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歴史とDNA

ネットのDNAと考古学のデマ

作者: とびうお君

 いい加減な話自体はネットだし素人発表なのである程度仕方ないです。私もその1人だと自戒の念もあります。でも、そうじゃなくて民族主義から最初から知的好奇心の発露を目的とするような探究心の欠片も感じられない話にはうんざりしています。それらの出鱈目さを正して行きたいと思っています。過去ある程度やってるので、それらは全体の流れとして触れるだけで突っ込みません。


 稲が日本から半島に伝わったですが、これは何度も触れてるので、その中で過去触れなかったものを扱います。これね実はある程度意味はあります。考古学と人類遺伝学のお互いの縄張り争いの部分があります。当たり前ですが、考古学者は考古学的発見を重視して、遺伝学者はDNAを重視します。


 それが根幹にあります。じゃまともな言及じゃないか?これに民族主義が絡むとものすごく低俗な話になってしまいます。考古学の問題として、考古学者はキチンと触れてるのですが、それを民族主義者は読み飛ばすんですよ。あやしげな遺跡としてNO1は遼東半島の遺跡になります。これ考古学者も陸稲の可能性があると触れています。私も可能性としては陸稲だと思います。


 ここが潰れると2つ潰れます。山東半島から遼東半島航路が潰れます。次に大陸回りの北方ルートも潰れます。他に遺跡無いんですから。これでルートが2つに絞られるわけです。山東半島から半島西海岸ルートと、いきなり日本への渡来の場所だといわれてる中国海岸部からの半島南東部への直接ルートです。


 ただこのルート多少難しい点があります。そこをつめましょう。どこから水田稲作は伝わったのか?これがかなり怪しいんです。稲の当時の北限とされてる山東省の遺跡、陸稲っぽいんですよ。後の時代ならいくらでも出ますが、当時のものと言うとプラントオパールとクリが混在して発見された遺跡が最古のものです。これ雑穀畑作程度じゃないか?と予想されていて水稲の北限だったのか?批判してる学者もいるんですよ。栗を畑作として、稲を水田としてやっていたと言う理屈もあるのですが、最古の物からしっかりとした水田跡が見つかった報告は私は見つけられませんでした。


 後の時代ならちゃんと稲の北限は延びています。ただ最古の遺跡はすべて陸稲の可能性がある怪しいものなんですよ。この時間のズレがそうとうまずいんですよね。それに対して誤魔化してるような論が目立つんですよ。後から伸びてるんだから、これらも水田だろ?って推測があります。


 後の時代になるほど、日本と朝鮮の時間差が少なくなります。年代測定ってかなりずれるんですよ。場合によっては考古学的には時系列に並べられても日本と朝鮮と大陸の北限が逆転してる可能性もありうるわけです。最古の遺跡はそんなレベルの時間差じゃないので正しいと考えられるわけです。それが実は陸稲だった?となるとすべてぶち壊しです。


 山東省でも半島じゃなくて南の海岸部や、江南からの直接ルートなんじゃないか?と。じょふく伝説とかありますが、あれって最古の朝鮮や日本の遺跡からすると後の時代です。春秋から戦国時代にかけての頃の話ですからね。これは弥生時代の問題も合って、本来土器によって付けられた時代名ですが、いつからか稲作開始に変わったんですよ。じょふく伝説って古い土器分類の頃の話なのでさらに遡って稲作は考えられるように変わっています。


 こうなると第3のルートも疑わしいとなります。考古学的に怪しい遺跡を排除すると自然と直接ルートしか考えられないわけです。そこで直接ルートの様々な批判ですが、これ、先に朝鮮で発達して日本に入ったのでは?と考えれば自然と解決できます。


 民族主義の人はそれが不自然と言います。ですが、直接ルートを稲の遺伝子から唱えた佐藤教授は、一部の日本産の稲の遺伝子が朝鮮で発見されない理由を気温を基にして定着しなかったと言っています。その説明胡散臭いです。


 日本も朝鮮も同様に限定される条件での移住だったのでは?と考えると回数が絞られる遠距離航路は都合が良いわけです。朝鮮にだけあるものはもう分かってるのですが、江南からの陸稲によって満州から混雑したものだとなっていて、ルートが全く違います。


 こうすれば、今までどおり朝鮮から日本へって考古学的な結論は守られて遺伝学の辻褄も合います。


 そんなのご都合主義のストーリーだとなるでしょ。実はこれ傍証があるんですよ。今まで絶対視されて使われていた松菊理遺跡について実は問題があるんですよ。弥生時代と何故言うか?と言うと東京の弥生町から弥生土器が見つかったからです。でも渡来中心部じゃないですよね?松菊理遺跡もこれと全く同じで第2のルートのストライクと言える西海岸沿いにあります。


 だから渡来の場所に近い中心部と見なせるわけです。でも肝心の山東半島の北限はかなりあやしいとなると、第2のルートの根幹の説得力がありません。傍証と言うのは、ここより東南部のほうが古い水田跡があるんですよ。いずれ発見されるという事で放置されてる感じです。山東省の遺跡を陸稲じゃなくて水稲だとするという推論なんだと思います。しばらく後の時代なら好都合な遺跡ありますからね。ただそうなると、松菊理遺跡との時間差がどんどん短くなってしまって年代測定の誤差によってはタイムパラドックスの話になってしまいます。


 南東部から始まって、十分に発展した稲作として松菊理遺跡を中心とした松菊理文化が起きたのでは?と考えると自然です。もう1つ実は問題があって、松菊理遺跡は碌な水田跡が無いんですよ。じゃ何故これが定説化したのか?でちゃんと理由があるのに民族主義者は、否定から入るからそれが都合よく見えなくなるんですよね。


 近い時代の物が近くで水田跡として発見されてるんですよ。じゃ何故中心部に無いのか?って疑問で、都市国家だったのではないか?って推測が考古学的にされてるからです。数多くの青銅器が見つかるからです。都市部に水田って無いですよね?今の常識で考えても実に自然なわけで、古代メソポタミアも確か町の回りにあったはずです。逆にコレは半島にまともな文化など無かったという事への反証になるので、松菊理遺跡の欠点って実はその逆で民族主義者には別方向で致命的な反論になっています。これでついでにもう1つのデマも潰せましたね。


 民族主義者のおかしいのは、朝鮮によるのは合理的じゃないって話しですが、これ結構確率的な問題で、直接ルートだと日本と韓国どっちいくか?は潮の流れを読む運があるらしいです。航海に長けていても、この辺りは当時の船では運が絡むらしいです。


 さて問題は、じゃ何故日本から朝鮮じゃなくて、朝鮮から日本なのか?これは発達の問題なのでそこは別問題です。第一回の航行が向こうついて発展したか?または、日本では後れたか?です。縄文人は最初進まなかったのが遺跡から推測されています。何故それが変わったのか?と言うとひょっとしたら、朝鮮で発達したのを見て美味しいところ取りした可能性がすごく高いんですよ。


 はっきり言えばこれはずるい行為になります。民族主義者からはまず出ないでしょうね。日本の縄文人はまず受け入れに地域差が大きくて、かなり後まで縄文農法と兼ねてやっていた地域も見つかっています。朝鮮で生産性が高くなってから導入した可能性がすごくあります。


 この問題、何故直接ルートだと後期になりますが、鉄器の農具が発見されないのか?になります。これ解決できるんですよ。朝鮮にいったからそっちではあったかも。


 ご都合主義になりますが、朝鮮は日本に較べてとにかく遺跡が少ない。これが朝鮮の文化が遅れていた、人が居なかった説の根拠になっています。松菊理遺跡ってのは逆でかかったから見つかったんでしょうね。いろいろ理由はあると思いますが、おいておきます。人骨は日本と全く同じです。酸性の土壌がきついからです。鉄器はあったのかもしれないが、見つかってない。次に鉄生産が先に発達したのは朝鮮ですから、逆に言えばその技術を持ち込んだ集団と言えなくも無いです。江南の鉄生産のレベルの高さは文献に残ってるようです。


 いつの時代に来たか?分かりませんが、O1B2じゃないか?といわれるツングース系は青銅器の生産の高い技術を持つ集団です。後の渡来とハプロから考えて、おそらく稲作に関わっています。


 これがご都合主義なのは分かっていますが、後の時代に鉄器の生産がされるので駄目なの?とは考えています。最古の遺跡では鉄が農具に使われていたのは現地でも無いです。ただ青銅器は発達していました。この点は農具じゃなかったからかと。もっと古い遺跡が見つかれば見つかるのかもしれません。ただ後の時代になるほど、松菊理文化で重要な生産物として青銅器が現地生産されています。それが水田を伴う集落から見つかっています。だから古くないとあっちのものと比較して現地から来たとの証拠として意味が無いんですよ。だから江南渡来付近の時代の遺跡の数が少ないのが致命的なんですよ。


 決定打となったのは、松菊理遺跡の勘違いです。これはネットのいい加減な情報に踊らされました。情報源が民族主義者からだったのが問題でした。この人達が南東部の最古の水田について触れるわけ無いですから。彼らは情報操作をやってるのか?と言うと違います。きちんと調べないで感情のおもむくままに妄想を書き連ねているからです。彼らにとっては松菊理遺跡が胡散臭いのさえ分かれば良いんですよ。


 考古学的発見から有無を言わさない海上ルート以外にしっかりした水田遺跡が見つかればそれでいくらでもひっくりかえります。だからそれまでの推測に過ぎません。


 中国と韓国がこれ結託してしまうのが問題なんですよね。江南説を押し出すと、遼東山東半島の遺跡が胡散臭くなってしまうデメリットがあるわけです。北限の時期をもっと後の時代にすれば良いのですが、あの国は古くから文明が発達していた事に拘るので。山東半島は突っ込みきれて無いです。でも遼東半島はルートの論を組み立ててる学者自体がこれ陸稲の可能性があるなと疑って注意書きしてるわけです。


 山東半島に広がったのは事実なので、時代を遅らせれば良いだけの問題なのですが、中国にとっては時代が遅れるだけの些細な問題が、朝鮮日本には根源的問題に繋がってるわけです。山東半島の方は調べ切れなかっただけで、立派な水田跡と見なしてる学者がいるかもしれません。こういうのは個人の主観で見解が変わるので遼東半島は逆です。水稲であった可能性は捨てれないってだけです。


 この点は、西海岸への海路ルートがあり、ここの問題になるので、最北ルートは潰れても特に問題は無いです。最北ルートが最短ルートなのが大きいだけです。後の時代を含めて南東部と西海岸に著しく稲作の遺跡が偏ってるので、ここはものすごく重要なんですよ。この点私は疑って無いです。時代を経ればこのルートあると思っています。山東省と弥生人が似てるって可能性としてはあるなと思ってるからです。問題は水田稲作の北限の時期なんですよ。


 次は支石墓に行きます。これは民族主義というより情報が錯綜して良く分かりません。私なりに調べたものを書いてみたいです。これは無紋土器と重ねてO1B2と深く関わっています。シニ・ガイ文化へのO1b2の混入の可能性に無文土器への移行があります。そこについて回るのが支石墓になります。ただシニ・ガイ文化には支石墓が絡んでるか?分かりません。それと言うのもこれロシアで結構新機軸の発見だったようで、とにかく新しくて情報が不足しています。そういった調査結果が文章化されてネットに出てくるってのはかなり後になります。


 無文土器の源流はどこにあるのか?それが支石墓と同じなのに当たりました。遼河下流地域の夏家店下層文化に当たりました。これハプロN系が起こした遼河文明の流れです。シニガイも同様にN系のツングースだろうと見られています。


 この点、コーカソイド遺伝子と、N系の高さで青森秋田の地域が上げられます。この対岸にあたるのがここです。縄文時代から交流が行われていたと予想されていて、ソバヒエなど北方減産と思われる農作物が入ってきて、ここからじゃないか?といわれています。


 東方で混血したのはある意味西方ですでに同じ民族だったのではないか?と見ています。実はこれ大きな問題があります。これで解決と思ったら、支石墓って半島で南方と北方で形態が違います。その違いがここにあったんですよ。南方ルートは当初独自に発展したと思われていたのですが、そっくりなものが江南から見つかりました。最初から南方と北方は文化圏が違っていたのではないか?って点です。


 O1B2が江南から広がったって説になってしまいます。これね支持する理由も分かるんですよ。ただあまりにも見事に現地から消えてるので、私は現地起源については南方アジアのハプロから疑惑はなくなりました。でも北上がもっと早い時期だろう?って点です。それだと消えてしまうのが移動先で増えたなら元消えてしまってもおかしくないからです。


 弥生時代付近の移動ならああも綺麗になくなるのはおかしくないか?となります。これには理由があって江南では弥生時代の前にすでに大きな事件が3つあります。長江文明の謎の衰退と、ミャオ族の南下ですと、ミャオ族と漢族の戦いです。3つめは歴史的な文献からですが、現在のハプロの状況から多分あったでしょう。


 戦国の国家の崩壊はO1B2の移動の時期だったのか?と考えると、すでにこの3つの大きな事件で移動してる可能性が高いです。戦国国家の流民化は、すでにO2系に置きかわった民族の移動に過ぎないと見ています。その理由が、日本朝鮮にO1B2以外南方の主流の特徴的なハプロが現地に較べて皆無に近いからです。特定のハプロの移動より、当時からすでに文化が異なる中国人ハプロが多数派だったのでは?


 その問題として、遼河文明のO1B2に誰が支石墓を伝えたのか?になります。時代的に明らかに江南がスタートです。同時多発は無いでしょう。これだけ近い場所で、これだけ特徴的なものが偶然生まれたは無いと思います。次に最初から江南からもってきたのでは?なら何故あの時期に始まったのか?となります。


 早く来ていたのならもっと早く作っていて当たり前だからです。直接移動なのか?文化的伝播なのか?分かりませんが、解決する方法として、伝播である可能性が高いと思っています。今まで北方から影響を受けて変わった南方が常識でしたが、北方の方が実は凝ってるんですよ。こういうケースは伝播であるケースが多いんですよね。自分達の特徴的好みが入ってしまうからです。


 後から分かると、これ系統が違うと感じるようになります。その前は地域差だと思い込んでいたわけですが。文化が違うからです。ただこの問題、直接移動した集団が夏家店下層文化と混ざって変わったのでは?がありますが、それよりももっと早く移動して早くから混血していた集団が何らかのつながりがあったかもしれない集団から文化を受け継いで融合したのでは?と考えたほうが自然かと思いました。


 O1B2結局日本でも原日本語に合わせてしまうので、元の文化に固執しすぎない集団だなと思うのですけど。縄文人と言い日本人の先祖って本当に日本人らしいです。それでも私は、早すぎるとは思います。これは南蛮から東夷文化に染まったO1B2が受容したものじゃないか?とは見ています。どうなんでしょうね?


 無紋土器はこれ以上遡れませんでした。これは独自に発明されたのではないか?と思います。民族的には東夷系の起源となると思います。探せばこれも江南起源の遺物があるのかもしれませんが、私の調査不足です。


 さてこうなると別の問題が出ます。N系集団にO1B2なんていなかったんじゃないの?って話です。N系が日本に居るのは確かなので小集団やってきて痕跡を残しただけじゃないのか?と。これこれはこれで問題になりますね。


 歴史時代に現地から綺麗に消えるほどの大移動があったと言うすればすべて綺麗に繋がるのですけどね。研究によっては今でも現地でO1B2ごく少数なら見つかるそうです。それは別に疑ってないので良いんですが、その点中国東北部で生まれた集団ってのは多分無いです。ほぼ否定されて良いと思います。


 ただね、ハプロを知る事で、今まで考えていた民族の移動の歴史について、考え直す新しい材料が出来たってのは間違いないんですよ。ハプロからどうみても考えにくいとなります。ちなみにD系は消えています。それは少ないのと移動が早かったからです。同じ日本人のD系から移動時期が早ければ消えるのに十分な理由に成るとなります。


 3000年が早いのか?遅いのか?が主観的だと言うもありますけどね。歴史時代の文献とハプロを調査すると案外歴史どおりだってのがあります。歴史時代程度じゃそうそう民族特有のハプロが消えて無くなるなんて無いんですよ。山東省でコーカソイドが消えてしまったって事はありました。ただ都市部の一部だけだったのでどうなのかなと。O1B2が江南で余程地域的に偏った集団だったのは否定しませんけどね。


 さて、多くの古代の遺跡が陸稲だったのでは?と言う疑いがあった点で、じゃその陸稲は誰が持ってきたの?水稲だと盛んに民族移動が言われるのに陸稲は一切言われません。それを言ったら誰が西アジアの小麦を持ってきたのか?って話にもなります。当たり前すぎて取り上げられてない。


 だが私は南方原産の稲を満州まで運んだのは特定の集団だと見ています。それは水稲の集団ではありえないわけです。満州の水稲の北限の更新は、日本の傀儡政権の時代です。ものすごく近代です。詳しく知らないので無かったとは言いませんが、陸稲が雑穀として朝鮮の起源になるほどじゃなかったとなります。


 これで見えてきませんか?誰が満州から陸稲を持ち込んだのか?これ考えれば自然とO1B2じゃないの?ってなってきます。朝鮮から満州に広がったんじゃ無いです。満州から朝鮮に広がったと中国の調査で出ています。陸稲から水稲へって流れは縄文人がすでにやった事実が発見されています。同時代のO1B2が朝鮮半島で同じようにやったなら?


 直接ルートの場合の問題が、無文土器と稲作が日本では絡んで広がったのが解けません。遼河文明起源の畑作文化と稲作文化の担い手が何故自然に合流してるのですか?それをやった集団がO1B2じゃないか?と見ています。江南人の前にツングース系O1B2畑作場合によっては漁労民は入り込んでいた可能性が高いです。彼らと混血したか?模倣したか?じゃないかと見ています。


 O1B2が日本での稲作の担い手だったのは一切疑っていません。江南からの連続性で見て良いのか?です。そこで私はこれまでの水稲の北限の更新が実はO1B2の陸稲畑作による移動だったのではないか?とすると綺麗に紐解けるような気がします。


 陸稲の担い手と言う研究はほとんどされていません。これは先ほど言いましたが小麦の担い手を考えるような馬鹿馬鹿しさがあるからです。理由があって、水稲はどうでも良いんですよ。水田稲作の移動は追えるからです。遺跡に残りやすいし大規模だからです。


 一番のキーが長江文明の衰退だと見ています。ミャオ族の南下は征服という過酷なものじゃないと予想できます。何故ならミャオ族はO1B1と数多く混血してるからです。現地の稲作民と融合したと見ています。次の漢民族とミャオ族の争いですが、これは系統が違うミャオ族の戦いで、O1B2とはちとずれると思うからです。よって長江文明の衰退が一番可能性が高いと見ています。


 これ何が合ったのか?良く分からないんですよね。しかもおかしいのは、その後結局稲作自体は継続して高い文化を維持していくからです。何が衰退したのか?さっぱり分からないんですよ。これが畑作なら簡単です。連作障害で土地が荒廃して集団が移動して荒地になるって流れです。当時の水田の発達について良く分からないです。


 漁労民の魚場の移動ってのは考えていますが、ハプロが消えるほどの移動として、元の土地が都合が悪くなったってのは便利な理由ではあるんですよ。


 まとめとして長江文明の衰退に触れておこうと思う。これ過去は洪水説が出ていたけど、時期的にミャオ族との戦争の時期と重なってる。洪水説よりこっちじゃないか?と思う。生産は王のためは認めるけど、独自の権力機構は許さないよ?それなら大きく変わってしまうと思う。それにこの時期他にも寒冷化が重なって農業面でも問題が出てないとは言えない。


 稲作の北限の時期とも重なっていて、本格的水田跡が見つかってない疑わしいものをすべて陸稲とするとO1B2の北上の歴史と取れなくも無い。稲作の北限は実際はO1B2の北上が北限のように見えていただけじゃないか?と見ている。この後実際北限の広がりはある。だがそれは漢民族の征服後の大規模な農業の発展とかじゃないか?と見てる。確か治水事業とかの神話があったはず。


 ミャオは何故北上しなかったか?となると漁労の違いが指摘されてる、沿岸部と中流部は根本的に漁労の性格が異なるらしい。淡水魚による漁労生活は稲作を中心として漁労は補助になるらしい。あまり海上での船の扱いに長けてない。この民族じゃ海岸沿いに北上するのは無理だと思う。その後の分布を見ると長江を遡ったらしい。


 最初から畑作が補助の漁労畑作民だった可能性はある。これはそういった人達の遺跡も残っていて不自然ではない。主としては水田稲作が本格化する前に北上したと私は見ている。ただ元の場所から移動する理由として長江文明の衰退はとても都合が良いと見ている。


 どうもこの衰退と言うのが農業の衰退って単純なものじゃない可能性が出てきた。それなら違和感を感じていた部分が納得できる。


 以前の河姆渡文化の衰退は、一地域の放棄だと見られていて、これは違うんじゃないか?と見てる。これは洪水説が採られている。これはその地域での農業そのものの崩壊で、こういったものはある意味畑作の連作障害に似たものだと思う。土地が耕地に適さなくなったから移動した。それに対して長江文明は都市国家の衰退と見て取れる。種類がちと違うと思う。


 後この水田単に野生の稲に近い状態だっただけで、陸稲の方がある意味進化した栽培作物だったといえなくも無い。ただ連作障害は無いと思われる。その点連続した収益の高さは別物だと見てる。それでも最古の水田と言うほどじゃないのではないか?と思う。その証拠に様々な畑作作物との混合農業になっている。こういう場合収益性高いと集中する事が稲作は多い。


 水田と言うのをこれは考えたほうが良いとおもう。この方法なら多分古来からある陸稲と似たような発展をしてきたものに過ぎないと思う。馬家浜文化はもっと水田が発展していたようだが、これも狩猟や様々な作物との混合農業が普通に行われている。朝鮮で日本で発達した労働集約的な水田稲作とちと違う。


 時代が近い良渚文化を待たないといけないと思う。これなら漁労畑作民としてO1B2が故地を捨てて移動する事は十分考えられる。世界最古の水田栽培稲作って言葉に騙されていた。何故稲作民が畑作民に戻れないか?の重要な部分がこれじゃ無い。手間のかかる労働集約性とそれに見合う収穫となる。それがこれじゃ無理だと思う。


 良渚文化については詳しくは知らないがさすがに時代が近いので、元が発展して無いと出先で発展すると思えないので。半島日本に影響を与えたレベルは発展していたのだろう。


 民族主義のアンチも反論も賛同もまとめて情報が酷く劣化してる。きちんと調べればおかしな話ばかりネットにあふれてるのが良く分かる。


 陸稲に関して、O1B1の高い満州での出現率からこっちの可能性も高い。これは単純な民族移動と思えない。O1B1とO1B2はともに移動した可能性が高い。最後にこういう事をなんだが、より謎が深まってしまった。満州国を考えて無視したけど、そんなレベルじゃない。華北方面と満州に広い広がりを持った分布で近代の移住じゃとてもありえないレベル。


 謎だもうわけがわからない気持ちになってる。渤海に集中してるので、漁労民の主ハプロはO1B1である可能性が高い。



 追記:渤海湾付近で高い数値を示す満州民族に高い割合のO1b1a2は分岐年代が古すぎるため江南から稲作を携えて移動は考えにくい。渤海湾で発達したのは漁労より遼河文明の恩恵が考えられる。この稲に関しては系統は無視して良いと考えられる。ちなみに曹操がこのハプログループに所属すると子孫から推定される。

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