*第二話*
引っ越して来てから一週間経ったある夜、布団に入ってから数時間後、突然、頭上でドスンという衝撃音がして目が覚めた。それは明らかに、上階の部屋で、何か金属製の重い物が床に倒れ落ちたような音だった。私は跳ね起きて、廊下に飛び出した。髪の毛が逆立った寝起きの顔のままで呆然と上階を見上げていると、続いて、女性のギャーという金切り声が数回に渡って響いてきた。これはただ事ではないと思い、すぐに階段を駆け上がり、3階に向かった。私の細腕では、とても役に立てないほど深刻なことが起きているような気がしたが、ともかく、あんな音を聞いておきながら、何もしないでいるわけにはいかなかった。後で、警察官に、『自分の住むすぐ上の階で、こんなとんでもないことが起きていたのに、あなたがたは何も気づかなかったと言うんですか?』などと、叱責の言葉を受けるのもまっぴらごめんである。こんな時に悪い想像はしたくないが、今の声の音量だと、若い女性が夜中に侵入してきた何者かに襲われて重傷を負ったか、あるいはそれ以上の致命的な悲劇を思わせるようなものだった。
ところが、3階フロアにたどり着いて辺りを見回しても、手摺り越しに地上を見下ろしても、なんらかの悲劇的な事故が起こった様子は全くなかった。フロアは無気味なほどしんと静まり返り、しばらく耳を澄ましていても、誰の話し声も聴こえなかった。腕時計を見るとすでに日付は変わっていた。ついさっき、あれだけの大きな声量が響き渡ったというのに、2階にも3階の廊下にも、住民は誰も出てこなかった。廊下の片隅には完全に枯れきったサボテンの鉢が一つ転がっていて、哀愁を誘っていた。もしかすると、浅い眠りがなせる悪い夢だったのかもしれないと、私は首を傾げながら2階に戻ってきた。だが、自分の部屋の中に入った途端、今度は自分の真上の辺りの廊下を数人の人間が猛スピードで駆け回っているような騒音が届いてきた。
その人間たちは、「早くしろ! まだだ! まだわからんぞ!」などと、数回叫び声を上げながら、ダダダダと、普通の人は皆、寝静まるはずのこの時間帯の静寂を突き破ってしまうことを、全く意に介さない騒音と共に、3階から1階まで一気に階段を駆け降りていった。それが警察だったにせよ、救急隊員だったにしろ、私はやはり何か悪いことが起きたのだと考え、誰が襲われても、自分だけは巻き込まれてはなるまいと、慌ててドアに鍵をかけ、布団に潜り込んだ。心臓が高鳴ってしまい、なかなか寝付けず、時々布団から顔を出して、不安げに天井を見上げてみたが、先程のような大音量ではないものの、その後も数回に渡って、若い女性たちの声で、「やっぱり、まだまだよ!」「本当に大丈夫?」「実際は、あとどのくらいなの?」「今にも暴発しそう」などといった声の掛け合いが聴こえてきて不安感は拭えなかった。
後日、ある人から聞いた話では、このマンション内部で深夜起きていれば、毎夜のように、こうした大音響を当たり前のように聴くことができるらしいのだが、実際のところ、これに慣れるまでにはかなりの時間がかかった。
翌朝、目が覚めてから昨夜のことを思い出し、事の真相を知りたいと思ったのだが、この付近の住民にあまり知り合いがいないため、誰に連絡をとっていいかわからず、とりあえず散歩がてらに朝食を先に食べることにして、部屋を出た。
すると、私が出るのと時を同じくして、隣の部屋のドアも開き、中から出て来た薄緑色の作業着姿の男性と目が合った。私は咄嗟に頭を下げ、実は先日引っ越してきたばかりです、と慌てて挨拶し、彼が隣の部屋に5年ほど前から住んでいて、近くにいる建設会社で測量の仕事をしている作業員であることと、毎朝、この時間に家を出て、会社まで自転車で通っていることなどを知った。彼は私より背が高く、髪をしっかりと整えていて、目は細く平凡な顔立ちだが、がっしりとした体つきだった。
私はちんけなライターで、ここには高名な作家や漫画家が多く住んでいるそうだから、見習いのために引っ越してきたのだと、多少大袈裟に説明したところ、「そうでしたか、ここは昼も夜も業界の人が多く出入りしているから、付近の住民からは作家マンションなんて呼ばれているみたいですけどね」と、私の自己紹介を納得したように受け入れてくれた。
「ところで、昨晩のことなんですが、ちょうど、12時頃、上の階から助けを呼ぶような叫び声や、凄まじい騒音が聴こえませんでしたか? 私はその音が怖くて眠れなかったのですが……」
私は出会ったばかりの、この人に、さっそく本筋のその質問をぶつけてみた。しかし、男性は腕組みをして首を傾げ、私の尋ねることに、不思議そうな顔をするばかりで、納得のいく反応は得られなかった。
「いえ、私には何も聴こえませんでしたね。このマンションはあなたもそうですが、文筆業の方々ばかりが住んでいますから、やたらと体面を気にする人が多くてですね、なんというか、皆さん小動物のように、こそこそと生活なさっているから、夜中に、不謹慎なことをする人はいませんよ」
私はその説明を全く受け入れることができなかった。昨晩耳にした、地鳴りのような騒音や、断末魔の叫び声は今でもしっかりと耳に残っていたのである。しかし、この男性の冷静な語り口にも、嘘であるとは思えない現実感があったので、彼は昨晩、相当に疲れていて、何も聴こえなくなるほどによく寝ていたのだろう、という結論に達するしかなかった。
「それならばいいのですが、こんなご時世ですから、お仕事大変でしょうねえ。かなり、お忙しいのでは?」
すると、男性は余裕の笑みを浮かべ、手を横に振って私の牽制球のような探り文句を真っ向から否定した。
「そんなことはないですよ。のんびりと働ける会社です。この時間から夜の9時までですから、まあ世間一般の人から見れば多少忙しいのかもしれませんが、仕事はあればあるだけありがたいですし、何の不満もありませんね。給料は世間と比較して普通か、やや少ないかというところです」
「しかし、これ程の不景気ですし、私自身の先入観になりますが、建設業は相当苦しいと思っているのですが……」
「いやいや、そんなことは全くありません。みんな、笑顔で働いていますし、家庭持ちの人が多いですね。うちの社員は、口々に日々充実していると言いますね。セクハラなど論外ですが、いじめやパワハラも全くないですよ。環境が良くて居心地が良すぎるのか、短期間で辞める人がほとんどいませんので、あまり多く新入社員をとってあげられないのが残念と言えば残念ですが、それは仕方ないですね。そういえば、昨今の不景気で大学を卒業したての若い人は大変だそうですね」
今の世の中には、どんなに人が良さそうな顔をしていても、自分の内面を見せたくないばかりに、周囲の人間に対して、顔色一つ変えずに平然と嘘を突き通せる人間が多くなっていて、そのために悪の限りを尽くした詐欺行為が横行して、それに騙されて大金を失ってしまう人が多いのだと、テレビやラジオなどで報道されていて、当然知っているのだが、もしかすると、眼前のこの人も、被害者にせよ、加害者にせよ、その類ではないかと思うようになり、さらに色々と質問を投げかけたい衝動に駆られた。だが、彼は会話が一瞬途切れたことを幸いと、時計をちらりと見てから立ち去ろうとした。
「うちの会社は母体がうるさ型の民主団体なので、遅刻にはかなりうるさいんです。就業の前に健康体操などがありましてね。今度またお話しましょう。これで失礼します……」
男性はそう言って、私の質問を遮ると、そそくさと出かけていった。駐輪場から自転車を運び出す音がしっかり聴こえたので、これまでの話も嘘ではないらしい。いったい、昨晩のことに関して、彼の話と私の耳とどちらが間違っていたというのだろう。
私はその男性が出ていくのを見届けると、自分も朝食に出かけた。時間のかからない簡単なものを食べてマンションまで戻ってくると、先日階段で出会った平田さんと、入り口のところでまた顔を合わせることとなった。彼はちょうど今、自動車でこのマンションに着いたところだった。私の姿を見ても、今回は全く驚いた様子はなく、右手をさっと上げて挨拶してくれた。
「昨晩、よく眠れた? うるさくなかった?」
いきなり、彼の方から、ことの真相についての釣り糸を投げてくれたので、その話題に餓えていた私は喜んで喰いつくことにした。
「ええ、すごい騒音だったんですよ。やはり、3階の住民には何かあるんですか?」
平田さんは、やっぱりねといった顔をしてうなづくと、少し時間があるからと言って、煙草に火をつけ、そのことを説明してくれた。
「おそらくね、ちょうどあなたの頭上の部屋になると思うんだけど、あの高名なミニー鈴又先生が住んでるのですよ……」
「ああ……、お名前は存じています。ファッション雑誌なんかに小さめのかわいいイラストを掲載している方ですよね?」
「いやいや、ゲームやパソコン雑誌、それと少女漫画も書いているけど、高名と言ったのは画家として有名ということじゃなくて、彼女は多忙過ぎるんだよね……。なぜか出版社から仕事を頼まれると、どんなに小さなくだらない仕事でも断れないらしくて、自分で片付けられないほど大量に依頼を引き受けてしまうから、アシスタントを何人雇っても、期日寸前まで仕事が終わらないの。まあ、15雑誌くらいにイラストを描いているから、日曜以外は、ほぼ毎日のように何らかの仕事の〆切りが来るわけだからね」
「それで、昨晩のあの騒動だったわけですね?」
「うん、毎晩毎晩大変らしいよ。まあ、最近では、ああいう騒動できちんと驚いてくれるのは、あなたのように引っ越して来たばかりの人だけで、マンション内部ではかなり貴重なんだけど、多くの人は……、例えば、農家の人が早朝に自分の庭でニワトリが大音量で鳴き声をあげるのを聞いたとしても、それを生活の中の当たり前のこととして、意に介さないように、ミニー先生の騒動も、いつの間にやら気にしなくなってしまったんだよね……。まあ、それにこのマンションでああいう騒ぎを引き起こすのは、何もミニー先生だけではないしね……」
「やはり、そういう事実があるんですね……。先ほど、隣の住民に尋ねてみたんですが、昨晩は何も聞かなかったって言い張るんですよ……。これは変だなと思いまして…」
「慣れなんだよね…。うちの田舎も山間のかなり奥まったところにあるんだけど、甥っ子なんかが都会から遊びに来ると、夜中にカエルの鳴き声がうるさくて眠れないって言うんだよね。私らなんかはさ、あれがもう子守唄代わりになっちゃってるから、全く気にならないというか、逆に心地いいくらいなんだけどね。このマンションの住民もきっとそういうことだと思うよ。あなたも心地よく暮らしたいと思ったら、早くこの環境に慣れることだね」
平田さんはそうアドバイスをして階段を上がっていった。彼の後ろ姿を見送ってから、私はいくらか納得して自分の部屋に戻った。
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