第8話
現実とは思えなかった。
自分はもしかしたら、夢か幻を見ているのではないかと思った。
「…………」
言葉を失くし呆然と佇むわたしに、困惑顔のフランが話しかけてきた。
「実は最近、記憶を取り戻しつつあるんだ。それで……君のことを少しだけ思い出して……。婚約式のときにピンクのドレスを着ていたよね? 一緒に輪舞を踊って……旅立つぼくのために、泣きながら見送りにきてくれた……」
「あの……フラン……」
彼はやはり行方不明の元婚約者、幼馴染のフランシス・ベネディクトだったのだ。
最愛のイサクと婚約したその日になぜ、過去の婚約者が訪ねてくるのだろう。
待ちに待った人生最良の日だというのに。
「……よくぞご無事で。あの……4年前に何があったのです? お父さまは、どうして川へ落ちたのですか?」
わたしは矢継ぎ早に質問した。
ことの真相を知りたかった。
「どうか、泣かないで……! ……細かいことはまだ思い出せないんだ。あなたのことだけが、頭の片隅に残っていた。ぼくはシャルルではなく、フランというのかい?」
「……シャルルはセカンド・ネームと聞いております。そうですか……わたしのこと以外は、何も思い出せないのですね……」
いつの間にか大粒の涙を流していた。
フランを想ってではない。
彼の過去の記憶が戻らないのが歯がゆかったからだ。
最期にお父さまといたのはフランだ。
彼の記憶が戻るのなら、お父さまの死の真相が知りたい!
フランはお父さまを助けようとして川に飛び込み、記憶を失い行方不明になった。
わたしと婚約したせいで、彼はこのような数奇な運命を辿るはめになってしまったのか。
それにしても、フランには謎が多すぎる。
彼の住んでいた村は廃村だった。
フランはわたし以外の記憶はないと言っている。
だが、フランの伯父はここ王都にいる。
そしてフランは、本当は王家の人間だった。
暗い裏庭に、彼のブルーの瞳がギラギラと獣のように光っていた。
わたしの知っていたフランとはまるで別人のようだ。
彼はいったい何者なのか。
今のわたしにとって目の前の人間は、単なる幼馴染の青年でしかない。
初恋は、とっくの昔に完結していた。
フランはわたしにとって記憶の中の1ページでしかない。
「いいえ! お気になさらずに! ただ……びっくりしただけです!」
わたしはハンカチを取り出すと冷静に涙を拭き、フランに向き直った。
「どうして突然に思い出したのですか? 誰かに……お会いになられたとか?」
「誰かって……誰にです? 会ったとしたら……あなただ! あなたと輪舞を踊った日から、おもかげが頭を離れなくて……。そうしたら、霧が晴れるようにスーッといままでのことが思い出されて……」
「……そうでしたか。でも今は、あなたもわたしも素晴らしいパートナーに恵まれて幸せな人生を歩んでいます。過去はもう……よろしいのではないでしょうか?」
あらためてフランを見上げた。
サラサラの美しい金髪はこのまえ見たときよりも伸びていた。
ブルーの瞳と白い肌。
かつてのわたしの王子さま。
彼のどこにそんなに惹かれたのか。
容姿は完璧だが中身はどんな人物なのだろう。
驚いたことにわたしは、彼の人となりをまったく知らなかった。
手紙の内容もよく覚えていない。
彼の目は青く美しいが、よく見ると不安そうに怯えている。
記憶がないせいだろうか?
それとも、中途半端に取り戻した記憶のせいで返って恐怖が増しているのか。
「失礼ですが……あなたのことを調べさせてもらいました。ぼくが行方不明になったあと、ずいぶんとご苦労をなさったようですね……。過去を思い出したぼくにとって、あなたは単なる元婚約者ではない! なんとも言いようのない責任を感じるのです!」
「責任など……今のわたしは最高に幸せですのでお気遣いなく。責任なら、現在の婚約者イサクが負ってくれます。あなたは奥様への責任を全うしてください。こんなところで婚約者がいる女と既婚者が密会していたら、皆にあらぬ誤解を受けます。それでは、失礼いたします!」
「待ってください! マリアン!」
「…………!」
フランがわたしの肩に手を掛けた。
こんなところで大声でわたしの名を叫ぶなんて!
彼はいったい、どこまで記憶を取り戻したのか。
「記憶と共にあなたへの愛も甦って参りました! 妻には事情を話して別れます! だから、あなたも……!」
「やめてください! あなたとの婚約は過去のことです! まして子供の頃の約束など……。今その事実は、証拠も含めてすべて無くなりました。あなたも過去として胸の内におさめ、奥様を悲しませるようなことは絶対になさらないでください!」
「だったら、この! この、胸の中にあるあなたへの熱い想いは……どうしたらよいのですか? あなたにとっては過去であっても、わたしにとっては現在進行形なのです! この胸のトキメキを、いったいどうしたら……」
「遅すぎます! ときは流れているのです! わたしは行きます! さようなら!」
「あっ! 待って! マリアンー!」
追いすがろうとするフランを払うように、一目散に走って控え室にもどった。
「ハアハア……」
少し気持ちを落ち着かせてから大広間へもどった。
「マリアン! 主役がいなくなったらダメだろう!」
「イサク……ごめんなさい……」
「ハハハハ! 冗談だよ! さあ、こっちへ!」
イサクが大広間の中心にわたしを誘う。
明るく快活なイサク。
わたしのことを一点の曇りもなく信じている。
4年前のわたしも、フランに対してそうだった。
愛した者は、愛する者を絶対的に信用する。
だからこそ、イサクの気持ちを裏切りたくなかった。
頭のなかにフランの存在はすでにない。
わたしの心はイサクと、彼との未来の結婚生活だけに集中していた。
イサクとわたしは皆の中心で再び輪舞を踊りはじめた。
クルクルと回りはじめるわたしとイサク。
チャコールグレー髪の先が外へ外へと跳ね上がる。
拍手と歓声。
そして、人々の笑い声。
わたしは再び、幸せのまっただなかに舞い戻った。
◇ ◇ ◇ ◇
そんなある日、王宮に招かれた。
王さまが、堅物イサクを射止めた女性に会いたがったからだ。
わたしたちは嬉々として王の間に向かった。
「イサクってば……! 焦ってわたしのドレスの裾を踏まないでよ?」
「なんだってー? 君こそぼくの靴を踏むなよ! 輪舞のときみたいに!」
「まあ! いつわたしが?」
「ウソに決まってるだろう? 君ほどの輪舞の名手はいないさ!」
「まあ! イサクったら!」
おどけて歩くわたしたちに鋭い視線が投げつけられた。
驚いて頭をそちらに振り向けると、フランが立っていた。
彼も晩餐会に呼ばれたようだ。
咄嗟に顔を背けた。
「マリアン、どうした? ああ……シャルルが来ているのか。気にすることはない。彼に君の記憶は無い」
「はい……」
イサクは知らない。
フランがわたしの記憶を取り戻したことを。
彼の目付きは明らかにわたしを非難していた。
自分が先に結婚したことを棚に上げて。
その後、王に初めて謁見した。
噂どおり高潔で上品な人物だった。
チャコールグレーの髪に青い瞳、イサクやフランのように美しい顔立ちをしていた。
「おお、こちらがマリアンヌ嬢か。噂にたがわぬ優雅な身のこなしと美しさであられる! イサクよ、大事にいたせ!」
「はい、王さま……わたくしの婚約者をおほめいただき、ありがたき幸せでございます」
「ありがとうございます……」
一通りのあいさつを済ませ王の間を退出し晩餐会に出席した。
その後、大広間の舞踏会に参加した。
輪舞がはじまった。
いつの間にかフランが隣りにきていた。
「マリアン……よければ今度、むかし話を聞かせて欲しい」
「申し訳ないけどそれはできないわ。この前も言ったけど……わたしには婚約者がいるの。あなたには妻が。どうしてもというのならば……婚約者のイサクと一緒ならいいわ」
「それは婚約者殿に申し訳ない! どこか……2人だけで話ができないか?」
「それは無理だわ。人々に誤解されてしまう!」
「ぼくはどうしても……どうしても自分の過去が知りたいんだ! 君は……記憶のない人間がどんなに惨めで苦しいか知っているのかい? それは辛いものだ……。自分の歴史が……いや、存在自体が否定されているんだからね!」
「たいへん……お気の毒だとは思います。あなたはわたしの父を助けようとして記憶を失くされたわけけですし……」
「えっ? そうなのかい? そのことを、もっと詳しく教えてもらえないかな?」
「では……手紙に書きましょうか? ただし、婚約者の了承を得てからです」
「それではらちがあかないな。では……どうしても2人で会うのは困難だと?」
「はい」
「そうか……マリアン、寂しいよ。君は大人になったんだね……。あの、かわいかった小さな女の子が……。では、わたしはこれで……」
フランは輪舞の列から離れていった。
その後イサクと一緒に踊ったが、フランの言葉が気になって心から楽しめなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
翌日、王城で働いていたわたしは見知らぬ侍女に呼び止められ、客間に手紙を持っていくよう言い渡された。
モニカに言伝してから客間に向かった。
――コン、コンッ!
「どうぞ!」
――カチャッ!
「…………!」
「マリアン! 逃げないで! どうか話を聞かせてくれ! 君の正直な気持ちも一緒に!」
部屋の中にフランがいた!




