*第三話*
このマンションの住民の生態や施設などの特徴について、二、三書き忘れていたことがあったので、ここで補足しておいたほうがよいだろう。一つは建物の構造についてだが、これは1970年代前半の建築物全てに言えるのかもしれないが、マンションの壁がすべてコンクリート造りなために、冬場や夜間は、かなり冷える上に、物音や人の発する声がやたらと遠くまで響くのである。先日の深夜起きたような大騒ぎが3階の廊下で発生すると、2階の善良な住民たちの部屋を天井から貫通してしまい、1階のロビーにまで響き渡ることとなる。
次は住民についてだが、数週間に渡る、決して不正を伴わない個人的な調査によって、一部例外はあったものの、ここに住んでいるほとんどの人間の職業が明らかになってしまうと、やはり、住民のほとんどは言わずもがな、執筆業の人間であった。さらに細かく分けると、新聞雑誌記者・作家・コラムニスト・漫画家・イラストレーターなどだが、ここに住むすべての人間が持ち合わせている特徴として、同業者同士での挨拶や日常会話をほとんどしないことが挙げられる。なぜか、皆さん自分と同業の人間をわざと避けているように見受けられるのだ。例え、廊下で自分と同じ雑誌に書いている作家と出会ったとしても、顔を強張らせ、よそよそしい挨拶をして、後は何も言葉を交わすことなくすれ違うだけである。
このマンションの2階には小説家や記者が多く住居を構えており、3階は主に漫画家の住家であり、一部彼らの専属アシスタントが数人で借りている部屋もある。4階は経済・雑誌のコラムニストや評論家が多く住んでいるのだが、この方たちは、部屋に篭りがちで出歩く姿がほとんど見受けられないため、ここに移ってきてから数ヶ月が経過した今も、素性はよくわかっていない。
最近になると、私も新しい住居に慣れてきたのか、夕方の散歩がてらに各フロアの喫煙ルームを練り歩くようになり、その時々に、どのフロアやロビーでも住民同士の会話風景を見ることになるのだが、例えば、子猫を主役として、ほのぼのとした絵を描いて女子学生に人気を博している漫画家と、外圧に決して屈しない強固な国防論を主張する文芸雑誌のコラムニストが、なぜか一緒にクッキーを食べ、笑いながら話していたり、常に生命の危険と隣り合わせの冬山登山を生業とする写真家と、高校生の青春恋愛ものを描く少女漫画家が一緒にベンチに腰掛け、煙草を吸いながら他愛もない話をしていたりで、会話の相手の職種に一貫性がないのである。こうしたいくつかの事例を検証した結果、自分が心血を注ぎ、苦労して書いた作品をいずれ公表する立場の職業に就いている人間には、自分と同じ分野の人間を避ける何か後ろめたい本能が必ずあるのだと、とりあえずの推論をたてることにしてみた。私はこれは理にかなった仮説であると思う。なぜなら、かくいう私も、自分と同業の作家と会うのは、地位や財産の比較の面で肩身の狭い思いがあり、何かと気が引けるからである。だが、ここに住むほとんどの人間の内面に、私とまったく同じ感情が芽生えているとは考えにくいので、それぞれが何らかの別々の意図によって同業者を避けていると考えるべきだろう。
もう一つの特徴は住民の活動時間についてであるが、ご想像の通り、朝は無人のごとく静かである。編集者に罵詈雑言浴びせられ、追い回され、必死に原稿を仕上げた過酷な仕事明けで、早朝は頭を鋼鉄製のハンマーで叩かれても覚めないような深い眠りについている人がほとんどであろう。ここの住民が普段の生活を取り戻すのは、主に深夜であり、その動き始めはというと、夕方でもまだ早いくらいである。近所に住む一般の人が子供を寝かしつけ、町内会の火の用心が大声を張り上げて近くの通りを行き過ぎ、日付が変わるか変わらないかになってようやく、このマンションでは最も多くの人間が激しく活動的に動き回るようになるのだ。この辺りはハムスターの生態と酷似しているかもしれない。読者がこのような情報を得ても、何の足しにもならないことを承知の上で、このマンションの特徴をいくつか挙げてみた。
このような情報が出揃ってきたのは、このマンションに移ってきてから二ヶ月ほど経過してからであるが、ちょうどその頃、私の耳に驚くべき情報がもたらされた。何と、私が敬愛してやまない、あの、人気漫画家の袴田天平先生が、私と同じこのマンションに住んでいるというのである。この情報は隣の部屋に住んでいる、あの謎の多い測量士が何気なく教えてくれたのだが、漫画やアニメに興味のない人間にとっては、これはたいした問題ではないらしく、彼も自分が今私に伝えたことが、それほど重要なことだとは夢にも思わなかったらしい。ここは作家マンションであるし、世間で注目される有名作家が住んでいても、別段驚きには値しないのかもしれないが、袴田先生といえば、言わずと知れた『封印都市アルカリデウス』の作者であり、この作品は数年前に若者向け雑誌に掲載されるやいなや、書店から、彼の作品の関連雑誌が軒並み消え失せるほどの大ヒットとなり、その後、アニメ化、映画化と続き、彼はあっという間にスターダムにのし上がり、時の人になってしまった。その後、テレビで彼の作品が取り上げられない日はなかった。道を歩く若者は皆、この漫画関連のキャラクターグッズを身につけて歩き、海外のメディアでも、日本の社会現象として、大きく取り上げられたことがある。作者自身はマスメディアが苦手らしく、雑誌やテレビに顔写真を掲載されることがほとんどないので、幸いなことに熱狂的なファンに追い回されることもなく、日常生活を送るに支障はないようだが、読書好きな若者の視点で言えば、袴田先生は日本一の有名人といっても差し支えはないほどの方なのだ。
そうか、思えば、立場は全く違うが、私と同じ出版社から本を出しているわけだから、その管理下にある、このマンションに住んでいても一向に不思議ではないのだが、まさか、袴田先生ともあろうお方が、高度経済成長期の遺物というか、昭和リアリズムの象徴とも言える、こんなマンションに住んでおられるとは、思ってもみなかったのである。あれだけ本を売りさばいておられる人だから、私はてっきり、印税生活を満喫し、高級住宅街に住居を構えておられるのだろうと、勝手な想像してしまっていた。卓越した才能と、先の尖った鉛筆、そして口に含む僅かの飲料さえあれば、芸術はどんなむさ苦しい部屋でも描けるのだという、近代芸術家たちが築き上げた創作理論の基礎を、私はすっかり忘れてしまっていたのである。
私はもちろん彼に出会いたい思いに強く駆られた。私も数年前に自分のアパートの壁に先生のお作品のキャラクターポスターを貼っていたこともあり、アルカリメゾンが発表されてからの私の生き方や、友人宛てに発した文句や文章などは、全て先生の作品の登場人物の生き方になぞらえたものである。私の精神世界で先生の影響を受けていない部分は全く存在しないと言ってもいいのである。
ところが、この完全無欠と思われる袴田先生にも大きな弱点がある。まあ、この性質の弱点というものは執筆業の人間の業と言えるものであるから、私ごときが袴田先生の仕事ぶりについて、とやかくいう権利は全くないのであるが、先生の熱狂的なファンに批判されてしまうことを承知で書いてしまえば、彼は恐ろしいほどの遅筆なのである。最初は週刊誌で順調に掲載されていたアルカリメゾンであるが、いつからか一般の読者には公表できない理由によって隔週連載に変更となり、さらに、漫画好きな読者諸兄がよく目にすることがある『今週は作者取材のため休載』という文句が目立って巻末に載るようになり、前号の予告にはあったはずの先生の作品が掲載されていない号も多く見受けられるようになってしまい、ついには、まったく趣のことなる月刊の青年雑誌へと、作品ごと移られることになってしまったのである。その後も、先生の気まぐれにより、これでもか、これでもか、と病気休載や取材のための休載が続き、最初の頃は一年に一冊は必ず刊行されていた単行本の発売間隔は、今や夏季オリンピックと同じ間隔にまで伸びてしまい、せっかく、待ちに待った先生の新刊が発売されるに至っても、読者は前刊の結末がどういう内容であったかを覚えていない始末である。
普通の作家であれば、こんな事態が続けば、2年も持たずに業界から干されてしまい、一人寂しく郷里に帰る羽目になるのだが、そこは日本一の大作家である。キャラクターグッズの売れ行きや前述の映画・アニメの大ヒットで、出版社やアニメの製作会社はいまだに大儲け。アルカリメゾンは本筋がまったく進んでいないにも関わらず、読者やマスコミは憶測で勝手なストーリーを構築し、自分たちだけの楽しみ方を見つけるようになっていった。発表から10年以上経過した今も、その人気には全く陰りはないのである。それどころか、年月が経つごとに、アニメの再放送や中古の本、また新作映画などを見てファンになる若い層が増え、いまだに新たなファンを獲得し続けているのである。袴田先生もすでにデビューから15年が経ってしまったが、時の人から伝説の人へと称号を変えて、今でも私たちファンの心に大きな柱として存在しているのである。
菓子折りでも持って今すぐにでも挨拶に出向きたいところなのだが、いきなり見知らぬライターに訪ねて来られても迷惑だろうし、私は勢いがなかなかつかず、怖じけづいて部屋の中を行ったり来たりした。そんな時、タイミングよく、例の友人の編集者が引っ越し後の生活について知りたいと、電話をかけてよこしたのである。彼は私の前ではでかい態度を取るが、家を改築したとか、出世したとかいう話も全く聞かないため、出版社の内部でどんな地位にあるのかはわからないが、ここは、このマンションを薦めてくれた友人に、袴田先生の実情を聞いてみることにした。彼は相変わらず忙しそうな振りをしながらも、嫌々私の質問に答えてくれた。
「そんなにあの漫画が好きなら、会いに行ってみたらどうだい? 君も同業なんだし、本人もそんなに悪い顔はしないと思うよ。袴田先生は3階の4号室だよ。ミニー先生の部屋のお隣だから、両先生の仕事のお邪魔にならないようにな」
電話の向こうから、そんなそっけない返事が戻ってきて、こちらが返事を考えている間に彼はいつものように自分勝手なタイミングで電話を切ってしまった。編集者から会いに行けと言われたのだから、それだけでも、ある程度の口実にはなるし、すでに時計は昼をまわっていた。この時間なら先生も休憩がてら、少しはお時間を割いてくれるかもしれない。私は恐る恐る階段を昇って3階に向かった。
袴田先生のお部屋の前に到着したものの、当然のことながら、長年憧れてきた人との、これが最初の出会いであり、あまりの緊張で何も考えられず、胸が激しく躍った。しばらく、呼び鈴を押すことができず、いつ押そうかと、そのタイミングを考えながら、うろうろとドアの前を歩いていた。いっそのこと、彼の方から何らかの用事で出て来てくれる方が、憧れとの出会いという場面には好ましいのだが、向こうも引きこもっての仕事だけに、いつ起こるともわからない、そういう偶然を期待するわけにも行かなかった。
すると、不意に私の背中の方でドアが開く音が聞こえ、隣の部屋から白いコートを羽織って、帽子を深く被った中年女性が姿を現した。私は袴田先生の扉を注視していたので、彼女の方を一瞬しか見ることはできなかった。不自然にならないよう、横目でちらりと容姿を確認しただけだったので、詳しい外見をここに書くことはできないのだが、顔はぶ厚い化粧で真っ白であり、頬はすっかりこけていて顔のあちこちに深い皺があり、一見して50台くらいの苦労人の女性に見えた。しかも、栄養不足なのか、ガリガリにやせ細っていて、まるで江戸時代の怪談にでてくる皿割り女の幽霊のようだった。
私はこの時はもちろん、袴田先生とお会いすることしか考えていなかったから、失敬な話、彼女がどんな行動を取っていようと、さして興味もなく、そのため、覚えてもいないのだが、彼女はそのとき何を思ったのか、ドアから一歩外に出たところで立ち止まり、一度玄関の方を振り返って、自らの部屋の中にいる誰かに向かって、「作っておいて! いつものやつ! 言ってることわかる? 帰って来るまでに確実に作っておいて! ニンニク汁と唐辛子入れたやつね! 帰ったらためらいなく飲み干してみせるから! それと、もし電話が来たら、相手は誰でもいいから、下痢をして今はトイレだって言っておいて!」などと、数回怒鳴り声を発してから、ハイヒールの音を響かせて、結局は私の方を一度も振り向くことはなく、タタタっとエレベーターの方に走り去っていった。後からよく考えてみれば、この女性こそ、あのミニー鈴又先生なのだが、この時は心が別のことに働いていて、気がつかなかったのである。彼女とも初対面であるから、本来ならば、挨拶の一つもしなければならないところだったのに。
自分の部屋があるフロアでもないのに、いつまでも、この辺りをうろうろとしていても怪しまれてしまうだけなので、意を決して私は先生の部屋の呼び鈴を押した。中から声はしなかったが、床の上をひたひたと歩く足音が聞こえ、ドアの隙間から顔を出したのは、真っ青のニット帽子を被った気弱そうな青年だった。自分で袴田ですと名乗ったので、間違いなくこの方が袴田天平先生なのだが、私の想像していた豪壮なお顔と掛け離れていて、たいそう驚いて反応が遅れてしまった。漫画の読者というのは、作家を登場人物のキャラクターの風貌でしかイメージしていないから、いざこういう場面で本人に出会うと、面食らうことが多いと思われる。袴田先生はひどく痩せていて、無調ヒゲを生やした浪人中の学生のようにさえ見えた。私よりもだいぶ年配のはずだが、威厳を感じない風貌のせいか、ずいぶん若く見えた。アルカリメゾンの主人公は立派な口髭を蓄えた金髪のアメリカ産の大男で、両手斧をブンブンと振り回して、迫り来る敵を薙ぎ払うのだが、このか弱い容姿の作者の姿とは似ても似つかなかった。私は先ほどのミニー先生の怒鳴り声に感化されてしまったのか、幾分強気になっていたので、さほど緊張することもなく、初めまして、下の階に引っ越して来た者です、と軽い静かな口調で挨拶することができた。
「そうでしたか……、ライターの方で、この業界の勉強のために、わざわざここにお引越しをね……」
袴田先生は私の話を良く聞いてくれて、感心したように優しいお顔でうなづいてくれた。大先生がこんな現実的な建物に住んでいらっしゃるとは思いませんでした、と震える声で伝えると、この付近の雑多な町並みと、名誉や地位を余り気にしない人間関係が気に入っているのです、と答えてくださった。
「先生には膨大な数のファンがおられるでしょうから、いろんな方から同じようなことを言われているでしょうし、今更こんなことを言われても気が滅入るばかりでしょうが、私は学生の頃から、先生の作品の大ファンなんです。お会いできて大変な光栄です」
私が頭を深く下げながらそう言うと、先生も満足そうに大きく頷かれて、「いやはや、メディアが私の作品についてあそこまで騒ぎ立ててしまい、テレビや雑誌で大きな特集を何度も組んでしまって、自分勝手に深くまで掘り下げてしまうと、すでに世間では作品が一人歩きしてしまっているんですよね。つまり、私の手を離れてしまった印象すらあるんです。今さら、私が作品の今後の情報を何か加えていったところで、ファンの方に信じてもらえるのかどうかも疑わしいものです。それでも、頭の中で勝手に暴れてくれる登場キャラたちや、熱狂的なファンの方の声援に後押しされて、やっとここまで頑張って来れましたけどね」と、照れながら返事をしてくださった。自分のファンがここを訪れた時用の台本通りのお答えとは言え、私はすっかり嬉しくなった。
「先生の作品に出てくるジャガー三木本の『人間はどんなに偉ぶっていても、いずれ勘違いをする。だから、今おまえが考えていることもおそらく勘違いだ』という台詞が大好きで、大学生の頃に何度も繰り返して読んだのですが、今でもしっかり覚えているんですよ。私はあのキャラの主義主張に沿って生きてきたようなところもあって、あの作品は今でも私の人生のバイブルなんです」
「その台詞に対して、主人公が『では、おまえの存在自体も神様の勘違いだな』って答えるんですよね。その後、二人はこれまでの怨みを忘れてきちんと和解をして、やがて最後まで一緒に戦い抜く戦友になっていくわけですが、あの場面は締め切りに追いまくられながら、徹夜で必死の思いで描いたからよく覚えてますよ」
「そういう熱い場面をポンポンとハイペースで描かなければならないわけですから、言うまでもなく、大変なお仕事ですよね」
私は読者を待たせっぱなしの袴田さんの、多少の悔恨の言葉が聞きたくてそう言ったのだが、先生にはうまく伝わらず、作家業の宿命や本当に持ち合わせなければならない精神面の話になってしまった。
「僕らは、大工さんや料理人さんではないですから、スケジュールやお客さんの要望通りに仕事をこなす必然性は低いと考えています。決まった時間通りに美術の作品が仕上がるのは中学生の授業まででね、実際は作品の仕上がりスピードには自分の心の波長が強く作用するから、うまくピークが来なければ、思い通りの時間には仕上がらないことも多いんですよ。もちろん、その内容だって、最初に思っていたストーリーと全然違っていたりするし、その当初との食い違いみたいなものを、一見して戸惑いつつも楽しむ心も大切だったりするんですよね。必ず図面通りに自分の作品が出来上がっていく人が、もしこの世界にいるとすれば、私はその人は芸術家ではないと思いますね」
「なるほど、では、アルカリメゾンも先生の心の中で思わぬ方向へ成長したり、今後も意図しない方向にストーリーが変貌を遂げたりしていくわけですね。今後も期待させていただきます」
私は当たり障りなくそのような答えを作り上げた。咄嗟に考えた返答にしては出来は良かったと思う。
「ところで、あなたは出身はどの辺りなんですか?」
先生の方からそう尋ねてこられたときに、突然、部屋の奥の方から大声が響いてきた。
「おい! 何をそんなに長く話すことがあるんだ? さっさと仕事に戻れよ!」
その筋の職業の方ではないかと思うほど、ドスの効いた声で、一度聴いただけで私は震え上がってしまった。
「ああ、はいはい、ちょっと待って……」
袴田先生は一度部屋の内部を振り返って少し怯えたような声でそのような返答をなさった。
「出身地ですか? 私は富山なんです……」
「ああ、そうでしたか…、海がきれいなところですよね? 一度行ってみたいです……。お話はまた今度でよろしいですか? また、遊びに来てくださいね……」
袴田先生は声を震わせながらそう言って礼をすると、ゆっくりとドアを閉められた。私は先ほどの怒鳴り声に生気を奪われてしまって、最後は上手く挨拶もできずに別れることになってしまったのだが、それよりも気になったのは、あの質問に対して、自分はなぜ富山出身などと答えてしまったのかということだ。私は千葉県出身で富山とは縁もゆかりもない人間なのだが、怒鳴り声に呼吸を止められた時に記憶が全て飛んでしまい、とんでもない嘘をついてしまった。長年生きてきたが、本来は終生穏やかであるはずの、私のような人間の心理に、あるとき突然こんな高波が起こるとは思いもしなかった。
さて、部屋の中から怒鳴ったあの男は何者なのであろうか? 袴田先生を呼び捨てにしていたが、とても肉親とは思えないので、どこかのたちの悪い編集者か、あるいは何らかの因果関係を持った他の業界人かもしれないと、その時は思うことにした。私は憧れの人に会えた高揚感と、関係のない人に怒鳴られた屈辱感から、ひどく動揺してしまい、顔が燃えるように熱くなり、逃げ去るように3階を後にした。
ここまで読んでいただきありがとうございます。この作品は4万字ほどあります。もうしばらく続きます。




