*第五話*
「いやあ、なかなかいいよね、ああいうやり取りは」
江尻さんが始めにそう言って不謹慎に笑ってみせた。
「私たちも人事ではないですよ。いつ、加害者側にまわるかわからない種類の人間ですからね」
私がそう言うと、不思議と笑いが込み上げてきて三人で大笑いした。
「人間、仕事の上では、あのぐらい熱くなる瞬間があってもいいんですよ」
測量さんも満足げにそう言って笑った。こんな夜は簡単には眠れそうになかったので、私は二人を自分の部屋に招き入れてもうしばらく話すことにした。
「あの赤いドアは江尻さんの部屋だったんですね。さっき、あの辺りで絶叫している人がいたんですけど、江尻さんはあんな声出しませんよね……?」
二人を部屋に入れてしまうと、私はすぐにその一件を思い出してそう尋ねた。
「ああ、あの声のことね……、何かを応援しているような大きな声が確かに聴こえたね……。言うまでもないけど、あれは僕じゃないよ。もっと奥の部屋の住民だと思うけどね…」
江尻さんはそう釈明した。
「奥の部屋には名うてのスポーツライターさんが住んでいるんですかね?」
「さあ……、奥の二つの部屋は引っ越し作業を見ることが多くて、最近だけでも何度も住民が入れ替わっているから、職業はわからないな……。ただ記者じゃないかもしれないよ。かなり酒に酔ってる声だったからね」
「そうですね……、あれは相当酒が入った声でしたよ」
測量士さんも、すかさずそう相槌を打った。
「私はスポーツ観戦に夢中なオランダ好きな記者さんが住んでいると思い込んでいたのですが……、そうですか、ただの酔っ払いの騒ぎだったのかなあ……」
私はそこで会話を一端切り、冷蔵庫からビール缶を出してきて、二人にうやうやしく手渡した。
「おいおい、僕はまだ仕事中なんだよ。こんな早い時間から飲めっていうの?」
江尻さんは顔をしわくちゃにして笑い、楽しそうにそう言うと、一番先に缶蓋を引き開けた。
「しかし、あなたはひどいですよ……。こういう騒ぎを一度も体験したことがないって、はっきりと言ってたじゃないですか……。今夜はドアの影からしっかり様子を伺ってましたよね? やっぱり、こういうことがあるって、知ってたんですね?」
私は酒の勢いもあって、隣に座布団を敷いて座っている測量さんに食ってかかった。
「いえいえ、あの時の会話は、そういう意味ではなかったはずですよ。だいたい、今夜の騒ぎだって、どこにもある普通のマンションにだって起こりそうなものだし、作家はこの国のどこにでも住んでいますからね……。私の故郷は雪深い東北の山形なんです。ご存知の通り、山と川ばかりで、町から少し離れるだけで民家がほとんどなくなるような地方ですけど、そこにもいい文章を書く作家さんが多く住んでいるんですよ……。都会の中心にいて、このくらいの騒ぎで……、あなたね、いちいち驚いてたらだめですよ。だいたいね、改札で乗客の切符の回収すら行わないような田舎の駅員は、汽車が鳴らす大音量の警笛でね、いちいち跳ね上がって驚いたりしないでしょう? あと……、他に例えて言うならなんだろ……? ああ、動物園の飼育係だってそうですよ。象や猿の糞が臭い臭いと、いちいち文句をつけていたら、あんな仕事はね……、とてもできないんですよ。わかります? 他人は嫌がることかもしれないが、自分はそれが好きだからやっているというか、職業病ってやつですよ……。私は建設現場で働いていますが、ここへ住んでいる以上は、心はすでにライターでもあるわけですよ。何しろ、毎夜、想像と時間と編集の戦いである、あのような大音響を聞かせてもらっているわけですからね……」
彼は目をすっかり充血させながら、私をうまく丸め込もうとするかのように熱く語った。江尻さんもそれに大きく頷いた。二人がもうすでにかなり酔いがまわっていることは言うまでもない。
「動物園の飼育係って……、いいよねえ、いや、僕自身はその仕事に夢があるとは思わないんだけど、追いかける人は徹底的だからね……。実は僕が昔バイトに勤めていた頃に好きだった女の子がね、ある日突然、『日本なんてもうだめでしょ?』 って言い出してね……。まあ、おそらく当時は未曾有の大不況時だったから、日本全体が少し落ち込んでいた時期だったし、他の人にも学校にも、企業団体にも、何物にもすがれないような喪失感もあったんだろうね……。彼女はある意味で、日本社会に絶望してしまったらしいんだけど、日本を飛び出してアメリカで動物の飼育係をやりたいなんて言い出してね。なんで、アメリカを挙げたのかは、今でもさっぱりわからないんだけど、こんな世の中だからこそ、この国で堅実に生きろって僕は引き止めたんだよ。もちろん、行って欲しくなかったしね。だけど、彼女はどうしても日本を出るって聞かないわけよ……」
「青年時代の話ですよね? じゃあ、その娘と付き合ってたんですか?」
僕が酔った勢いで興味津々で横槍を入れると江尻さんは右手の甲を差し出して僕を制した。
「まあ、聞いてくれよ……。これはいい話なんだよ……。それでさ、彼女の話が本当なら、これが今生の別れになるわけだから、僕も必死になって彼女に告白したわけだよ。君とは別れたくない……! 運命の人だからって言ってね。だけどね……、次の日に彼女はなぜか自分の姉さんをバイトの職場まで連れてきてね。決断を他人任せにした理由もさっぱりわからないんだけど…。そのお姉さんが僕の顔を一目見るなり、『この男はダメ!』って彼女に向けて怒鳴ったのよ……。こんな男に引っ掛かっているようではダメって意味だと思うけど、僕は呆然と立ち尽くすしかなくて……、あの時のやりきれなさは今でもしっかり覚えてるなあ……」
三人でそのようなくだらない話を続けていると、夜中の1時をまわった頃、上の階からいつもの女性の叫び声が聴こえてきた。「もうだめ! 絶対限界ライン! 水だけでも飲みに行かせて! だめ? それすらダメだなんて、誰が決めたの?」などと金切り声で叫んでいて、私はそれが誰の声かあえて思わないようにしたのだが、普段よりもさらに煮詰まっているようだ。
「上でまた始まりましたね?」
私が目配せしてからそう言うと、江尻さんは嬉しそうな顔になった。
「鈴又先生は偉いよね……。どんなにギリギリの状況になっても、朝にはしっかりと原稿をあげるんだからね……。綱渡りっていう言葉があるけど、彼女は長年のこういう経験で、綱の渡り方をちゃんと知ってるんだよね……。他人にまで渡っているところを見せちゃうのはどうかと思うけど……」
「ああ、では、キリキリとした切迫の空気と、究極の責任感の狭間にいると、ああいう絶叫をしてしまうわけですかね?」
私が何かを悟ったようにそう尋ねると、測量士さんはなぜか首を横に振った。
「いえいえ、私には何も聴こえませんよ。いつも、そう言っているでしょう?」
今度ばかりは誰もかも笑いださずにはいられなかった。彼はあくまでもこの問題に対しては知らぬ存ぜぬで通すつもりらしい。作家の苦境に対する発言はすべて禁句だと、そう言いたいようだった。
「た、確かに何か聴こえる……のかもしれないが、ここは民主主義国家なんだから、だから……、市民がどんなすごい声を出しても……、出してもね、構わないんですよ……。け、警察ですよ。警察が来るまでは事件にはならないんです。げふっ、警察が来て、聞き込みを始めたら、初めてこれは一大事だということになるんです。このマンションでは諸般の事情で、通報する人間は誰もいないから、だって……、警察に踏み込まれたら、自分の方がやばいっていう事情を抱えた人がいっぱいいるわけでしょ? あなただって、私だって困るかもしれない……。つまり……、何だっけ……? ああ、そういう意味では、このマンションでどんな大きな声を出しても事件になるとは思えませんけどね」
彼はそのようにこの話に公権力の影響を絡ませ始めた。
「それは実際、警察が来たら、どうなるかわからないよ。確かに、ここに住む全員が任意で呼び出されるかもしれないしね……。でも、あなたのさっきの話は面白かったね。どんな職業の人間でも、この作家マンションに入ってしまったら、作家と同じ心情で生活しなければならないってところがね……」
江尻さんは話を膨らませるのが上手い。こうやって、酒の席を退屈させない術を心得ているようだ。
「そうでしょ……? わ、私だってねえ、しがない建設作業員で薄給で働いているけど、心は皆さんと同じですよ。だって、私の部屋にだって、時々、部屋番号を間違えた編集者さんが尋ねてきたりしますしね。そう……、そういうとき、少し嬉しくなるんですよ。普段はビルの建設現場で工事機具を扱っていても、そういう瞬間だけは、ああ、ここではみんなが作家でなくてはならないんだとね……」
「いいこと言うなあ……。住んでいる人は皆さん一蓮托生だよね……」
「ところで……、つかぬ事をお伺いしますが……、なぜ、ここには作家さんばかりが集まって住むようになったんですか? 契約上は一般の人でも住めるわけでしょ? 一般の不動産屋に募集は出していないんですか? 実際には住民は出版関係者がほとんどみたいですけど……」
「それを聞くかい? いくら酒の勢いに任せてみても、そのストーリーだけは語らない方がいいよ」
江尻さんは愉快そうに笑ったが、避けたい話題なのか、なぜか逃げ腰だった。
「大光栄印刷って会社知ってる?」
そう真顔で口を開いたのは測量さんだった。
「知りませんね。どこにあるんです? そう大きくはない会社ですか?」
「もう、どこにもないよ。出版の企画と印刷を兼ねた大会社で70年代までは日本で三本の指に入る出版会社だったんだよ。大手の新聞印刷の請け負いや、雑誌の出版もしてた。50万部を越えるような雑誌をいくつも手がけてたんだ。だけど、会社が好調な時期に幹部たちが外国のリスキーな国債に手を出しちゃって、怪しい団体から持ち掛けられた土地売買なんかにも手をだして、会計には見えない損金をたくさん作っちゃって、まあ、そういう乱脈経営を繰り返しているうちに、一般社員が誰も気がつかないうちに債務超過になってたんだよ」
「それで、倒産してしまったんですか?」
「そう、だけど、その本社は12階建てだったんだけど、その4階から地下4階までは全部印刷工場になってて、刷版から枚葉、そして印刷や製本や発送に関わる人まで合わせて1000人以上が働いてたから、当然、若い独身者が多かったんだよ。当時だから、都心の近くに家を買える人も少なかったし、新聞も手がける印刷業だったから、二十四時間操業しないといけないし、仮の宿舎が必要だってことになって、会社が絶頂期に購入したのがこのビルなのよ……」
「では、ここは元々は印刷会社社員の仮眠用の宿舎だったんですね?」
「そう……、でも、ここからが複雑なんだけど、会社が倒産してみると、本社ビルは当然銀行の抵当に入ってるから、すぐに差し押さえられちゃって、社員が引き払った後で取り壊されて、さら地にされてしまったんだけど、今、この建物の西側に商店街がある大通りがあるけど、その向かって右手側にディスカウントショップがあるでしょ? ちょうどあの辺に大光栄印刷の本社ビルがあったんだよ。もちろん、今は面影なんてないけどね。しかしね、今我々がいる、この宿舎用のビルはというと、なぜかどこの債権者の抵当にも入ってなかった。会社が潰れた後、80年代後半になってから一部の編集者が集まって、新しい出版社を立ち上げたんだよ。もちろん、当時より規模は小さくなったけどね。それが!」
そこで測量さんは話を一度止めて、私の胸に人差し指を向けた。
「あなたたちが今付き合ってる出版社なんだよ」
「本当に? 会社の黎明期にそんな革命的な話があったなんて、全然知らなかったですよ」
私が驚くと二人は大笑いした。業界人なら知らないと恥ずかしい話だったらしい。
「まあ、倒産と再生なんて、この業界ではそんなに珍しい話でもないからね。ただ、僕が知っている話とはちょっと違うなあ。まあ、僕の話は今日は聞かせないけどね」
江尻さんはそう言って、さらに笑いながら6本目のビールを開けた。
「新しく立ち上がった会社の幹部は、もちろん、大光栄印刷当時の編集者たちだけど、彼らも給料や立て替えておいた原稿料の一部、それと退職金などで、元の会社に対して、かなりの債権を持っていたから、それと引き換えという形で、当時は宿舎だったこのビルを引き取ったということ……、だったはず……だけどね……」
「僕の記憶もあやふやだけど、それでだいたいあってると思うよ……。大光栄印刷も大変だったよね……。倒産したときは、社員のほとんどを他の出版社や関連の印刷会社に引き取ってもらうっていう話だったんだけど、実際には半分以上の社員が再就職先が決まらないうちにお払い箱になっちゃったしね……」
江尻さんが、一度頷いて、話を引き継いでそう話を繋げた。その発言で測量さんの炎を思わせるような話しっぷりに再び油が注がれた。
「我々だって、大変だったんですよ……。職が無くなった後、経営陣の責任を問うデモやらビラまきやらをやりながら次の職を探して、私はいくつもツテを頼って、やっと知人の紹介で今の会社に入れたんですよ……」
「ああ……、測量さんは元々大光栄印刷の社員だったわけですか……」
私はようやく合点がいって、バチンと大きく手を叩いた。建設業の彼が異業種ばかりの住家であるここに住んでいる理由がようやく理解できたのだ。
「あの後、大変だったでしょ? 大光栄印刷は組合活動が活発だったから、他の会社の経営者からは敵視されてしまって、あそこの元組合員だけは雇わないっていう方針の出版社もあったらしいしね」
「私だって、就職が決まるまで丸一年くらいかかりましたよ……。これまで付き合いのあった出版社の雑誌だって、我々の経営陣非難の活動に対しては、マイナスイメージになるようなことしか書いてくれないし、世間からは散々組織潰しのような嫌がらせを受けて、通行人の中には『会社が潰れたのはおまえらのせいでもあるだろうが』なんて野次っていく人達もいて驚きました。世間から見れば、我々も旧経営陣の仲間のような扱いだったんでしょうね。そうして不当な弾圧を受けている間に、最初はまとまっていた元社員たちもみんなバラバラになってしまったんですよ……。争議はまだ続いていて、いまだに仕事にありつけなくて、日雇いしながら活動を続けている人も少数いるんですよ……。中には、そういう仲間にも加われなくて……、なにしろ、人間にはそれぞれ別々の生活や家族の事情があるからね……。知人や周囲の人間の意思だって尊重しなければならないし……、そういうものに揺さ振られているうちに、行きどころも無くしてしまって、すっかり落ちぶれてしまって……、警察に追われるような組織に入ったり、恐喝とか密輸とか非合法な商売に手を染めてしまった人達もいるけど、そういう人間を簡単には責められないよね。自分だって、どこかで曲がり角を一回間違えていたら、そうなっていたのかもしれない……。自分だけは職をもらって助かって、それで良かったと言えるのかどうか……」
測量さんはそこで一度溢れ出た涙を拭って、再びビール缶を握りしめた。これまでの半生の苦しみを思い出し、万感の思いが込み上げてきたようだ。
「それで、このマンションは今の会社に引き継がれて、うちの会社関連の人が住む賃貸マンションになったわけですか……。私なんて何も考えずに簡単に踏み込んでしまったけど、思いもかけない歴史があったんですね…」
私は測量さんを励ますためにそう言ったが、その言葉を聞くと、江尻さんはこれ以上場の空気が暗くならないよう、明るい顔で語りかけてきた。
「一度は、ほんの数人の悪事のためにダメになってしまった事業だけど、みんなでもう一度立て直そうってことで、気合いを入れ直して集まった人達の会社だから、かなり書籍作りに対する気概があるし、そういう熱い気持ちについていきたくて、ここに住むようになった作家も多いんじゃないかな……。袴田先生や上谷先生は大光栄印刷当時から付き合いがあるから、そういう思いが特に強いと思うよ。彼らはお金が貯まっても簡単にはここを出ないんじゃないかな。鈴又先生はどうだかわからないけどね……」
私はそれに頷いて隣をふと見ると、すでに測量さんは首がうつらうつらと揺れてしまっていて、限界が近そうだった。時計を見ると、すでに2時半を廻っていた。
「また今度3人で飲みましょう」
そう言って今夜のところは解散することにして、名残惜しかったが、二人の肩を持って玄関から送り出した。廊下に出ると、涼しい風が頬に当たったが、それと共に、上階から、いまだに睡魔や自分の中の何かと戦っていると思われる鈴又先生の、耳をつんざくような絶叫音が聴こえてきて、私は身をすくめた。
ここまで読んでくださってありがとうございます。もう少し続きます。




