力が漂っておる。後始末の憂いもない。この上、まだお膳立てが足りないかね?」
挑発的な偉丈夫の振る舞いに、青年は無言で姿勢を正し、美麗な敬礼をほどこした。
それが別れの所作であるが如く振り返ると、滲んだ涙を拭った指先を天に向けた。メイベルが残した雷の魔力を誘い、束ね、そして形を成した眩い矢を、川縁に転がる標的に向け慎重に据える。
短く吸い、吐きだした息とともに放たれた嚆矢は、火花を思わせる魔力を千々に散らしながら、寸分違わず標的を射抜いた。
文字通り、雷に打たれたように燃え盛った二本の木は、その焔もろとも追い打つ魔力に飲み込まれ、灰と化した。なおも降り注ぐ魔力の氷雨が、水面すら窺えない光に包まれた境界線、その足元たる大地に点描を穿ってゆく。
その景観を瞳に映した青年が、偉丈夫が、ほう、と安堵の息をついた。
直後。
「…………?」
跳ねるような鼓動の音を耳にした青年が、思わず己の胸を手でおさえる。
わけもわからぬまま、もう一度、そして二度。紛うことなく何かが脈を打つその音が、次第に迫力を増してゆく。
振り返った先、同じく胸元をおさえた偉丈夫が、慌てたように崖際へと駆け寄った。
――どくん。
理屈ではなく本能によって、ふたりは察した。視界の過半を埋める光の壁が、奇妙な音の発生源であろうことを。
そして見た。見下ろした川の縁、その傍らの壁に生じた亀裂から、輝く水流が溢れ出す、その瞬間を。
「なっ……!」
声に変わった衝撃は、瞬きののちに次なる衝撃に変貌を遂げた。
飛び出した水流は、ぶち当たった崖を迂回することなく駆け上がり、遙か高みに陣取るふたりの頭上にまで跳躍してみせたのだ。
悲鳴はおろか反応すらかなわず、ふたりはその大願もろとも水流に押し潰され、あまりにも呆気なくその生涯を終えた。
勢いそのままに岩肌を駆け抜けた水流は、木々や岩石を飲み込みながら、まっすぐに東へと駆け抜けていく。やがて行軍中のラフィア兵たちの姿を視界にみとめると、山の斜面に添って面積を広げ、無防備なその側面をしたたかに殴りつけた。
不運というほかなかった。
不定形、ながら圧倒的な質量をもつ暴力を前に、兵たちは嵐に見舞われた砂粒のようなものであった。
ひとつ、またひとつ。指折り数える時に比例して、命が舞い散り消えてゆく。ひどく現実味のないその光景は、さながら流れ落ちる砂時計を鑑賞するかのように淡々と続き、そして音もなく終わりを告げた。
動くものすべてを屍に変えた水流は、ラフィアの国境線をなぞるように大地を駆け抜け、河川を思わせる線状にその身を細めていった。津波から漣へ、動きを緩やかにした流れから零れ出た莫大な魔力が、まるで代謝のように大気中に溢れてゆく。
空高く立ち上ったその魔力は、靄から霧へ、霧から薄膜へと、濃度に比例して具現化を果たした。
やがて、ラフィアが死力を尽くして守りぬいた国境線は、いかなる生物の侵入をも拒絶する銀色の壁へと形を変え、栄華を極めた一大国家を巨大な牢獄へと変貌させた。
変質は、その景色だけにとどまらなかった。
水流に飲まれ、景色の一部に成り果てたはずの遺骸たちが、異様な音とともに痙攣をはじめた。
不自然に折れた四肢が、中身もろとも潰れた鎧兜が、中身をぶちまけた肉体が、内外を浸食した高濃度の魔力によって、人ならざるものへと姿を変えてゆく。
出来の悪い人形を思わせる輪郭をかたどった彼らは、全身から滲み出た禍々しい魔力を杖代わりに立ち上がると、生前の記憶をなぞるかのように、緩慢に北上を――その先にある、首都を目指し――進軍をはじめた。
そして訪れた静寂の一方、元凶たるふたりの兵たちは、しかし何者になるわけでもなく、爽やかな風が吹く崖上にひっそりと遺骸を並べていた。
クラウディオの手を借り、後天的に身につけた尋常ならざる魔力は、期せず、主の肉体を魔物化から守りぬいていた。
その魔力もやがて尽きた頃、群れからはぐれた魔物に目敏く見いだされ、英雄はおろか大罪人として歴史に名を刻むことすらなく、むなしく異形の養分と化した。
彼らの判断は、概ねにおいて正しかった。
鎖国に等しい環境を打開すべく拡張した各国の防衛線は、時と命を浪費するあまり、消耗戦の様相を呈していた。
蔓延る魔物は、駆逐はおろか掃討すら追いつかず、素養ある者の才を磨く間もなく死地に送り込む限界状況である。
無謀な独断を勇猛な英断であると見誤ったことも、現状を嘆くあまりの焦燥が招いた末路であるといえよう。
……ただ、彼らは知らなかった。知らされていなかったのだ。
境界線を禁忌と定めた各国が、ひそかに断行した調査において、一分の例外もなく死屍累々の結果を重ねていた事実を。
境界線という存在が、人類のもつ常識の一切が通用しない怪物であるということを。




