思い出シンフォニー
瞳を閉じて、小さな幼馴染みが肩を震わせながら仏壇の前で泣いている姿を思い浮かべる。
瞳を開けて、その幼馴染みよりも小さな女の子がびくびく怯えながら立っているのを見た。
『この子は紫乃ちゃんっていうの。玲音くんよりも一つ年下よ。……それでね、私のことはお母さんだと思わなくてもいいから、紫乃ちゃんのことだけは妹だって思っていてほしいの』
玄関先に立つ〝おばさん〟が、困ったように俺にそう頼み込む。俺はただ、なんで今なんだよって思っていた。
幼馴染みの葵の両親が死んだ直後に、なんで父さんたちは再婚したんだよって思って密かに怒っていた。父さんだって葵の両親と仲が良かったのに、幼いながらに不謹慎だと二人に対して思ってしまっていた。
『……〝母さん〟、紫乃。これからよろしくね』
けれど、俺は二人を詰ることなんてせず、表面だけを取り繕ってへらへらと笑った。すると、今の今まで怯えていた紫乃も安心したように笑顔を見せた。
これが、俺と紫乃の初めての出逢いだった。
*
「紫乃ー、いってきまーす!」
そう言って家を出ると、表札の前で葵が俺のことを待っていた。
「あ、葵!」
「……玲音」
塀に寄りかかっていた葵は、俺に何か言いたそうな表情をしてすぐに止める。そうしてくれたことが嬉しくって笑っていると、「遅い。行くよ」と葵は俺の手を引いて先を急いだ。
「……なんだよ葵。変な奴だな」
俺の呟きが聞こえていなかったのか、葵は一度も立ち止まらない。何か思うことがあったのか、俺はそんな葵の不安を打ち消すようにもう一度笑って彼女の隣に立つことを選んだ。
「それよりも葵、俺たちついに高一だな!」
「そうだね。ていうか、知ってた? 私たちの中学からは、やっぱり私と玲音だけが進学するらしいよ」
「だろうなぁ。そういうところを一緒に選んだんだし? 計画通りって奴だろ」
俺がそう言えば葵は眉間にしわを寄せ、「今の玲音、すっごく悪役みたいな顔してる」と唇を尖らせる。俺は笑って誤魔化して、葵の肩に腕を伸ばして肩を組んだ。
交通事故を起こした葵の両親は、一人の男を巻き込んで亡くなった。そのことを、絶対に誰も知らない高校に俺たちは行きたかったんだ。
けれど、なんの偶然か進学先にその男の弟がいた。
葵は事故のショックでそういうのを知りたがらなかったから、代わりに俺が知った遺族の名前が〝そこ〟にあったのだ。
「玲音?」
「ッ! わ、悪い! すぐに行く!」
俺はクラスと名簿が書かれた紙から無理矢理視線を外して振り返り、何も知らない葵のことを追いかける。何事もなければいいが、帰ったら紫乃に相談してみよう。
紫乃はなんて言うだろうか。紫乃の顔と、声と、仕種を思い出して考えてみる。けれど、考えることが苦手な俺はすぐに挫折してしまった。
だから今日は早く帰ろう。早く帰って、紫乃の帰りを待とう。
「玲音の教室はあっちでしょ」
「やべっ、素で間違えた!!」
これは土産話確定だな。俺は自分で自分の失敗を笑った。
*
「ただいまー」
玄関の扉が開いた瞬間、紫乃の可憐な声がした。
リビングにいた俺が玄関まで迎えにいくと、真新しい制服に包まれた紫乃が笑顔になって俺を見上げる。
「おかえり、紫乃!」
「ただいま、玲音くん」
紫乃のスクバを持って、俺たちはリビングではなく二階にある紫乃の部屋に向かった。毎日そうしているのに、未だに部屋の中に入るのは緊張する。
「ありがとう玲音くん。……それで、今日は何があったの?」
……見破られてたか。俺は笑って、紫乃に今日の土産話を全部話した。
「えぇ〜、玲音くん昨日も間違えて葵ちゃんの教室に入ったって言ってなかった?」
「え、そうだっけ?」
「そうだよ。でも、同じ話なのに微妙に違うから面白いなぁ」
くだらない土産話なのに、紫乃は純粋に笑ってくれる。今の俺には、それが唯一の救いだった。
「……でさぁ、ここからが本題なんだけど……聞いてくれる?」
「うん。なんでも言っていいよ、玲音くん」
「もし、葵の両親と一緒に死んだ奴の遺族が同じ学校の人間だったら……紫乃はどうすればいいと思う?」
自分よりも年下で、しかもまったく関係のない紫乃にこういう相談をするのは自分でもどうかと思う。けれど、俺の力ではどうしようもない今、思ったことを尋ねないわけにはいなかった。
「うーん。無干渉が一番いいんだろうけど、その人が葵ちゃんにちょっかいかけてくるならどうにかしなくちゃいけないよね。私たちは第三者だからあまり首は突っ込めないけど、その人の気持ちを考えたらその人が完全に悪いわけじゃないし……うーん、難しいなぁ……」
他人事なのに一生懸命考えてくれる紫乃は、本当に優しい子だった。年下だけど、俺よりもしっかりしているところに尊敬する。
「……私なら、葵ちゃんを許してくれるように陰ながら頑張るかな!」
その時の紫乃の笑顔は、言葉にできないくらいとてもキレイだった。多分、何年経っても忘れられないくらい――キレイだった。
*
そんな紫乃とのやり取りを思い出した翌日、俺は葵が気になって葵の教室を覗いてみた。中学の頃はこうしてよく覗いていて、何度も葵に怒られて、紫乃にもよく笑ってもらっていたっけ。
「あお……」
名前を呼ぼうとして時が止まる。せっかく葵のことを誰も知らない高校に進学したのに、葵はここでも一人だった。
多分、人格を形作る大切な時期に葵は一人でいすぎたんだろう。
そのせいで人との関わり方がよくわからず、そうして人が怖くなっているんだ。
「あーおーいー!」
かつて紫乃は言っていた。
『葵ちゃんは、玲音くんがいるから生きているんだよ』って。
『玲音くんが葵ちゃんの生きる意味になってあげてね』って。
『だから玲音くんは、もし私が死んでも死んじゃダメだよ』って。
他の誰でもない大切な紫乃がそう言ったから、俺は俺のまま葵の目の前に今日も立てた。
「……何? うるさいんだけど」
「どこがだよ。イケボって言え」
「どこがイケボよ」
そういえば、このやり取りは中学の頃にもやった気がする。早くも紫乃への土産話ができた俺は、にんまりと笑って葵の目の前にしゃがみ込んだ。
あの頃と今とじゃ紫乃の反応は違うかもしれない。それが少し楽しみでもあり、かなり怖かった。
「玲音」
「ん?」
不意に話しかけた葵に向かって首を傾げる。
「もう話しかけなくていいよ」
その瞬間、突き放されたような感覚を覚えた。どれほどの思いで葵がそんなことを言ったのかわからなくて、俺はごくりと唾を飲み込んだ。
「死んでもするか」
こんなのは、紫乃に助けを求めなくても自分の言葉でちゃんと言う。それができないなら、これはただの幼馴染みごっこだ。
俺はわざと舌を出して葵を怒らせる。だけど、それが俺の覚悟だった。
*
今日も、俺より後に帰ってきた紫乃と一緒に階段を上がる。
「玲音くん、紫乃ちゃん。そろそろ晩御飯だからリビングにいなさい」
その途中で俺たちを呼び止めた母さんは、すっかり俺の母さんだった。
小さい頃に父さんと母さんが離婚して、今の母さんと紫乃を俺たちは家族として迎えたが――それは半分だけ嘘だった。というのも、後妻の母さんは本当の母さんだと思えるが、連れ子の紫乃だけはどうしても妹だと思えないからだ。
「大丈夫だよ、ママ。すぐに下りてくるから」
「もう。貴方たちは毎日毎日部屋に籠ってゲームばっかりしてるんだから……。たまにはリビングで遊びなさい。ゲーム機くらい持って来れるでしょう?」
そう言って、母さんはリビングに戻っていった。
本当はゲームなんかじゃなくってずっと話をしているだけなんだが、それは一応言わないでおく。紫乃と顔を見合せて、俺たちはイタズラっぽく笑い合った。
そうして紫乃の部屋に行くと、ふぅと紫乃は長い息を吐く。
「びっくりしたぁ。ママ、私たちがつき合ってるって気づいてないよね?」
声を潜めて尋ねた紫乃に、俺は大きく頷いて返した。
「当たり前だろ。バレないように、黙々とゲームばっかりしてる義兄妹を演じてるんだからさぁ」
血なんて繋がっていないから、本当は隠す必要なんてない。ちゃんとそこは調べたし、大丈夫だってわかっている。
けれど、他人からどう思われるのかが怖くて――父さんと母さんにも、葵にも本当のことを言えなかった。
「そういえば今日、葵に『うるさい』って言われたんだよなぁ」
「え、どうして?」
「俺が葵を仲間に入れようとして、しつこく誘ってたからさぁ」
「玲音くんはなんて言って誘ったの?」
「えぇ? そりゃあ、『俺たちと一緒に遊ぼうぜ』って」
「なのに『うるさい』って言われたんだ」
「まぁそこは? 俺が『イケボって言えよ』ってすぐに返したんだけどな」
すると紫乃は、今までで一番楽しそうな笑顔を見せた。
*
「紫乃ー、行ってくるなー!」
玄関先で紫乃に呼びかけて、俺は表札前の葵に笑いかける。葵は寂しそうな表情で俺を見ていたが、すぐにいつもの無愛想な表情に戻っていった。
多分、葵がそんな表情をするから俺がこんなにも馬鹿みたいに笑うんだと思う。紫乃もよく、そう言って笑ってくれていた。
「行こうぜ葵ー!」
「いっつも思うけど、玲音うるさい。近所迷惑でしょ」
「えー? そうでもしないと紫乃に聞こえないだろー」
すると、葵は何も言わなくなった。別に黙らせるつもりで言ったわけじゃないんだが、ちょっぴり罪悪感が込み上がってくる。
「そんな顔すんなよな、あーおーい」
努めて軽く、そして明るく声に出すと
「玲音は強いね」
今度は泣きそうになりながら葵が笑った。
「まぁな。イケメンだから」
「だから、そのネタ飽きた」
「言うほど言ってねぇよ!」
「言ったよ。十回は言った」
「飽きるの早いな!?」
「そもそもそのネタ好きじゃない」
葵はどんどんどんどん先へ先へと歩いていく。小さな頃に比べたらやっぱり大きな背中だけど、俺に比べたらそれでも小さな背中に見えて。
儚いそれは紫乃もちゃんと持っていたが、紫乃は俺のようによく笑ってくれていた。葵が飽きたと言うネタでも、よく笑ってくれていた。
「おー……い、先行くなよ」
俺のことを、置いて行くなよ。
「じゃあ、明日からは一人で学校に行く」
「理不尽! おい、ちょっ、待てよー!」
葵のことを追いかけると、歩幅の差かすぐに追いついてしまった。
*
いつものようにゲームをする振りをして、いつものように紫乃の部屋で一緒になって喋っていると――
「ケホッ」
――不意に、紫乃が咳き込んだ。
「大丈夫か? 風邪?」
「…………。うん、そうみたい」
紫乃はあははと笑顔を見せて、途中で何度も咳き込んでしまう。
「お、おい……」
「ごめん玲音くん。ちょっと治まりそうにないから、今日はここで終わりにしてもいいかなぁ?」
「……あ、あぁ。わかった」
紫乃はもう一度「ごめんね」と言って、そのままベッドに横たわった。扉へと足を向けていた俺は、そんな紫乃を放っておけなくて
「……れ、玲音くん?」
気づけば紫乃のことを抱き締めていた。
「だ、ダメだよ。玲音くんにうつっちゃう」
「別にうつってもいーし」
紫乃は昔っから体が弱かったらしいから、こういうのはよくあった。風邪が酷い時なんかは、二週間くらい休んでしまう。
「……ごめんね」
「なんで謝んの?」
「……ごめんなさい」
体を離して紫乃を見下ろすと、紫乃はただただ悲しそうに笑っていた。
――どうして。
俺は不意にそう思った。その理由は考えなくてもよくわかる。
どうして、俺の周りにいる人間はみんなこうも儚いんだろう。
どうして、俺の周りにいる人間はみんなこうも悲しそうに笑うんだろう。
「玲音くん」
「ん? 何?」
「玲音くんは、辛そうな顔をしないで」
無茶なことを言うなっての。そう思ったのに、喉の奥からは一言も言葉が出てこない。
「……せっかくのイケメンな顔が、台無しになっちゃうから」
……そのネタ、紫乃は本当に大好きだな。けど、俺はそんな紫乃のことが大好きだった。
*
自分の黒い髪に触れて、離す。それを何度か繰り返していた。
「玲音ー、何してんのー?」
すると、教室の端からのトモダチが話しかけてくる。そのトモダチは俺の方に近づいてきて笑っていた。
「んー? 別にー……」
俺は軽く受け流す。そして、紫乃の色素が薄い髪とはまったく異なる黒髪を弄るのを止めた。
「つーかさぁ、今日遊ぼーぜ。みんなとカラオケ行こうって話してたんだよ」
「あ、わりぃ。今日は用があんだよ」
「えー? 用って……」
そこでトモダチは言葉を切る。トモダチの視線の先には葵がいて、葵は俺の様子をひっそりと伺っていた。
「じゃあ、もう行くな」
わざわざ迎えに来てくれた葵を待たせないように鞄をさっさと纏めると
「お前さぁ、よく浅倉なんかとつき合えるよなぁ」
何気なく――。本当に何気なく、トモダチが零すようにそう言った。
「つき合ってねーよ」
イライラした。
こいつも、葵のことを悪く言うのかと。葵がお前に何かをしたわけじゃないのに悪く言うのかと思って、心の底から腹が立った。
「それに俺、好きな奴がいるから」
吐き捨てて葵の元へと歩いて行くと、小さく「ごめん」と彼女から言われた。
ごめんなんて、葵が謝るようなことは何もないのに。謝らせてしまうような〝すべて〟が嫌で、悔しくて、俺は牙を剥いた。
「バーカ、何が『ごめん』なんだよ。あっちが謝れっての」
「……そんなこと言っていいの? 友達なんでしょう?」
「……〝トモダチ〟だ」
マフラーを首に巻きつける。季節は早くも真冬になって、俺たちはもう少ししたら二年生になるだろう。
葵のことを笑顔にする為にこの学校に進学したのに、ほとんど何も変わってないような気がして心がすごく苦しかった。……紫乃に合わせる顔が、俺にはなかった。
*
「……紫乃」
「玲音くん、どうしたの?」
ベッドの上の紫乃が俺の頭をよしよしと撫でた。それはぎこちなくて、優しくて、俺のことを泣かせに来る。
「俺らが小さかった時のこと、覚えてるか? 初対面の時なんだけどさぁ」
「……ごめんね、あんまり記憶にないや。何かあったの?」
「……んや。ただ、あの時今の母さんに『私のことを母親だと思わなくていいから、紫乃のことだけは妹だと思っててくれ』って言われたんだ」
紫乃がわずかに目を見開いた。
一歳しか違わなくても、本当に小さい頃の話だから覚えていないのも無理はないが。
「けど俺、無理だったわ」
「え?」
「俺、母さんのことを母さんだって思えても、紫乃のことだけは妹だと思えない」
紫乃の手を握り締める。それはやっぱり小さな手で、鼻の奥がツンとした。
「玲音くん、私ね、私もね、玲音くんのこと、お兄ちゃんだって思ったことは一度もないよ?」
途切れ途切れに紫乃が言葉を紡いでいく。もう、俺も紫乃も限られた言葉の中で想いを伝え合うことしかできなかった。
「好きだ、紫乃」
「私も、好き。……玲音くんのことが好き」
〝好き〟を二人で確かめ合う。
最初に確かめ合った時は、怖くて怖くて泣きそうになっていたのに。今はまったく別の意味で泣きそうになっている。
「玲音くん、泣かないで」
「…………泣いてねぇよ」
「玲音くんは、笑顔じゃなきゃダメだよ」
「…………無茶言うなよ」
俯いて拳を握り締めた。紫乃はどうして、俺にそんな無茶なことを言い続けるのだろう。
「じゃあ、私の前でだけ泣くことを許します」
顔を上げた。俺の涙が落ちてきて、紫乃の涙と絡み合って。
紫乃は、微笑みながらゆっくりと目を閉じた。
*
「玲音?」
「ッ! ……あ、葵」
「どうしたの? さっきからずっとボーッとしてたけど」
「ちょっと、な。……紫乃のこと、思い出してた」
葵は俺から視線を外して、「そっか」と返した。ついさっき葵と一緒に高校を出てきたのに、もうこんな遠いところまで来たんだなと思う。
「……あ、紫乃ちゃん」
葵の声で顔を上げると、紫乃の墓石が遠くの方にぽつんとあった。葵には詳しい場所を教えてないのに、どうしてあそこだとわかったのか。
「……よく見つけたな」
「なんか、雰囲気が紫乃ちゃんぽかったから」
墓石の雰囲気ってなんだよ。そう思うが、相手は葵だ。変な深入りは止めておく。
二年前に病死した紫乃は、俺たちが来ることをあらかじめ知っていたかのようにキレイにされていた。
「誰か来てたんだね」
「だな」
葵が紫乃の〝肌〟に触れて、手を合わせる。
葵にとって紫乃はただの他人なのに、そうやって誠実でいてくれる葵は絶対にいい子だ。だからなおさら、トモダチには苛立ちという感情しか抱けない。
「私、先に行って待ってるね」
「え?」
来たばかりなのに、葵は立ち上がってスクバをすぐに肩にかけた。
「紫乃ちゃんに言いたいこと、ちゃんと言いなよ」
今まで俺が葵にしてきたことをそっくりそのまま返されて、俺は胸が締めつけられる。
紫乃を見ると、また紫乃との思い出が溢れ返ってきた。
去年も、今年も、ずっと紫乃との思い出ばかりを糧にして俺は生きてきた。紫乃しか好きになれず、紫乃の言葉しか信じられない。俺は一歩も前に進めなかった人間だった。
「……けど、もう、歩こうと思うんだ」
目頭がぶわっと熱くなる。これから動くって時なのに、不便な体だなぁ本当に。
『じゃあ、私の前でだけ泣くことを許します』
紫乃がそう言ったから、涙が次から次へと溢れてきた。
『葵ちゃんは、玲音くんがいるから生きているんだよ』って。
『玲音くんが葵ちゃんの生きる意味になってあげてね』って。
『だから玲音くんは、もし私が死んでも死んじゃダメだよ』って。
『……私なら、葵ちゃんを許してくれるように陰ながら頑張るかな!』って。
「……紫乃がそう言ったから、俺、遅いかもだけど、本気で頑張ってみようって思ったんだ」
その為ならばなんだってする。
上部だけの〝トモダチ関係〟を終わらせよう。不特定多数の人間に嫌われる為に、髪を金色に染めてピアスもつけてみよう。
葵の両親が事故に巻き込んでしまった奴の弟――佐久間慎と話してみよう。
俺にできることが少しでもあるのなら、その二人のことを全力で救ってあげよう。
それは、結果的に言えば葵の為であり佐久間の為であり紫乃の為でもある。けれど、俺が一番に考えているのは俺自身のことだった。
「ちゃんと、俺にしかできないことをやってみようと思う」
葵はあぁ見えて弱虫だし、紫乃は言うだけ言って逝ってしまった無責任な奴だから。……けど、佐久間の方はどうなんだろう。大人しめな外見とは違って、案外意地っ張りな奴だったりするのだろうか。
「だから、それができるまではここにはもう絶対に来ない」
それまでの間、しばらく会えねぇなぁ。けど、紫乃がそうさせたんだししょうがねぇよなぁ。
「またな、紫乃」
俺はそう言って、紫乃と一時の別れを告げた。
*
自分の金色の髪が風に揺れた。俺は金髪の中にあるピアスを手探りに探して外す。外したそれは、紫乃の墓石の目の前に置いた。
その瞬間に携帯がメールを受信して、俺はそれを適当に開く。そこには、遊園地での初デートを楽しむ葵と佐久間が映っていた。
『のろけかよ笑』
そう返信して、紫乃に同意を求める。多分、「私たちも負けてないよねぇ」とか言うんだろうな。
「負けるわけねぇもんな、紫乃」
俺を幸せにしてくれて、ありがとう。
今度は俺が、誰かを幸せにする番だ。
……ほら、見ろよ。
……これが俺の今の笑顔だ。
今日は異様に風が吹く。自慢の金色の隙間から黒髪が覗いてしまうほどに、風は俺の髪を吹き飛ばしていく。
紫乃がもう染め直せと言っているのか、やけにボサボサになった髪を手で梳いて俺は墓石に背中を向けた。
すると、再び携帯が震え始める。けれど、それはメールじゃなくて電話だった。
「もしもし、母さん? 何?」
『玲音くん、今どこ? 買ってきてほしいものがあるんだけど』
「買い物? いいよ、何?」
『じゃがいも。カレーを作りたかったんだけどね、買い忘れちゃったのよ』
紫乃は普通の人よりもおっちょこちょいで、何事もよく笑って解決しようとするような子だった。申し訳なさそうに笑って電話をする母さんも、紫乃の実母だからかそんな感じの人だった。
「わかった。買ってくる」
『うん、よろしく』
「けどちょっと遅れるわ、今紫乃んとこだから」
そう言うと、母さんは一瞬だけ黙った。
『紫乃ちゃん、元気?』
「元気だよ。風がすごくてボサボサになった」
『そんなに? あの子、そこまで強い子じゃなかったのにねぇ』
「体は確かに弱かったけど、心は母さんよりも強かったよ」
母さんは、紫乃の強さを知らないんだろうけど。
俺は、俺が諦めたくなるようなことに対しても決して諦めようとはしなかった紫乃の強さを知っている。その強さは、葵と佐久間の糸を紡いで一つにしていったのを俺はちゃんとこの目で見た。
だから俺は、今でも紫乃が生きているんじゃないかと思うのだ。だから今でも、家を出る時は決まって紫乃に「いってきます」を言っているのだ。
……けれど、それに応える声はどこにもない。その度になんでか葵が泣きそうな顔をするが、どうしても俺は止められなくて。どうしても紫乃の声が聞きたくなって、いつまでもいつまでも続けている。
『本当? 紫乃ちゃん、本当に強かったの?』
「そうだよ」
『……そう。紫乃ちゃんね、『玲音くんには弱い自分を見せたくないんだぁ』って、亡くなる前に言ってたのよ』
「……え?」
俺は耳を疑った。そんな言葉、俺は今まで一度も聞いたことがない。紫乃が俺に言わずに母さんだけに言った言葉なのだろうか。
『紫乃ちゃんね、玲音くんに会う前は弱音ばっかり言ってたの。でも、私が再婚して、玲音くんに会ってからは笑顔もどんどんどんどん増えていって……きっと、ずっと楽しかったんだと思うわ』
「……確かに、初めて会った時はずっと何かに怯えてたような気がする」
『そうでしょう? 玲音くんが優しかったから、紫乃ちゃんは玲音くんを心配させないように強くなろうって思ったんだと思う。紫乃ちゃんは、玲音くんのことが大好きだったから』
「だったらすっごく嬉しいけどなぁ〜」
母さんは、その〝大好き〟をどういう意味で言ったのか。
俺と紫乃の〝大好き〟を、どういう意味で捉えたのか。
今さら俺たちの関係を明かす訳にもいかなくて、俺は笑ってすべてを誤魔化す。
『紫乃ちゃんは玲音くんに強い姿を見せていたのかもしれないけれど、玲音くんは優しいからたくさん甘えていたところもあると思うの。だから、紫乃ちゃんのことずっとありがとうね。玲音くん』
「…………」
紫乃は、俺に甘えていた。母さんに言われなくてもなんとなくそれはわかっていた。
紫乃はよく俺に無茶なことを言っていた。それは多分甘えで、多分俺ならできると本気で思っているところもあって、多分紫乃のそうであって欲しいという願いでもあると思う。
「俺の方こそ、父さんと再婚してくれてありがとう」
『やだ、そんなの礼を言うようなことじゃないわよ』
「いや、本気でそう思うよ。あの時さ、俺の幼馴染みの葵がめちゃくちゃ大変な時期で……母さんと紫乃がいてくれたから俺は葵のことを励ますことができたんだと思う。あの時は自分のことで精一杯だったけど、母さんと紫乃がいてくれて『しっかりしなきゃ』とか、『父さんのことは放っておいても大丈夫だ』とか、『家に帰れば家族がいる』とか思えたから……。当時は嫌だったけど、本当にありがとうって思って。紫乃にも会えたし」
そう言うと、母さんは電話越しに泣き始めた。早く帰ってやらないと目が腫れてしまいそうで、父さんが無駄に母さんのことを心配してしまう。
それくらい、父さんは母さんのことが好きなんだ。
「泣くなよ母さん。早く帰るから待っててって」
電話を切って、俺は急いで駅の方へと向かっていく。風はまだ強く吹き荒れて、俺の背中を押していく。きっともう墓石の前にはないであろうピアスは、きっともう二度と見つからないだろう。
それでいいと俺は思った。ピアスは紫乃にあげたという体にして、風に乗って勢いよく走り出す。
体が驚くほどに軽かった。紫乃が後ろから押してくれているような気がして、どこまでも行けるとさえ思った。けれど、駅まで辿り着くと風は消える。
『葵ちゃんは、玲音くんがいるから生きているんだよ』
『玲音くんが葵ちゃんの生きる意味になってあげてね』
俺がこの先葵の未来にいなくても、佐久間がいるから大丈夫だ。
『だから玲音くんは、もし私が死んでも死んじゃダメだよ』
だから今この瞬間に死んでも葵は絶対に死なないと思う。けれど、これ以上母さんを泣かせないように見えなくなった墓地の方角から視線を外して改札を通った。
春の匂いがする。また俺の背中を押すように風が吹く。今度は優しい春風だったが、俺は気にせずにどんどんどんどん前へ前へと進んでいった。そうすることが弔いだと思って、俺は一度も振り返らなかった。
「思い出を、ありがとな」
そう思うくらい、俺は紫乃のことが好きだった。