*第四話*
その夜はいつになく長い夜になった。普段のように10時頃には執筆の仕事を終え、寝酒を軽く飲んで布団を敷き、疲れていたのですぐに横になった。ここまでは普段通りに進んだ。だがこの夜は、この2階フロアのどこからか何度となく響いてくる歓喜とも絶叫ともとれる大きな叫び声に悩まされ、なかなか眠つけなかった。
実はこれは初めてのことではなく、引っ越ししたての頃から、頻繁にこれと同じような騒ぎ声が聞こえてきていたのだが、何度かよく聴いてみると、何かスポーツ番組を見て熱狂しているかのような声だったので、これまではさほど問題視していなかった。だが、なぜか火曜日と金曜日の深夜だけは必ずと言っていいほど、この狂ったように叫ぶ声が聴こえてくるので、週末ぐらいはゆっくり休みたいと願っている私としては、いい加減、精神的に堪えるようになってきた。そろそろ真相を解明する時期が来たのかもしれない。考えてみれば、この階は雑誌記者が多く住んでいるので、スポーツを見て、人並み以上に興奮してしまう人間が住んでいたとしても、まるで不思議はなかった。彼等にとってみれば、テレビでスポーツ観戦をすることは仕事の一環でもあるわけで。しかも、そうやって自分の精神状態を興奮の極みにまで一気に引き上げながら、スポーツ雑誌の提灯記事を書いているのかもしれない。そういうことであれば、こちらからクレームをつけることは、彼の仕事の邪魔にもなりかねない。どうしたものだろうか。
私は一度布団から出て身を起こし、新聞のテレビ欄を開いた。案の定、今夜は10時から外国のサッカー中継がやっていたのだ。サッカーとは厄介だ。90分という長い試合の中で、野球や相撲よりも興奮する場面が多く訪れるからだ。国民の一番多くが、その動向に注目しているスポーツでもある。私はしばらくの間、この階のどこかで絶叫している男性が見ているのと同じと思われるチャンネルをしばらく見ていることにした。すると、画面の中で赤いユニホームを着たブラジル人の選手が、鋭いドリブルで敵陣内まで持ち込み、相手のチームのディフェンスを二人も交わして、そのまま低弾道の素晴らしいシュートを決めた。これは素晴らしいプレイだ。私も思わず絶叫したくなったが、そこはぐっと抑えて、すぐに入り口のドアを開いて廊下に飛び出て、フロアの奥の方を見据えながら耳を澄ましてみた。ところが、この階のどこからも先ほどのような大声は聴こえてこなかった。おかしい、あんなにいい場面だったのに……。いつものように狂おしい叫び声をあげるには絶好のタイミングであったはずだ。もしかすると、先ほどの絶叫者は仕事に疲れてテレビを付けたまま、すでに寝てしまったのだろうか? それとも自分が応援していたのと別のチームの側がゴールを決めたので、今は肩を落としてがっくりしているのだろうか? この時点では何も疑問は解決せず残ってしまったが、試合内容もなかなか面白かったので、私はそのままテレビを見続けることにした。
しばらくすると、先ほど点数を入れた赤いユニホームの方のチームにまたチャンスが訪れていた。今度はブラジル人からのロングパスをペナルティーエリア内でオランダ人が胸でトラップすると、そのまま胸のすくような弾丸シュートを放ったのだが、これは惜しくもゴールの左側へ逸れていってしまい、得点にはならなかった。はずなのだが、その瞬間、「なんでだよおー!」という絶叫が壁を何枚も貫通して響いてきた。やっと来たかと思い、私はすぐにドアを押し開けて廊下に飛び出した。すると、今度は「おまえ、それはひどいよ! 何度やれば! なんてことだあ!」と同じ人間の大声が何度も聴こえてきた。それらは、ほとんど、理不尽な騒音に悩まされ続けている私の方が言いたい台詞なのだが、叫び声は三部屋ほど奥にある赤いドアの部屋から聴こえてきたように思えた。あの部屋には熱狂的なスポーツライターが住んでいるのかと、私は推測して、ある程度の満足感を持って、何も言わずに部屋に戻ってきた。いろいろ言いたいことはあるのだが、スポーツ番組に熱中して、つい大声を出してしまうということは、世間の一般家庭でもあることだし、たまたま、音が響きやすいこの建物に住んでいるからといって、その人にとっては、選手のスーパープレイを見ることが無類の幸せの瞬間である。それが周囲の人間の戒めによって制限されることがあってはならないとも思ったからだ。私だって、これからどのような迷惑を周りの住民にかけてしまうかわからないわけだから、うるさい! と怒鳴りたいところをあえて我慢して、相手に貸しを一つ作る思いで今回は黙って引き下がることにした。もし、あまりにも目に余るようになってきたら、それはその時に対応しようと思った。
その後、しばらく同じサッカー番組を見ていてわかったことは、その絶叫者は試合でどちらのチームが押しているかということにはあまり興味がないようで、どちらがチャンスを作っても点数を入れても、さほど目立った動きを見せなかった。しかし、先ほどチャンスを作ったオランダ人がボールを持つとやたらと興奮するようで、オランダ人が画面の中で何か行動を起こすたびに、何度も何度も聞き取れないほどの奇声を発していた。彼は単にこのプレーヤーが好きなだけなのか、それともオランダ人プレーヤー全員が好きなのか、それともオランダ人以外のプレーヤーが嫌いなのか、それともオランダという国家そのものが好きなのか、あるいは絶叫者はそもそもオランダ人なのか、結局はこのどれかには当て嵌まるのだろうが、予想してみたところで、それは憶測の粋を出ず、今夜のところはそれ以上踏み込むことはできなかった。サッカーの試合が終了し、番組が終わると、再び辺りは静まり返った。私は安心して再び布団に入って目を閉じた。
どのくらいの時間が経過しただろうか、今度は廊下で誰かが口論しているような声が響いてきた。どうやら、二人で話しているようだが、最初は落ち着いていたその会話は次第にヒートアップしてきた。
「だって……、何度も何度も約束したじゃないですか……! 期日は金曜日だって! それなのになんで連絡もくれないんですか? ……あなた、電話だって……ってないし、こっちだって、こんな……になってしまったら、もう、どうしていいかわからないじゃないですか!」
「謝らなくていいです! ……なんで…、いいから…、頭を…になる……、下げないでくださいよ!」
今度は先ほどのスポーツによる絶叫よりも遠い場所で戦いが行われているらしく、聞き取れない部分も多いのだが、これはおそらく編集者と執筆者の締め切り間際のやり取りで、私にしても身近な問題であり、いたたまれない心境にもなるのだが、あまりに必死な口論なので、両者とも相当時間に追い詰められていることはわかった。
「なぜなんですか? なぜ……、何度もこういうことを……」
編集者とおぼしき男性はすでに涙声になっていて、自分が担当している自堕落な作家に対しての必死の説得が続いていた。同じ職業に就いている私からすれば、何が起こっているかを推測するのは簡単で、おそらく、作家の方は、かなり煮詰まってしまったから、今から期日に間に合わせるのはすでに無理だと申告しているのだろが、編集者は印刷日程の関係で簡単には引き下がらず、泣き落としにかかっているのだろう。作家側の男性の声は暗くて落ち着いているため、なかなか響いてこないが、「ですから何度も……で言いますけど、もう少し色校の日を…、そこをなんとか…」などと、謝っているようにも、うまく言いくるめようと、言い訳を繰り返しているようにも聞こえた。私はどんな状況なのか、すっかり興味深くなり、眠気がとれて意識がしっかりしてくると、布団から再び這い出してドアの外へ顔を出してみた。すると、おかしいことに、隣の部屋の赤いドアも開いていて、例の測量士の方が顔を出していた。彼も現在進行中のこの問題にえらく興味があるらしい。朝が早いから、時間的にはすでに寝入っているはずの彼に出会うとは、かなり意外な気がした。まあ、怒鳴り声と違って泣き声というものは様々な憶測や想像をかきたてられるものである。
「とにかく、早く誠意を見せてくださいよ! 一緒に死ぬ思いになって、今夜中に決着をつけましょうよ! このまま時間だけが経てば、今日が、あなたと私の人生の曲がり角になっちゃいますよ!」
さすがに廊下まで出てくると、編集者の大声ははっきりとここまで聴こえてくるようになった。騒動は私の部屋から4つ先の青いドアの部屋で起こっているらしい。先ほどの絶叫サッカーの一つ向こう側である。その部屋のドアが半開きになっていたので、ドアの影に隠れてしまって当事者たちの姿までは見えなかった。隣の部屋の測量士さんも少し楽しそうに首を伸ばしてその様子を伺っていたが、ふと、後にいた私に気がつき、慌てて会釈した。私も唇に人差し指をあてて、声を出さないように一緒に笑った。周囲の部屋の迷惑になっていることを薄々と気づいてきたのか、あるいは気恥ずかしくなってきたのか、二人の論争も少しずつテンションが落ちてきて、結局は大団円を迎えそうな雰囲気も、多少は感じられるようになってきた。
そんなとき、事件が起こっている部屋の一つ手前の赤いドアが開いて、コピーライターの江尻さんがひょいと顔を出した。彼はすぐにこちらに気づいて、我々二人に向かって、「この騒ぎは僕のせいじゃないよ」とでも言いたげに手を振って見せた。彼もずいぶんと楽しそうで手で口を塞いで笑いを噛み殺していた。このような修羅場に慣れているマンションの住民にとっても、今夜の騒ぎはなかなかのお祭りのようである。
「じゃあ、そういうことでしたら……、もう一度、外で相談しましょうよ……。今からでも、何か解決の糸口が見つかるかもしれない……」
その決着とも思えるセリフで気づいたのだが、泣きを入れていた編集者は平田さんだった。マンション内でも会社内でも、いつもは静かにしている人だから、あんなに凄い声を出して悲哀を演じられる人だとは思ってもみなかった。平田さんと加害者のライターさんは、どうやら外の喫茶店で企画の日程を練り直すことにしたらしく、二人揃ってドアの外に姿を見せると、我々の方に向かって歩んできた。我々三人が慌ててドアを閉め、部屋に引きこもったのは言うまでもないだろう。彼らが通り過ぎてしまうと、我らは再びドアの外へ顔を出し、お互いの顔を見て、いたずらっぽく笑った。
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