あっちゃんにハメられる
昨日、言われたけど、忘れた。
わざと忘れた。
忘れたまま、会社に行ったら怒られた。
まあまあ怒られた。
いや、それが何かというと、ネクタイをちゃんとしてこい、と。
このクソ暑いのに、ネクタイをしてこい、と。
市役所なんて、ポロシャツ、場所によってはアロハシャツだぜ。
クーラーが効いているのか効いていないのか判断が難しいフロアの中央やや東寄りで、汗をかきながら怒っているおじさんと、汗をかきながらおこられているおじさん。おれだってもう35歳だからおじさんで結構だ。
「はい、明日は必ず。」と2日連続で言い、その場を後にして、自分の机に戻ると、隣の席のあっちゃんが、にやけた表情でこちらを向いてきた。
「男は大変だね、私なんて、カーディガンの下は、タンクトップだよ。」とムラムラさせることを言ってきやがる。あっちゃんは、かわいいし、愛嬌もあるし、おっぱいもある。
机に貼られたメモは3件。
さっき訪問した取引先からの確認が1件と、仕入先の在庫報告が1件と、今日は飲みに行こうという隠語が書かれた同期からのお誘いが1件。取引先に折り返し連絡を入れるが、先方不在。仕入先の在庫報告は確認OK。同期のお誘いはメンバーが分からないが19時スタートで都合よし。忙しく働いているフリに一段落付けて、社内にある自販機で缶コーヒーを買いに行く。
戻ってくると、隣の席ではあっちゃんが、椅子の背もたれに体をあずけて、うちわで顔の付近を仰いでいる。
「今日、めっちゃ暑くないですか。昼に化粧直したのに、もう落ちてきちゃいましたよ。」と言って、またこちらを向いてくる。うるうるした唇は最高だ。
「さっき、早川さんから内線ありましたよ。戻ってきたら連絡ほしいって言ってました。」
「ありがとう。掛けてみるよ。」
「また、飲みに行くんですか?私もたまには仲間に入れてくださいよ。」
あっちゃんは酒も強い。
特に急を要する案件もなく、明日の準備もさほどなく、先週届いていた7月の売上レポートに目を向けようとしていると、パソコンにメールが1通届いた。
[T/O]暑いですね。こんな日はビール飲みたいですね。 永村
T/Oは、Title Only のことで、本文はないメールだ。
メールを開封しなくても、題名のところだけで分かるので、とても便利だと思っているが、あまり浸透していない。
隣を向いて、
「早川に聞いてみるよ。」と言って、
早川に内線してみた。
あっちゃんはパッチリ二重で見つめてくる。
「おお、永村さん、いいじゃん!」
早川は大喜びだ、ということをあっちゃんに伝えた。
18時半になり、会社をあっちゃんと2人で出て、駅前まで並んで歩いた。
「早川さんは、何時にいらっしゃるんですか?」
「あいつは、たぶん先に着いてるんじゃねえかな。」
「そうなんですね。他に誰かいますか?」
「さあ、分かんねえな。だいたい早川の後輩の竹本がいるけどなあ。」
「え、竹本さんですか。」
「なんか、まずい?」
いつも明るいあっちゃんが珍しく困ったような表情になり、こちらを向いて考えるように首を傾けて上目使いを発動させた。
あっちゃんは意外に背が小さい。
特に何も話さなくなったあっちゃんとそのまま歩いて、目的の駅前の海鮮をメインとしている居酒屋に着いた。
「入ろっか。」
と言い、引き扉をスライドさせると同時に一歩前に出した足とは逆に、あっちゃんは一歩後ずさりした。それを見て、引き扉を素早く戻し、店員の「いらっしゃいませ」、いや、「しゃっしゃいせー」の音量もかき消した。
「ネクタイでも買いに行きましょう。」
前から予定をしていたかのように、あっちゃんと駅の反対側にあるショッピングセンターに足を運んで、2Fのスーツ専門店でネクタイを選んでくれた。選んでくれただけでお金を出したのは自分自身なのだが。
そのあと、結局、早川と竹本がいる居酒屋に向かった。
ショッピングセンターにササっと行って、ネクタイをパパっと決めたので、それほど遅れず合流することになった。
一体、あっちゃんのあの躊躇いは何だったのか。
「水戸、遅かったじゃねえか。」
早川が開口一番、物申した。
19時の約束で、只今の時刻が19時10分だからめちゃくちゃ遅れたわけでもないので、
「すみません。へへ。」
とあっちゃんが和ますと、それ以上、遅刻について言及されることもなく、4人ともビールで乾杯した。早川と竹本が4人掛けの机に対面で座っていたので、俺が早川の隣に座り、あっちゃんが竹本のとなりに位置することになった。先に注文したと思われる料理が、絶え間なく届き、箸を進めるとともにビールも呷る。早川も竹本も長袖のシャツを捲り上げ、ネクタイをシャツのボタンとボタンの間に収めている。おれはネクタイをしていない。
憂慮したあっちゃんと竹本は、様子を見る限り何か特別な関係性があるわけでもなさそうで、あっちゃんが大皿を取り分けたり、竹本が醤油を差し出したり、普通にしているようにみえる。机の下で足を蹴飛ばしたりもしていなさそうだ。早川は、いつも男ばかりの飲みの席に女性がいることでいつもよりもテンションが高い。だが、こいつは酒は弱い。
「永村さんは、駅からどっち方向だっけ?」
早川が意味のない質問をさっきからあっちゃんに繰り返し、会話を繋ごうとしている。
「私は、新清水です。早川さんは草薙球場の近くでしたっけ?反対ですね。」
「そっかあ、反対かあ。」
と、本当に残念そうな反応を示して、一言付け加えた。
「じゃあ、竹本と同じだね。」
「そうですね、僕も清水ですけど、JRなんで。」
竹本が早口で聞いてもいないことを言う。
仕事も出来て、見た目も悪くない竹本は、入社してから浮いた話を聞いたことがない。もう5年目だから27歳か28歳あたりだ。
「竹本、彼女とはどれくらいだっけ?」
なんとなく、カマをかけてみた。
「いやあ、僕、いないっすよ。」
こいつは酒が強い。
21時を過ぎて、いよいよ早川の呂律もあやしくなってきたので、お開きにすることにした。だが、あっちゃんは、芋焼酎をロックで飲んでいる。竹本はビールをずっと飲んでいる。こいつらを誘ってもう1軒行くか、と心にした時、竹本が、
「じゃあ、早川さん送って行きますね。」
と、できる後輩を演じ始めた。大丈夫だ、という早川の足取りは明らかに覚束ない。
「でも、お前、逆方向じゃん。早川なんて一人で帰らして、もう1軒行こうぜ。」
あっちゃんは特に何も言わない。
早川と俺で折半した会計にお礼を言う竹本とあっちゃん。そのまま早川を草薙駅まで連れていく竹本。
「竹本さん、本当に送っていくんですかね。竹本さんって、そっちのうわさありますよね。」
かなり飲んでいたと思うが、顔も赤くならず酔った様子が見えないあっちゃんが平然と口にした。
「なになに、そっちって。」
「いやいや、男が好きなんじゃないかって。」
「え、そうなの!?」
本当に驚いたし、驚いた顔もしていたと思う。
「木下さん、知ってますか?総務の。あの子が竹本さんに好意を伝えたんですが、ダメだったんです。それは、まあ好き嫌い、合う合わないありますから、仕方ないという気もするんですが、その断り方が変だったんです。」
あっちゃんは、歩くスピードを緩めて話を続けた。すれ違う男性はあっちゃんをよく見ているのがよく分かる。
「なんて言ったと思います?」
酔いもあって、何も考えらない。別にここでクイズはいらねえなあと心底思った。うーん、と唸っているとあっちゃんは続けた。
「早川さんに聞いてみないと。」
おいおい、全然気が付かなかったぜ。ということは早川もなのか。
ジェンダーレスぐらい知っている。それにとやかく言うことはない。
「社内の女性陣は、結構知ってますけどね。」
あっちゃんは、よくあることだと言わんばかりに話を続ける。
「絶対、水戸さん、知らないんだろうなって思って。何にも言わないし、何なら水戸さんもそうなのかと思いましたよ。」
へへ、っとあっちゃんがこっちを見て笑う。
「じゃあ、帰りますね。今日はご馳走様でした。今度は2人で、なんちゃって。」
酔っていないのに、酔ったフリを突然して、いい気分にさせやがる。
家に着き、嫁にネクタイを買ったことを一応告げる。
「いつもと少し違った感じね。夏場でもあなたの会社はまだネクタイだもんね、変な会社。」
冷蔵庫にある発泡酒を飲みながら、今日あったことを整理するが、思い出すのはあっちゃんのかわいさが結局一番だ。
翌日、あっちゃんに選んでもらったネクタイをして、出社した。
竹本と玄関で会った。
一緒のネクタイだった。
前にいたあっちゃんが言う。
「おはようございます。ネクタイお揃いですね。」
後ろにいた木下さんは、吹き出しそうになっている。
あっちゃんは策士だ。