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境界線上の魔王  作者: 羽山一明
第九章 『昏き追憶の水底にて』
189/212

9-30 それぞれの意志

「では、行って参ります」


 子供たちの声がこだまする孤児院の裏手、いつもの修道服と、小さな手提げ鞄ひとつ。

 戦地にはとても似つかわしくない軽装をしたメイベルが、ちょこんと頭を下げた。


「どうかお気を付けて。御身に戦の女神の加護があらんことを」


 応じたファウストが、色濃く残る教会然とした景観を背に十字を切ってみせる。

 無神論者たる龍族、その始祖が見せる皮肉めいた仕草に、朝日を浴びて輝いていたメイベルの頬がにやりと緩んだ。


「次は、前回よりさらに西に戦線を伸ばすのですよね?」

「はい。正確には、境界線方面へ戦線を押し広げる国軍の援護、という依頼ですが」

「……なるほど。では、注意を払う対象は魔物にとどまらないわけですね」

「……ええ。取り越し苦労に終わることを願っておりますが、こればかりは私の意志ではありませんので」


 誰に聞かれているかもわからない。

 ならば聞け。そして知れ。

 予断を許さないのがどちらなのかを教えてやる。


 言外にそう言わんばかりの別れを交わし合ったふたりは、そのまま互いに踵を返し、颯爽とその場を後にした。


 部屋に戻ったファウストは、燭台の中で未だ焼け残っていた紙の切れ端をみとめると、揺れる炎のなかに無造作に指を突っ込んだ。

 炎へと身を投げたそのすべてが灰と化すさまを眺めながら、記されていた内容を静かに反芻する。


 第一王子によって明かされた、国家による人体実験。

 もたらされた密書の目的は専らそこにあったようで、続く文面は事実の共有ではなく、意思確認の意味合い色濃い内容であった。


 ――曰く。

 国家ぐるみの陰謀が隠されているならば、王宮に身を置く自分たちは、人質も同然であること。

 来るべきその時のため、また、永続的に襲い来るであろう魔物に対抗するため、可能な限り各々の心身を鍛えること。

 有事の際や重要な事実を掴んだときには、速やかに連絡を寄越すこと。


 前半部と打って変わって、至極簡潔にまとめられた数行の文章。

 そこに刻まれた文字には、王族たる引責を感じている第一王子の苦悩と、ファウストたちを巻き込んだことに対するフレデリカの責任感が滲み出ていた。


「よもや、龍族を守ろうとする人間が現れるとは……」


 悩ましげに掻き上げた髪をばさりと手放したファウストが、嘆息交じりに独りごちる。


 ……今や痕跡すらない密書を読み終えた先刻、メイベルは、フレデリカたちに正体を明かすことをファウストに提案してみせた。

 みずからの正体が、その身を案じる必要すらない存在であることをしめし、彼女たちが抱える不要な心労とこれからの危険を取り除くべきである、という趣旨のものである。

 至極尤もであろうこの提案を、しかしファウストは熟考と苦悩の末に棄却した。


「確かに、現状のフレデリカさんたちは人質も同然の存在です。しかし、人質とは無事であるからこそ意味をもつものですから、彼女たちの身に直接的な危害が加えられることは考えにくいでしょう。むしろ、人質をとってまで牽制すべき対象と見做されている私たちが下手に行動を起こせば、強硬策に打って出られるのは明白です」

「……それは、王家が私たちの正体を知った場合の話では?」

「彼女に事実を伝えることで、その危険性が増す、という話ですよ。私たちにすら監視役と思しき目がついて回っているのですから、彼女たちの情報はより明瞭に掴まれていると考えて然るべきです。護衛という建前がある以上隠れる必要がありませんし、私たちのように結界魔法と言う守秘手段もありません。それに、何より……」


 なお食ってかからんと目を光らせたメイベルに向け、ファウストが苦笑を投げかける。


「私たちが龍族であることを知ってなお、それでも彼女は私たちを庇う。そんな気がしませんか?」


 理詰めではなく、フレデリカの人となりを正確に分析した上でもたらされたその結論に、メイベルが反論のすべてを飲み込み、閉口する。


「人間は短命です。ゆえに成果を急ぎます。装置も破壊せしめた今、焦らずとも、時間は私たちの味方ですよ」

「しかし、別の実験が始まらないとは――」

「メイベル」


 項垂れ震えたその肩へ、ファウストの手が添えられる。

 指先に込められた力に、じわりと伝わるその熱に、何かを察したメイベルがはっと顔を持ち上げた。


「私たちの活動指針は慈善ではありません。時に訪れる不条理から人々を救うため、龍族という世に過ぎた力を少しだけお貸しする。その程度であるべきものなのです。その枠組みから逸脱した瞬間、人間は自立することをやめ、堕落への歩みを進みはじめることでしょう」

「それは……そうかもしれませんが……」

「ラフィアの現状がすでにその傾向にあります。通常、防衛線は広がるほどに弱体化してゆくものですが、この国は、あなたという規格外の存在に頼り、力任せにそれを両立させています。とても嫌な言い方になってしまいますが、国家が暗躍にかまけていられるその余裕は、あなたの助力あってこそ成立しているものかもしれないのですよ」

「…………」


 主義を逸脱していることを知りつつ、それでも善意のままに人を守っていた自身の在り方。それを否定されたメイベルが、見開いた紅緋色に陰を落とし、呑む息すらも凍て付かせて立ち尽くす。

 親友と呼べるフレデリカを信じる心と、そのフレデリカを人質にとった国家を憎む心。

 人間に向けられた相容れぬ感情の狭間で揺れるさまを気の毒に思ったか、ファウストが厳かに沈黙を破った。


「……しかし、今回は他ならぬ龍族を生んだ装置の絡む問題です。女王さまへの報告の際、ラフィアに対する例外的な干渉許可について検討するよう、仔細を添えて要請しておこうと思います」


 瞬間、瞳の彩を取り戻したメイベルが、ファウストの手をがしりと掴み、両の手のひらで押し潰さんばかりに握りしめた。


「可能なのですか?!」

「わかりません。以後の龍の在り方のすべてに影響のある決議ですので、こればかりはいくら私でも確約しかねます」

「それでもお願いします。人らしく生きてゆくことが龍族の目標ならば、個人主義を尊ぶことが許されるのならば、私は私を好いてくれている方々とその後を歩んでゆきたいのです」

「……わかりました」


 縋るような声に込められた静かな迫力を前に、ファウストはただ肯定を返す。

 言質を手にしたメイベルの、少女さながらに輝いた表情が、掲げられていた時計をみとめてはっと引き締まる。

 短時間の間にもたらされた情報の濁流をひとまず飲み込んだ彼女は、手早く出立の準備をすませると、人としての役目を全うするため旅立っていった。


 ひとり部屋に残されたファウストは、人と灯の消えた部屋で黙考を終えると、思い出したように指を音高く鳴らした。

 青白く変色していた部屋の壁から、窓から、魔力の気配が薄れて消えていく。遠く聞こえる喧噪を耳に浴びながら、彼は無造作にドアノブへと手を伸ばした。


「因果なものですね……」


 押し開かれたドアの向こう、廊下に響く靴音に紛れるような声が落ちる。

 漏れ聞こえる声の阻むもののなくなった空間で、ファウストは躊躇いながらも二の句を継いだ。


「ヒトを守るために奔走してきた私たちが、一転してヒトと相まみえることを望む。正しい行いと呼べる選択肢がこの世に存在するならば、果たして私はその道を歩めているのでしょうか……」


 答えのあるはずのないその問いかけは、もうひとつ押し開かれた扉の音と、その先から飛び出した子供たちの快活な声にかき消され、誰の耳にも届くことなく溶けていった。



……

…………

………………

……………………



 慇懃な一礼だけを残して、人影が翻り、ゆっくりと遠ざかってゆく。

 言葉もなく、態度にも示さず、フレデリカはただその距離を噛みしめるように佇んでいた。

 やがてその背が見えなくなる頃、横合いに直立していたヘイゼルが、小さく震えるばかりの母の肩にそっと手を添えた。


「……戻りましょう、お母さん」

「…………」


 心中を懸命に推し量った息子の一言は、だが、生まれたばかりの娘を奪われた母の心には届かなかった。遣る瀬ない無力感をヴェールのごとく纏ったフレデリカの眼前、消えた使者と入れ替わるように、第一王子アルフォンスが姿を現した。

 母子の胸におさまっているはずの小さな輪郭を見いだせなかった彼は、来たばかりの道に鋭い目線を投げやり、次いで乾いた唇を開閉させた。


「……何の慰めにもならないかもしれませんが……」


 挨拶すら告げず本題に入ったアルフォンスが、動かないフレデリカの瞳をちらりと覗き込み、呼吸ついでにごくりと唾を飲み込んだ。


「乳母、およびその周辺の人選は、可能な限り私の麾下の者から人選するよう根回ししました。兄として、彼女の身の安全は全力で守り抜きますので、どうか……」


 語尾に添えるべき一言を断言することのできなかったアルフォンスは、打ちひしがれるふたりに礼をほどこすと、足取りも重々しくその場をあとにした。



 ……意志が、交錯する。

 私欲と私怨に踊るまま、互いを害なす人がいる。

 抱き続けた主義と矜恃に、迷いを抱く龍がいる。 

 

 そしてまた、時が流れる。

 龍には短く、人には永い果ての刻。


 その先にある、約束された滅亡へ。

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