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境界線上の魔王  作者: 羽山一明
第九章 『昏き追憶の水底にて』
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9-35 約束された滅亡へ

 東西に楕円を描くフェルミーナの国土、その北東部に、名もない――より正確には、定められていない――大草原が鎮座していた。


 フェルミーナという名がまだ一介の商人を指すものであった去る日、いくつもの小国の領土に跨がっていたこの草原は、声高に所有権を主張する彼らによって、めいめいに名を与えられていた。

 併呑された小国たちとともにフェルミーナ領となった後も、かつての名で呼ぶ者があまりにも多く、やがて成り行きのままに人々から"名無し"という愛称を拝命された。

 不憫な背景をもつ一方で、草原一帯は一年を通してきわめて穏やかな風土を保ち、境界線の眼下という悪立地にもかかわらず、人のみならず多様な動植物に愛されていた。


 異変は、突然に訪れた。


 残暑が薄れ、急激に版図を広げた冷気に包まれたある朝、いつもと変わらぬ長閑な地平の三方に、異なる意匠を誇る装具の群れが姿を見せた。

 押し寄せる軍靴の波は、牧歌的を絵に描いたような風景を容赦なく踏みならし、広がる萌葱色を鋼の灰色に塗り替えてゆく。


 フェルミーナとルーレインに対するラフィアの宣戦布告。

 一見して暴挙であるこの選択は、だが、決して良好とはいえない二国側の関係によって奇妙な均衡を成立させ、間もなく戦場に相まみえた三国は、殺気だった沈黙を纏うまま、展開した陣形を息苦しく硬直させた。


「…………」


 その、遙か北部。

 ラフィア国境南端、境界線に形をねじ曲げられた山岳の崖上で、剣呑な三国の応酬を静かに見つめていた人影があった。

 草原を埋め尽くす軍団すら配色の一部に過ぎない彼方、陣形の端々を捉える双眸は険しく引き締まり、崖際を擦る靴先は如実な焦燥を示している。


 ふ、と。沈黙を埋めるように吹き抜けた風が、顔を覆うフードをはらりと靡かせた。

 素顔を顕にされたメイベルの掌に魔力が迸り、頭上に立ちこめた暗雲から稲妻の稚児が生まれ散る。


「すみません、遅れました」


 機を急くような彼女の臨戦態勢を、背後から現れたファウストの声が中断させた。

 不満げに振り返ったメイベルが掌を握りしめると、魔力に次いで暗雲もまた四散し、やがて辺りはもとの灰空を取り戻した。


「遅いです! あと少しで、雷を落としてでも止めさせようと思っていたところでしたよ!」

「すみません、出陣の直前まで粘ってみたのですが、力及ばず……」


 二重の意味で申し訳なさそうに肩を並べたファウストが、彼方の光景に渋面を向ける。


「フェルミーナの龍は頼れなかったのですか?」

「そのつもりだったのですが、彼曰く、シルヴィア方面の監視に比重をおいていたらしく、フェルミーナの内政に関与できるほどの根回しが済んでいなかったそうなのですよ」

「シルヴィアというと、女王さまの件ですか。それならば、もうひとり監視役を遣わせたほうがよいのでは……?」

「そうですね……。正直、フェルミーナの治世に甘えていた面がないとは言い切れません。ですが、近年は特に龍族を増やす機会が激減しておりますので、そこは難しいところですね」


 本来は喜ぶべきことなのでしょうけれども、と。

 言及を避けるように言葉を締めたファウストの意を汲んで、メイベルがさっと思考を切り替える。


「それで、どのようなかたちで介入するご予定で?」

「ラフィア軍の動きを抑制するような方向を考えています。他の二国の目的は、あくまで自己防衛ですから」

「二国、ですか……? レオンハルト王子が率いるフェルミーナはともかく、ルーレインも……?」


 転じた視線を訝しげに細めたメイベルの問いかけに、ファウストがわずか口角を緩め、頷いてみせた。


「貴女とは面識がないと思いますが、あの国には元"第九位階"が潜伏しています。彼は彼で動いてくれていますので、ルーレイン側が積極攻勢に出ることはないはずです」

「それは流石に、性善説に依存しすぎているのでは……」


 ――十年前の貴女ならば、迷いも淀みもなく人を信じたでしょうに、と。

 若き龍の思考に確かな変化を垣間見たファウストが、緩めていた口元と眉根をふと引き締めた。


「フェルミーナが動きましたね」


 やけにのんびりとしたファウストの呟きに、むくれていたメイベルが弾かれたように身を乗り出す。その動きを制した手が、景色の奥側に広がっていたフェルミーナ軍をゆっくりと指さした。

 示された先を凝視したメイベルが、整然と後退を始めた軍の只中、鎧すら纏わず佇むひとりの人影を捉える。その傍ら、人影の肩を口惜しげに叩いてみせたレオンハルト王子が、後退する自軍の後を追いかけていった。


「……あれは……?」

「わかりません。わかりませんが……」


 ひとり残された人影は、しばしの間フェルミーナ軍を見送ったのち、今度はラフィア軍のほうへと向き直った。

 淡い陽光に照らされた顔立ちは若々しく、要人どころか軍関係者の雰囲気すら纏わない。そんな青年が、起き抜けに散歩するが如く軍隊に向けて歩みゆくさまは、長い歴史を俯瞰してきたファウストの知見をもってしても理解が及ばない光景であった。


「狂人の意思で軍が動くことはありえません。つまり、彼は――」


 やがてラフィア軍の眼下へ接近した青年は、みじかい舌戦の果てに襲い来たふたりの将官を、龍族の目にすら留まらない剣閃にて撃退せしめた。

 一歩、また一歩。青年が歩を進めるたび、気迫としか形容できない圧力がラフィア兵を射抜き、その遙か先に身を隠すふたりの龍族を居竦ませた。


「――私たちと同様、単独でこの惨状を回避させる実力を備えているのでしょう」


 風に流れる雲のように後退をはじめたラフィア軍を目に、ファウストが嬉しそうに吐息をこぼす。

 その傍ら、愕然と立ち尽くしたメイベルが、祝福を呟くべき唇を力なく開閉させた。


「……人間にそれほどの力が備わりうるのならば、龍族などもはや無用の長物ではありませんか……?」

「そうかもしれませんが、それを言うのならば、私たちも魔力の作用の受けただけの元人間ですよ。魔力が人体に変化をもたらすのならば、境界線の発生以後、その影響が激変していたとてなんら不思議ではありません。貴女のよく知るヘイゼルだって、偶然というには稀有に過ぎる力を秘めているでしょう?」

「…………」


 納得しつつ、ヘイゼルを例に挙げて宥めようとする狡い狙いを看破したメイベルが、露骨に機嫌を損ねる。

 そんな内心を相変わらず推し量れずにいるファウストが、ひとり満足げに踵を返した。


「さ、この場はひとまず解決したことですし、急ぎ首都に戻りましょうか」

「首都に、ですか? 最前線の守備が薄れている今、私だけでもこの場に残るべきではありませんか?」

「それも考えたのですが、例の魔力をもつ正規兵たちが首都に潜伏しているのならば、優先すべきはあちらの警戒かと思いまして。前線に関しては、しばらくは退却兵たちを戦力に数えても問題ないでしょうし」

「……なるほど、それはそうですね」


 今度こそは、と腑に落ちた仕草をみせたメイベルが、自身を見つめるファウストの苦笑いに気付いて小首を傾げる。


「納得してくれたようでほっとしました。ヘイゼルの名を出したのは失言かな、と、実は少し不安だったので」


 聞き終える前に肩を落としたメイベルが、目頭に指先をあてがいながら、傾げていた首をゆっくりと振ってみせた。


「……失敗を認められることは美点だと思いますが、基本的にそういったことは本人の前で言わないほうがいいですよ」

「面目ない。今後、そうした知見も身につけられるよう善処します」


 知識ではなく性格の問題ではなかろうか、と諦めたメイベルの全身から、恥ずかしそうに目を伏せたファウストの全身から、燐光を思わせる魔力が滲み、背景に溶けるような淡い瞬きをはじめた。


『翼よ。地の底より、天の果てより舞い出ずる風よ』


 詠唱に呼応して舞い上がった魔力が、遙か遠方たる首都までを繋ぐ光の道をかたちどる。

 軽やかに地を蹴ったふたりの体が、光に沿って渦巻く風に押し流されるまま、ゆっくりと浮き上がっていった。


『我が身を彼の地へと導き、吹き荒れろ!』


 歌うように結ばれた言の葉が、龍族だけがその身に宿す高速移動の飛翔魔法を顕現させる。一拍を置いて跳ね上がった眩い輪郭が、雲を貫いてなお高く、緩やかな弧の軌跡を描いた。


 螺旋状の風が霞み消えたその後、寄り添うように姿をみせた二条の虹が、失意に伏したラフィア兵たちの目線を静かに引き起こした。

 世にも珍しいその光景は、戦わずして叩きつけられた敗戦を彩る一縷となって、重苦しい帰路を行く彼らの足取りをわずか軽やかにさせた。


 それが、彼らが人としてこの世に刻んだ最期の記憶となった。

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