9-33 彼方の報せ
世界の大変動からおよそ十二年。ラフィアの最前線は、国土を南北に貫く公路から西へおよそ十キロの地点、三つの国境が交差する、鬱蒼とした森林を抱く山間部にまで侵出を果たしていた。
境界線のほど近く、名残の欠片すら残さず狂乱した地形は今なお変化を続け、繁殖と変異を繰り返す動植物が棲まうこの一帯は、人の世の光景とは思わぬほどの魔境と成り果てていた。
だが、やむなく戦地に身を置く者たちを真に悩ませているものは、常識の通用しない地形でも、茫漠たる残存魔力でも、ましてや地平に溢れかえる魔物でもなかった。
「…………」
また一体、燐光をあげて消えゆく魔物を横目に、メイベルが視線を転じる。
木漏れ日すら黒く染まる森の奥、針の如く研ぎ澄ました目が、麾下のそれとは異なる隊服をみとめた瞬間、強張っていた四肢がわずかに脱力する。
やや遅れて、相手もメイベルに気付いたのだろう。倒れ伏す遺骸に苦々しげな一瞥をくれると、暗がりに溶けるようにして姿を消した。
「……はぁ……」
去りゆく気配に投げかけた吐息は重く、音を失った空間を睨める眼光はなお鋭い。
漸く踵を返したその直後、木々の隙間に白靄のような人影を捉えた彼女の全身が、瞬時に臨戦態勢を取り戻す。
「――――ッ!」
「しっ。私ですよ、メイベル」
声と共に姿をみせたファウストが、跳ね上がった細腕を危なげなく掴みながら、ひりつく周囲の様子を眺めやる。
「しばらく見ないうちに、こちらも随分と物々しくなったようですね」
「……ええ。防衛線が国境に近いからか、他国の方々を見かけることも多く、今までのような見敵必殺の戦い方が通用しなくなったのです」
今度こそ安堵を果たしたメイベルを見る瞳に、深刻を思わせる濃紅がちらつく。
いかに頑強な肉体をもつ龍族といえど、不意を突かれれば傷を負い、それが重なれば死に至る。予断の許されない前線において、しかし斃す相手を見定めなければならない心的疲労は、いま、間違いなくメイベルを衰弱させていた。
「ひとまず基地まで戻りませんか? こうも気の抜けない環境下だと、落ち着いて話をすることも難しいですし」
「わかりました。ただ残念ながら、基地も森の中でして……」
「……? なぜ、わざわざ劣悪な環境に前線基地を……?」
「いえ。当初は平地に建設されていたのですが、濃度の高い魔力の影響か、急成長した森に飲み込まれてしまったのです」
「…………」
数多の悲劇をもたらした爪痕は、人と龍の流した汗血を嘲笑うかのように今なお色濃く、静かに侵食を重ねていた。その事実を再認識したファウストは、今や少数派とも言えなくなった「境界線破壊派」の過激な思考に自身のそれを重ね、愚痴の代わりに溜息を吐いてぐっと堪える。
「致し方ありませんね。では、先んじて道中でいくつかお話させてしますが――」
言うなり、ファウストはどこからともなく取り出した封筒を掲げてみせた。暗闇に凝らしたメイベルの目が、記されたヘイゼルの名をみとめて硬直する。
「良い報告と悪い報告、どちらを先にお聞かせしましょう?」
……
…………
………………
……………………
ポーラの周辺に見え隠れする、人体実験の被験者であろう謎の男のこと。
男から彼女の身を引き離すため、アルフォンスが手を回したこと。
そのアルフォンスが聖騎士資格試験へと臨むため、フェルミーナへと旅立ったこと。
明瞭かつ簡潔なファウストの「悪い報告」が締めくくられたその次に、メイベルが最前線の情勢を訥々と語り始めた。
戦線を拡大するラフィアに対抗するかのように、他の二国が次々と兵力を送り込んできたこと。
共闘を提案したもののにべもなく拒絶され、三国と魔物が互いに睨み合う、四つ巴さながらの戦況となったこと。
魔物からの戦闘被害を他国からの攻撃であると曲解した部下たちが、猜疑心に駆られるままに報復の隙を窺っていること。
予想以上に深刻な状況にファウストが口数を減らした頃、ふたりの視界の前に、巨大な曲げ木に抱かれるように建てられた前線基地の全容が飛び込んできた。
沈んだ雰囲気から逃げるように滑り込んだファウストは、だが、基地全体に揺蕩う人の魔力から感じ取れる仄暗い意志を前に、いよいよもって閉口し、侍童のごとくメイベルの後をただ追いかけた。
「ひとまず、おつかれさまでした」
簡素ながらも清潔に保たれた自室にて、招き入れたメイベルが手早くも丁寧に上官を労った。
並べられたふたつのカップから、異なる香りを込めた白煙がふわりと立ち上る。礼を返して口をつけたファウストが、ふ、と、口角を緩めた。
「美味しいですね。この味わい、ルーレインの茶葉ですか?」
「そうですね。王都行きの商隊から、飲食品と一緒に少しだけ融通していただいています。娯楽のない生活ですので、嗜好品だけでも、と思ってのことなのですが……」
「立派な心がけだと思いますよ。あなたの奮戦がなければ、各国間の流通は今なお滞っていたままだったでしょうし」
「だと、よいのですが……」
メイベルの両掌におさまったカップが揺れ、蒼白の表情を映すダークブラウンの水面に漣が走る。
「……自分の奮戦がなければ、三国の前線事情が冷え込むことはなかった、と。そう考えているのですか?」
確認の意味合いを含む問いかけを投げたファウストが、予想通りの頷きをみとめて溜息を吐き出した。
「あなたがどう対処しようとも、遠からず起こっていたことですよ。他の二国も、これからの時代における魔法の重要性を漸くにして悟ったのでしょう。魔物が頻出する――例えばこの近辺の環境などは、どの国にとっても手中におさめたい、格好の修練場でしょうからね」
「……私には理解できません。安全を確保したうえでならまだしも、あえて危険を冒し、あまつさえ犠牲をも甘受してまで修練に励むその意図。賛同しかねますね」
「犠牲のない進化はありえませんよ。死の淵にある人を救うことは尊ばれるべき行いかもしれませんが、何かを成し遂げようするその覚悟を否定する意志にも繋がりかねませんし」
「…………」
渋面を浮かべるメイベルを否定したファウストが、事もなげに紅茶の続きを嗜む。
「ですが、その犠牲が特定の人物の意志によって操作されていた場合は別です」
はっと顔を上げたメイベルの目元が懐疑の赤に濡れる。
「……政治的計略、というものですか?」
「ええ。国というものは得てして保守に走るものですが、防衛本能も行き過ぎれば攻撃意欲に変わります。何より、魔物に抵抗するための力を同士討ちに用いるのは、あまりにも本末転倒ですからね」
一区切り、と言いたげにカップを据え置いたファウストが、次いで懐に手を差し入れた。
「小難しい話はこれくらいにして、よい報告のほうに移りましょうか」
言い終える頃には、すでに指先に封筒が挟まれている。封緘されたままのそれを円卓の上に滑らせ、掌で「どうぞ」と促してみせた。
「……拝見します」
堅苦しい言葉に反し、待ってました、と言いたげにメイベルが腰を浮かせる。見えない尻尾を振りながら、食い入るように読みふけるそのさまに、ファウストが思わず小さな笑みをこぼした。
ややあって溜息とともに読了したメイベルが、手紙をていねいに封筒に仕舞い、部屋の隅にちょんと座り込んでいた棚の引き出しへと差し入れた。開いて閉じたわずかな隙間に似た色の封筒がいくつも覗いて、ファウストの口元がいっそう緩む。
「内容をお伺いしても?」
笑みの意図を察したメイベルが、意地の悪い表情に意地の悪い質問を重ねた上官をじろりと睨めつける。
「……傭兵団への入隊志願です。あの子、いよいよ『次は直接交渉にまいります』とまで言い始めましたよ」
「単独でここまで来られたならば、資格は十二分ですね」
「無責任なこと言わないでください。ファウストさまからもきちんと言い聞かせておいてくださいね?」
「そんなことしませんよ。ヘイゼルの人生はヘイゼルのものです。たとえ保護者だとて、彼の選択肢を縛る権利を持たないのですから」
そう言ってまた、ファウストが小さな笑みをくすりとこぼす。直後、返す視線に棘を秘めたメイベルの先手を取るかのように、みずから二の句を継いだ。
「失敬。ヘイゼルの献身的な姿勢に、つい、昔の部下を重ねてしまいまして」
「献身的な部下、いらしたんですね。いちおう伺っておきますが、どんな方だったんですか?」
まるで自分自身を枠外に置くかのような言い回しに、ファウストはむしろ嬉しそうに目を細める。意趣返しの一方、空のコップに紅茶を注いでくれたメイベルにかるく頭を下げ、カップを片手に天井を見上げた。
「クラウディオという名の、まさしくあなたにとってのヘイゼルのような子でした。実直かつ努力家で、私がどこかへ行くときは、何を言うでもなくいつも後ろを追いかけてきました。少し思い込みが激しいところと、突き進む時にやや周りが見えなくなるという欠点はありましたが、最終的にはアイゼンとともに私の片腕となって、私の研究を支えてくれるまでに成長を遂げてくれました」
「…………」
「善悪や正否の判断は、指導者にとって最も悩ましい事柄のひとつでしょう。過保護と放任の狭間を見定めるためには、何よりもその人とまっすぐに向き合い、その人の意志を尊重してあげることが大切ですよ」
――私は、失敗してしまいましたが、と。
そう言葉を結んだファウストが、すとん、と目を落とす。
「そんなことありません。私は、あなたの――」
思わず立ち上がったメイベルの言葉の半ばを、ふいに飛び込んできたノックの音が静かに遮る。許可を返す間もなく開いた扉から、見慣れた部下の蒼白な顔が覗いた。ちらりとファウストを窺うその視線を手で遮って、要件の提示を促してみせる。
二、三の拍を置いて頷いた男が、荒々しい呼吸もそのままに口を開いた。
「緊急につき失礼します。フェルミーナの兵に人死が出た件について、彼の国から使者がお見えでして……」
「……? 人死、ですか? 最前線へ身を投じる危険性は、どの国も等しく理解したうえで背負っているものでしょう。とても使者を寄越すほどの案件には聞こえないのですが……」
「いえ、あの、内容如何ではなく、そのお方が――」
何やら言葉を詰まらせた男の語尾を、荒々しくこだまする靴音がかき消した。
音を追いかけたメイベルの訝しむ目が、扉の向こう、男を押し退けるように現れたその人物を射止める。
魔法で防御する間すら惜しみ駆けつけたのだろう、ひと目で身分が窺える豪奢な衣服のあちこちに、枝葉の欠片が張り付いている。確かな瑕疵のその一方、琥珀色の瞳は眩いほどの光に満ち、獅子を思わせる金色の前髪は、その毛先に至るまで生気に溢れていた。
「ラフィア王国前線駐留隊筆頭、傭兵団"蜘蛛の巣"のメイベル隊長に相違ありませんね?」
「その通りですが、あなたは……?」
口早ながら熱の籠もった問いかけに、メイベルが礼儀を指摘する間もなく同意を返す。その背後、みずからの記憶から回答を得たファウストが、傍観の姿勢をしめす無表情をぴくりと引きつらせた。
「失礼、私はフェルミーナ王国第一王子、レオンハルト・フェルミーナです。自国の前線を視察していたところ、兵士たちから喫緊の問題となりえる話を耳にし、急ぎ調査に馳せ参じた次第で……」
「……はあ。人死が出たという件ということで窺っておりますが、して、仔細はどういったもので……?」
名乗りを上げたレオンハルト王子に対し、予てより国家権力への嫌悪感を募らせていたメイベルの対応はにべもない。いかにも傭兵らしい不躾な態度を、しかし気にも留めず流したレオンが、問いかけられるままにこくりと頷く。
「まずは、情報源が兵士の証言のみであることを念頭に願います。曰く、ラフィア正規軍の兵装を纏った兵士たちが、魔物との戦闘の場において、偶然を装って人狩りさながらの行為を繰り返している、とのことで、心当たりがあればお尋ねしたく思うことと――」
ぴたりと言葉を切ったレオンが、ファウストとメイベルの間に黙して語る視線を渡す。
意を汲んだファウストが、何かを言いかけたメイベルに目線を配らせ、足早に部屋を後にした。
「……これからのお話は、どうぞご内密に」
遠ざかる足音を背に声をひそめたレオンが、唇にそっと指をあてがう。
二人きりになってなお慇懃な姿勢をみせる彼に対し、メイベルが纏っていた刺々しい雰囲気を僅かに削いだ。
「聖騎士資格試験、なるものを耳にされたことはありますか?」
レオンの唇から飛び出したその単語に、メイベルの身が声より先に反応をしめした。半ば身内のような間柄であることは悟られぬよう、慎重に言葉を選ぶ。
「……はい。アルフォンス第一王子が栄誉ある試験に臨まれる、と、国内でも話題になっていましたので、合格者が過去一名のみである、という情報だけは存じ上げております」
「仰るとおりです。実は私は、他でもないその試験に国王の代理として立ち会い、実質的な試験監督者としての任を預かっているのですが……」
明かされた華やかな情報は、だが心苦しげな口調に飾られ、濁された語尾は厳かな沈黙を生む。その隙間に思慮を差し込んだメイベルが、ひとり静かに事態を察した。
「よもやその情報源、防衛線に駐留する兵からではなく、受験者からもたらされたものですか?」
「……心中斟酌、感謝します。国に属さぬ傭兵団である貴女を訪ねた理由も、併せておわかりかと考えますが、確と言葉にてお伝えいたします」
低く掠れたレオンの声が、乾いたメイベルの耳朶をざらりと撫でる。
つまり、この王子の懸念は自国兵の命のみならず――
「ラフィア正規軍が、アルフォンス王子殿下の命を狙っている可能性があります」
……
…………
………………
……………………
喩えるのならば、それは風のない宵闇であった。
滲む灯は蝋燭のように揺れることなく、ただ頼りなく暗がりを照らしている。
辺りの様子は窺えない。
ただ、灰一色に覆われた継ぎ目のない床だけが、色素の薄い景色をなお無機質に彩っていた。
「先生!」
どこまでも広がっているような無音の世界に、忙しない声と靴音が響き渡った。
闇のなか、煌びやかな輝きを纏うドレスに身を包んだポーラが、振り返り迎え入れた白衣の男にしがみついた。
「……今まで、たくさんお世話になりました」
「はい、少し寂しくなりますが、どうか元気なあなたのままでいてください」
「…………」
別れの言葉を交わすも、身じろぎひとつ見せないポーラに、男が目を瞬かせる。
「……おなまえ」
「……え?」
涙を堪えて震える声が、静かな空間にこだまする。
「最後に、先生のお名前、教えて欲しいです」
「これが最後ではありませんよ。また、いつか会える日が来ます」
嗜めるような声をこぼした男にしがみつきながら、ポーラが額を擦りつけるように首を振る。
一向に離れない小さな影にやがて観念したか、鮮やかな色をした旋毛を撫でつけていた男が、苦笑まじりの嘆息をこぼした。
「……クラウディオ。それが私の本名ですよ、ポーラ」
瞬間、跳ねるように顔を持ち上げたポーラが、涙に塗れた表情いっぱいに笑顔の花を咲かせた。
「さよなら、クラウディオ先生」
言うが早いか、ポーラはクラウディオを突き飛ばすように踵を返し、涙と足音だけを残して去って行った。何も見えないその先を見つめていたクラウディオもまた、彼女に倣うようにどこかへと歩き出す。
ややあって彼は、行く手を阻むかのように佇む巨大な硝子の前で、すっと足を止める。
「……さあ、最後の子が手元を離れた今、いよいよ歴史が動く時が迫っています」
演説じみた呼び掛けに応じるかのように、硝子が不協和音の悲鳴をあげる。
「知識は授けた。手段も授けた。今度はあなたがたが私に答えを示すべきですよ、陛下」
薄く笑むクラウディオの顔色に、蠢く影が微かに映る。応じる不協和音はなお強く、何もない世界を硝子越しに微震させた。
クラウディオが満足げに踵を返す。闇に消えた彼の跡、照らされた灰色の床に、残された影の動きがぼんやりと投影された。
……陛下、と。
確かにそう呼び掛けられたはずの輪郭は、どう見紛おうとも、およそ人間のかたちをしていなかった。




