*第一話*
「こんなに狭いアパートでは何かと不便だろう?」
久しぶりに顔を合わせた顔見知りの編集者は、私の部屋に一歩踏み込むなり、そう言った。そして、まるで今思いついたかのように、彼の出版社の管理下にある、都心の中堅マンションを格安で紹介してくれた。親切心からではなく、ちょうど部屋が一つ空いたところだからだと、彼はその時説明した。今住んでいるワンルームアパートに大きな不満はなかったが、都心からかなり離れていることと、付近の住民のマナーが目に余るほど悪いことには多少の嫌気がさしていたので、ここいらで目線を変えてみるのも良いかと思って、ありがたく、その申し出を受けることにした。
私は相変わらず食う物や着る物にも困るような生活を送っていたが、ここ数年は、三ヶ月に一度発行される小さな文芸雑誌に拙い短編小説を掲載してもらったり、隔月で発行される土建関係の新聞に、政府を遠回しに非難する短いコラムを書いて掲載してもらったりで、どうにか生活費を稼いでいた。
そんな地味でつまらない人生に一筋の光が射したのは昨年の夏だった。思いつきと酒の勢いで書いた『アメリカ的恋愛への不満と矛盾』という小論文が、何の前触れもなく、小さな出版社で新人賞を取ることとなり、私の人生にも遅すぎる転機が訪れたのである。そういうわけで、そろそろ仕事場を移して、大きな仕事に取りかからねば、と思っていた矢先のことだった。
「実を言うと、そのマンションには君と同業の人が多く住んでいるんだ。そこにしばらく生活して、彼らと哀楽を共にすれば、参考になることも多いと思うよ」
僕が引っ越しを承諾すると、友人は軽く笑って、そう言ってくれたが、この男はいつも表情を変えずに、冷たい目線のままで口だけを動かし、誰の味方なのか、どんな思想を持っているのか、など自分の胸の内を一切語ろうとしない男なので、私が住まいを変えるというこの一件が進むと、いったい誰の得になるのかはわからなかった。あるいは彼には別の思惑があるかもしれないので、その申し出を受けても素直に喜べなかったのだ。
元々、小さなパソコンと衣服以外は、雑誌と数冊の文庫本しか荷物が無いような部屋だったので荷造りはすぐに終わり、引っ越し屋にダンボール4個分の荷物を任せて、自分は電車に乗って一足先に現地に向かって業者のトラックを待つことにした。
そのマンションは、都心から程近い、漬け物屋や惣菜屋が立ち並ぶ、人通りの多いごみごみした商店街から、一歩脇道に入った閑静な中産階級の住宅街の中だった。公立の小中学校や私立病院へと続く狭い通りの坂道の途中にあって、見上げても看板一つ出ていない灰色のコンクリート造りの建物で、外観は極めて地味だった。まあ、住民は作家が多いということだから、熱烈なファンの読者に見つかりにくいように、わざと地味な外観にしているのかもしれない。最近、新聞やテレビで頻繁に報道されているように、人気作家や漫画家が狂信的なファンに暴行されたり原稿を奪われたりする事件があとを絶たない。この地味な建物なら高額納税者が住んでいるようには見えないだろう。建物の正面口から通りを挟んで向かい側に、こじんまりとした喫茶店と、味わいのあるわびた床屋が仲良く並んでいるのが見えた。鉄筋4階建ての、このマンションの2階に私の新しい部屋があった。
引っ越しの荷物を積んだトラックはまだ到着していなかったが、気が急いて仕方ないので、それを待たずに思い切って中に進むと、階段も廊下も驚くほど殺風景で、小さな机と椅子が幾つか並べてあるだけの、6畳ほどの狭いロビーには花瓶も置いて無ければ、連絡事項などを記したチラシやポスターも貼られていなかった。しっかりと管理されているから、治安に関しては何の心配もいらない、と友人は言っていたはずだが、私の目には管理人も警備員も見えなかった。古い建物なので、正面口にも裏口にも防犯機能は付いていなかった。
2階の通路には青と赤の丈夫そうな鉄製の扉が交互に並んでいた。天井には至るところに蜘蛛が巣を作ってくれていた。定期的に掃除をしているような様子はなく、床も存分に汚かった。しゃがみ込んでよく見ずとも、廊下の端に埃やゴミが溜まっているのがわかった。前に住んでいたベッドタウンにある狭い安アパートより、よほど汚かった。
自分の部屋の前に着いて気づいたことだが、2階の通路にある、どの部屋にも表札は出ていなかった。人気が感じられなかったので、私にはどれも空き部屋のように感じられた。有名人が多く住んでいるので、表札を出してしまうと防犯上都合が悪いのかもしれない。昼間だからなのか、他の住民と顔を合わせることもなく、辺りは異様なほど静まりかえっていた。廊下にある唯一の窓は曇りガラスで、まるで監獄の窓のように小さく、建物の内部は昼間でも薄暗かった。いかにも何か出そうな雰囲気だ。
やがて、荷物を積んだトラックが到着して、クラクションを鳴らした。大きな荷物を苦もなく運び入れてくれた引っ越し屋さんは、「幽霊ふぜいが恐い人は、ここには住めないと思いますよ」と苦笑いを浮かべ、「ここには嫌な住人でもいるのかい?」という、私の冗談半分の質問には答えずに、否定の意味なのか、一度手を横に振ってから足早に立ち去っていった。初めて自分のこれからの住家に足を踏み入れた時の違和感は、どんな人でも体験することであるから、ここに住んで二、三日もすれば、歪んだように思えるこの空気も、悪夢のような感覚も、きっと受け入れられるようになるのだと強く思い込んで、私は自分の部屋のドアを開けた。2DKの部屋の内部はきちんと片付いていて、トイレが入り口近くにあり、ベランダはきちんと南に向いていて日当たりもよく、特に不満はなかった。
アパートから運んできた冷蔵庫や洗濯機などの重い家具を先に配置し、ダンボールを解いて本棚に文庫を元通りに並べ、食器を整理して、一応やるべきことは終わった。私は一度大きく身体を伸ばしてからベランダに出て深呼吸をし、風景を見る振りをして上階を見上げたり、何気なく隣の部屋のベランダを覗いてみたりしたが、それでも他の住民の気配を感じることはできなかった。洗濯物を干してある部屋もなかった。前の通りはそこそこの人通りがあるものの、通行人は全てこのマンションとは関係のない人々だった。
テレビもラジオもない部屋に一人でいても、落ち着かないので、缶コーヒーでも買いに行こうかと思い立って、部屋を出たが、階段で上階から降りてきた巨体の男性とぶつかりそうになり、慌てて身を引いた。顔を見ると、馴染みの出版社でよく会うベテランの編集者だった。一緒の仕事をしたことはないので、どうも記憶に薄いが、彼はたしか若者向けの漫画雑誌の担当で、平田という名前だったはずだ。今日はここに住む作家さんのところへ原稿を取りに来たのだろうか? 彼はあわてて身を避けた後、私の存在にひとしきり驚いた後で、こちらの胸元を指差し、「あなた、ここに住むことにしたの?」と、無作法に尋ねてきた。
私が頷くと、平田さんは目を真ん丸にした。
「そんな若いうちからここに住むって、ずいぶん、度胸があるんだねえ……」
彼は肺に溜まっていた空気を全て吐き出すようにそう言うと、何度か私の方を振り返りつつ、とても信じられないというふうに首を傾げながら、階段を降りていった。作家である私がここに住むことに対して、彼は度胸があると言う。その言葉の意味はわからなかったが、住民か施設に良くない印象があるのだろうという憶測はこの時点からあった。
自動販売機がマンションの内部にあったりすると、お金儲け好きなオーナーの色気を感じたりして、気分も浮つくのだが、この先時代を感じるような薄暗い雰囲気からして、この建物には絶対無さそうに思えたので、大通りまで出て購入することにした。
温かいコーヒー缶を握りしめて戻ってくると、ロビーの椅子に一人の男性が座っていた。彼は両手で頭を抱えながら、モルタル製の安っぽい机にもたれかかり、うつぶせになっていた。この人が住民だとすれば、これが初めての出会いとなる。私がわざと大きめの足音を立てて彼の前を通りがかると、ようやく自分以外の人間の存在に気がついたようで、ハッと顔を上げた。見覚えのある顔だったが、すぐには名前が出てこなかった。軽い笑顔で挨拶され、この人の名前を思い出した。彼は江尻さんと言い、元々、コピーライターで名を馳せた人で、7~8年前まではテレビ番組や雑誌の企画を手がけていて、今でも、ローカルのバラエティー番組では売れっ子タレントとして活躍している人だ。ワイドショーなどで時折登場して、軽快で自虐的なトークでスタジオを盛り上げることも多い。テレビで見かける時は常にお洒落な恰好をしているので、今日のような、トレーナーの上からセーターという一般的な恰好をされてしまうと、本人とはわかりにくくなってしまう。明るく誰にも丁寧な方で、二、三度話すだけで、私にもすぐに打ち解けてくれた。
「いや、自分の部屋に閉じこもって企画を考えながら書いていると、電話の音が鳴るたびに、いちいちビクビクしなきゃいけないから…」
彼は部屋を抜け出してロビーで思い悩んでいた理由をそのように説明してくれた。
その後も、このロビーや階段の途中で出会うたびに気さくに話しかけてくれるようになった。私は有名人と仲良くなれたことよりも、マンション内に知り合いが出来たことの方が嬉しかった。彼は当然ながら業界では大御所であるから、これまでの仕事での成功談をいろいろと聞いてみたかったのだが、彼は自分からは仕事で儲かった話は一切せず、雑談の中身は、もっぱら身近な家庭の問題であった。この不景気でテレビの仕事が減ってしまっているのに、ある番組でリベラル寄りな発言をしたら、週刊誌などで悪く書かれてしまって、余計に仕事が来なくなったとか、このマンションの水道から出てくる水が薬品臭くて困っているとか、娘さんの教育問題で嫁さんと口論になってしまい、しばらく別居しているのだとか、そういうジメジメとした空虚な話題が多かった。そういう話には相槌が打ちにくいので、こちらとしてはもう少し明るい話題が欲しかったが、彼は暗い話でも決して眉間に皺を寄せたり、舌打ちしたりせずに、明るい顔のままで伸び伸びとした口調で話すので長く会話を続けることはできた。会話の一つ一つから彼の性格の良さが伝わってきた。
「あなたはアイディアはすぐに出る方?」
あるとき、彼から唐突にそう尋ねられた。返答に困ったが、自分は最初に生まれたアイデアを数年は大事に温めておいて、その間に頭の中でこねくりまわすタイプだったので、そのように説明した。
「若いねえ、いや、僕のようなおじさんになると、悪い意味で仕事に緊張感が無くなって、つまり、他人の感情に対して鈍くなるんだよね。若い頃から長く付き合いのあった人でも、必要が無くなると、人間関係そのものをしばらく放って置いたりするから、突然、そういう人と再会しちゃって、その場で仕事の依頼を受けたりして、その時点では上の空だから、締め切りが近くなるまで何もしないで……、そして、ある日電話の呼び鈴が鳴り響く……、そこまで追い詰められてから、ようやく考えるようになるから、もう催促の電話が恐くて仕方ないのよ」
「いや、でも、あなたに仕事を廻してくれる人たちも、あなたのそういう人柄を最後は信じてくれているわけなので、きっと、これからも上手くいきますよ」
私は彼の悩みを聞くとき、最後はこういう言葉で締めくくることが多かった。
実はここに引っ越してからの最初の二、三日の間に起きたことは、なぜだか、あまり覚えていないのだが、それはこのマンション内で通常ありえないようなおかしな現象が何も起きなかったからではなく、後に述べるようなことが、すでに起きていた可能性が高いのだが、おそらく、私が気がつかなかっただけなのだろう。引っ越し疲れで、毎晩深い眠りについていたから、というのもあるかもしれない。




