前編
――この拳を、撃ちこみたい。
あいつの顔面に。
数馬はずっとそれだけを願い続けていた。
まるで祈るような気持ちで、毎日、ひたすらサンドバッグを殴りつづけた。
数馬は小学生の頃からずっと空手をやっている。
近所にある、日比谷道場に通っている。
伝統派から始まり、高校生になった現在はフルコンタクト空手である。普通の空手では、相手の顔を殴ってはいけないルールになっている。
だが、フルコンタクト空手は、相手の顔面を殴ってもいいのだ。
しかし、フルコンタクト空手といっても、制限がある。
フェイスガード。選手は透明なプラスティックのガードで顔面を覆っており、拳は怪我をしないよう、グローブを装着しなければならない。
裸拳――つまり素手で相手の顔面を撃ってはいけないのだ。
だが、数馬はそれをやりたかった。
あいつの顔面に撃ちこみたかった。
まだ子供だった時代から、ライバルだった男だ。
相手はそう認識していなかったかもしれない。
殴りたい相手は、親友だった男だ。
木下誠一郎。まっすぐで気立てのいい、爽やかな男だ。
それだけに女性の取り巻きも多い。
むろん、それに嫉妬するほど、ねじくれてはいない。
ただ、負けたくなかった。
あいつにだけは、負けたくなかった。
誰にだって、そういう相手のひとりぐらい、居る筈だろう。
数馬にとって、彼がそうだった。
決して負けたくない相手。譲れない相手。
幼い頃から近所に産まれたふたりは勝ったり負けたり、互いに切磋琢磨してきた。いつか雌雄を決する日がくるだろう。そう信じていた。
だが、その日はこなかった。
数馬の成長が止まったのだ。
最初はまったく気付かなかった。
だが、かつては見下ろしていた相手だった誠一郎が、みるみる数馬の身長を上回り、逆に相手から見下ろされる立場になると、それを否応なく実感せざるを得ない。
数馬の身長は、160センチ。
これからまったく伸びていない。
一方、木下誠一郎の身長は174センチ。
まだ、奴は伸びるだろう。
そんな気配がある。
身長差が広がると、体重差も大きなものとなる。
やがて、道場でも、あいつとはウエートが違うということで、組み手をする機会が消滅した。
闘って、その差を実感したかったが、それは叶わない。
それより気になったのは、誠一郎自身が、闘いを避けている雰囲気が感じられた。
ときおり、奴がこちらを見る眼が気になった。
その眼は、かつてライバルとして覇を競っていた相手に向けるような眼ではなかった。
どことなく哀れむような、悲しい眼をしていた。
やつはますます大きくなるだろう。
格闘技で、身体の大きさというのは武器だ。
たとえばボクシングだと、一番下の階級であるミニマム級は47・6キロ以下。
その上の階級であるライトフライは47・6キロ以上、リミットが48・9キロになる。
4階級上のバンタム級ですら52・1キロ以上。
階級上では4つも離れているのに、体重差は5キロ差程度なのだ。
どれほど体格差というものが厳密に考えられ、また戦力差につながるかがわかる。
数馬と誠一郎の差は、10キロはあるだろう。
なぜ哀れみの眼で見られるか、よくわかる。
もうふたりはライバルではない。そう思われているのだ。
「あいつとこっちの実力に、そこまで差があるだろうか」
数馬はそう自問自答したことがある。
実力にそこまでの差はないと、数馬は考えている。
しかしそこに体格という神様が与えたハンデが加わると、もう勝負にならない。
数馬がそう考えていなくても、周囲はそう見る。
何よりまず、誠一郎がそう考えているのは明白だった。
「あいつは誰よりも優しい。だから言葉には出さない」
言葉に出さないが、態度に出る。
もう闘いたくはない。一方的な勝負をしたくはない。
かつての親友をボコボコにしたくない。
そう顔に書いている。
我慢がならない。
負けることはある。誰だってそうだ。
一度も負けずに生きていけることなどできない。
どんな強いプロ選手だって、敗北をバネにしてそれを跳ね除け、強くなったのだ。
だから、数馬は負けることを怖れない。
だが、哀れみを受けることだけは我慢できない。
だから、数馬は誠一郎に書いた。
果たし状だ。
誰もいない、みんながいない日の道場で、ふたりきりで闘おう。
それが無理なら、路上でもかまわない。
人目のつかない、河川敷なんかどうだ。
舞台はどこでもいい。
ただ、埋め込みたい。
やつの顔面に、拳を。
勝敗はどうでもいいんだ。
いや、やるからには勝ちたい。
体格差は歴然だ。勝てる可能性は限りなく低い。
それでもやりたいんだ。
奴に蔑まれることだけは、嫌だ。
そう思い、書いた。
奴の机の引き出しに、それを入れた。
奴の返事は迅速だった。
「それだけは、無理だ」
そう直球で言ってきた。
奴らしい、ある種の爽快さすらあった。
だが今回ばかりは、それがひたすら不愉快だった。
「わかった、なら、背後からお前を狙うだけだ」
こう言ってやった。
さすがに誠一郎の爽やかな表情が曇った。
そんなことをして、どうなる。
無言でそう問うている。
「ただの自己満足だ。だけど、こちらにとっては必死でね」
数馬は誠一郎の視線を真っ向から受け止め、はねかえした。
誠一郎は何かを言おうとした。
だが、こちらの目線に気圧されたか、視線を外して押し黙った。
「……それならば、条件がある」
「なんだ、勝負ができるならば、かまわない」
「絶対に拒否しないか?」
「負けたらな。負けるつもりはないが」
「わかった。それなら俺の言うことをひとつ、聞いてもらう」
「それで勝負を受けてくれるのか?」
「ああ、路上だと法的に問題があるだろう。畳の上で勝負をしたい」
「日比谷道場か?」
「いや、あそこは一般の人も多い。ふたりだけで勝負するというのは難しい」
「ならばどうする?」
「柔道は必須科目だ。この学校にもちゃんと道場がある――」
「なるほど、言わんとしていることがわかった」
「今日は半ドンで、道場には放課後は誰もいまい」
うちの学校の柔道部は人が少ない。
弱小だし、やる気もない。熱心に遅くまで練習している生徒もいない。
決闘には、うってつけだ。
「よし、わかった。放課後、道場で会おう――」