第3話
あまりの衝撃に道の真ん中で口をポッカリと開け立ち止まってしまった。
全身の力が抜けていく。
往来の真ん中で放心状態になってしまった。
「あっ! いけない!」
――ツカッツカッ、ツカッツカッ!
いそいでフランを追いかけ角を曲がる。
しかし、そこには誰もいなかった。
「そんな……どこ? どこに行ったの? フラン! フランー!」
いくら叫んでも誰も応えてくれない。
自分の声が虚しく周囲に響き渡るだけだ。
ハッと気が付くと、何事かと集まった人々にジロジロと見られていた。
恥ずかしくなりそそくさと逃げ出した。
いまのは、わたしの願望が見せた幻だったのだろうか。
◇ ◇ ◇ ◇
いそいで大聖堂へ戻った。
ナタリーのとなりに背の高い男がいた。
サラサラの美しいチャコールグレーの髪を肩のあたりまで伸ばし、海のように深いブルーの瞳をしたハンサムでたくましい青年だった。
一瞬、フランの面影が浮かんだ。
青年は高い鼻の下で薄い唇を噛みしめながら、顔を真っ赤にして怒り狂っていた。
その様子を、皆が遠巻きにして見ている。
いったいぜんたい、何があったのだろう。
恐る恐るナタリーと青年に近づいていった。
「マリアンヌ! どうしたんだい? いきなり駆け出したりして!」
「ナタリー、それが……」
「おい! まずは、ごめんなさいだろう!」
「はあっ? あ、あの、ごきげんよう……」
「ごきげんようだと? そこの女! いいからおれに謝れ!」
「女……女ですって! なによ!」
わたしの目線より頭2つ分は上にある青年の顔を見上げた。
彼は頬を膨らませ、怒り狂った目でこちらを凝視していた。
なんだ、こいつ!
こんな無礼な態度を取られたのは生まれて初めてだ。
わたしのなかに、いままで誰にも持ったことのない感情が芽生えた。
「女だから、女と言ったまでだろう! では何か? おまえは、男だとでも言うのか?」
「な、なんですって……!」
「マリアンヌ、あんたさっき献花するときに、こちらの騎士殿を突き飛ばしてしまったんだよ。それで……騎士殿が、棺のなかに倒れ込んでしまって……」
老婆が笑いをこらえながら説明をしてくれた。
葬儀の最中に棺の中に倒れこんだ?
そんな恥ずかしいことを?
青年のひどい剣幕に、周囲の視線が集まっている。
中には笑いをこらえている者も大勢いる。
「そ、それは大変に失礼いたしました! も、もうしわけありませんでした!」
わたしは頭が床にくっ付きそうなほど身体を折り曲げ青年に謝った。
騎士ともあろう者が、葬儀の最中に棺のなかにダイブするなど――いけない!
想像したらおかしくなってきた!
わたしは大聖堂の床に膝まずきながら笑いをこらえていた。
笑うなんて何年ぶりだろう。
世界の中心に自分がいると錯覚していた3年前の、あのとき以来からもしれない。
「女! そこまで反省するなら……罪を許してやろう。ところで……さっきは何をそんなに慌てていたんだ? 今も真っ青じゃないか……。まるで、死人でも会ったような表情をしているぞ?」
「死人に至近距離で遭遇したのはイサク、君だろう? さあ、お譲さん! 皆が見ていますよ。立ってくださいな。これ以上イサクの評判を落としたくないんでね」
「ネイサン! いま、なんと言った?」
「はいはい! 見ず知らずのご令嬢をいじめるのはやめて、サッサと帰ろう。午後から王城で会議があるんだろう? 警備はいいのか?」
横合いからこれまた背の高いガッチリとした男が現れた。
イサクと呼ばれた男と同じぐらいの年齢だろうか。
黒髪黒目のハンサムな男で、おおらかでやさしそうな人物だった。
「い、いじめてなど……! この女……いや、令嬢を許していただけだ!」
「マリアンヌ、わたしはそろそろ帰るよ。あんたはどうする?」
「わたしは……お金がないので仕事を探します」
「あてはあるのかい?」
「いいえ……」
「王都に親戚は?」
「いません……」
「もしかして……両親も?」
「はい、おりません……」
ナタリーにわたしの事情は一切、話していなかった。
わたしにだってプライドはある。
同情や憐れみはされたくない。
それに、彼女に迷惑を掛けたくなかった。
わたしは農場から逃げ出した身だ。
見ず知らずの人間に素性をばらすのは極力さけたかった。
「わたしの農場でよければ、来てもらっても構わないけど……王都となると……」
「ナタリー、いいんです! 自分でどうにかしますから!」
「なんだと! 女がひとりで王都に出てきて、どうやって生きるっていうんだ! まさか……!」
いきなり握りこぶしを振り上げ、イサクが怒鳴りはじめた。
いったいぜんたい、この男はなんだっていうのだろう?
「いいか! 親や親戚がいないのはおれも同じだ! 世界中にそんな人間はゴマンといるんだよ! 帰る家がないのか? おれも同じだ! だからといって、身を売ろうなんて考えるなよ!」
「身、身を売る? ちょっと! そんなこと一言も……!」
「だったら、どうやって生きるんだ? このご時世、身寄りのない女を雇ってくれる場所なんて、娼館以外どこにもないんだぞ!」
「そ、それは……」
「マリアンヌというのか? 年はいくつだ?」
「じゅ、じゅうくです……」
「……見たところ、きちんとした家の令嬢のようだが……おい、ネイサン! 王城で侍女を募集していただろう?」
「おや? イサク、さっきの罪滅ぼしか?」
「なんだとー! おれは単なる親切心から、この女……いや、令嬢に職の世話を……」
「ええっ? 侍女ですか? あの……そのような……迷惑ではないですか?」
「迷惑? なんでだ? 人手が不足してるんだぞ? 王城は大助かりじゃないか!」
「クククク、ククッ……! まったくイサクは素直じゃないな……」
「なんだとー!」
「では、イサク警備隊長の紹介ということで……マリアンヌ、君の身分を証明する物は何かあるかい?」
「これでしたら……」
農場主夫婦が作成したわたしの雇用証明の書類を取り出し、ネイサンに渡した。
そこには、わたしがなぜ農場で働くことになったのかという説明が記載されていた。
「おお! あなたは男爵令嬢だったのですね……ご親戚は借金の肩代わりをしてくださらなかったのですか? たった1人で隣り村の農場で働かされていたのですか? なんとも、お気の毒な……」
「おい、ネイサン! 同情するのは憐れむのと一緒だ! 誰にだって不幸は訪れる! マリアンヌの場合は……それがいっぺんにきただけだ! おれだって、娼婦の息子で孤児院で育ったことを同情されるのは嫌いだ!」
「イサク……すまない。そんなつもりでは……。わたしはただ、マリアンヌの力になりたくて……」
なんとイサクは、孤児院で生まれ育ったらしい。
後ろ盾がないのに警備隊長にまで上り詰めるとは、さぞかし優秀な騎士なのだろう。
「だったらサッサと雇ってやれよ! さあ、マリアンヌ、行くぞ!」
「は、は、はい! よろしくおねがい致します!」
深々と頭を下げながら返事をした。
見ず知らずのわたしを王城で働かせてくれるなんて。
この人ほんとは、いい人なのかもしれない!
「よし! 今からおれのついてこい! 王城でこき使ってやる!」
「イサク、その言い方……。だから令嬢方に嫌われるんだぞ」
「女になんか、いくら嫌われたってかまわん! 行くぞ!」
「マリアンヌ、よかったね。王城で働けるならひと安心だ! それじゃあ、わたしはこれで……」
「ナタリー! 本当にどうもありがとうございました。助かりました!」
「ご婦人、ご安心を! このイサク警備隊長が命に代えてもご令嬢をお守り致します!」
「ネイサン! 命なんて賭けてないぞ!」
「何をいうか、イサク! それが騎士道というものだ!」
「まあ! オホホホ……! マリアンヌは運がいいね。こんな素敵な騎士殿たちと知り合いになれたんだから! マリアンヌ、しっかりがんばるんだよ! 神さまはいつも見てくれているよ!」
「はい! ナタリーもお元気で。お気をつけて!」
ナタリーは馬車に乗り帰っていった。
◇ ◇ ◇ ◇
そのままイサクとネイサンに王城へ連れていかれた。
「わあ……っ!」
思わず歓声を上げてしまった。
子供の頃に来たときは、宮殿の中にまでは入れてもらえなかった。
これほどまでに豪華で絢爛な造りとは知らなかった。
天井がとても高く、壁に掛けられた絵やタペストリーは高名な芸術家の手による物ばかりだ。
庭がまた素晴らしかった。
大きな樹の下に涼しげな木陰が点在し、その向こう側の植え込みは幾何学模様にキッチリと刈り込まれていた。
花壇には美しい花々が咲き乱れ、蝶や鳥たちをたくさん引き寄せていた。
噴水にほどこされた彫刻がまた素晴らしかった。
もの珍しくてついキョロキョロとしてしまった。
「気に入ったか?」
「素敵……夢みたい……」
「いつも見てるとそうでもないがな……。暇なときは、仕事をするフリをして散策してみるといい」
「イサク、働く前からサボり方を教えてどうする? それよりいそごう! 会議がはじまるぞ!」
「ネイサン、わかってるよ! 今日は大事な会議だ。警備隊長が遅刻したらたいへんだからな。マリアンヌ、男爵令嬢ならば侍女頭も何も言わずに雇ってくれるだろう。いそごう。会議がはじまる前に、マリアンヌを就職させてやらないと! こっちだ、マリアンヌ!」
「はい!」
イサクたちに侍女頭に紹介された。
住み込みで働かせてもらえることになった。
侍女頭はモニカと言う赤毛の四十前後の女で、グリーンの瞳で陽気に笑う楽しい女性だった。
仕事はすぐに覚えられた。
男爵令嬢として育ってきたのでマナーには精通していた。
3年間の農場生活で家事労働もすべてこなせるようになっていたからだ。
イサクとネイサンはフランと同い年で2つ年上だった。
イサクは毎日のようにわたしのところへ顔を出し憎まれ口をたたいていった。
彼なりに心配してくれているようだ。
お返しに、ときどき騎士の訓練場へイサクの勇姿を見に出掛けた。
若くして警備隊長に昇り詰めた彼は、数々の功績を残している王都の英雄だった。
「イサク!」
「マリアン、来てたのか?」
「今日もかっこよかったわよ!」
「当たり前だろ? おれを誰だと思ってる?」
「知ってるわ! 大聖堂でスッ転んだイサクさまよね?」
「なんだと! こいつめー!」
「きゃあ、アハハハ……!」
イサクとはとても気があった。
彼は非常に努力家で、暇さえあれば鍛錬と勉強をしていた。
イサクのように身寄りのない人間が王城の騎士になるには、並大抵の根性ではないらしい。
自分の境遇を嘆いている暇があったら、そのぶん努力すべきだと力説していた。
身につまされる言葉だが、今のわたしにはなかなか実行できそうになかった。
わたしは仕事の合い間に、フランによく似た青年が消えた街角へ通っていた。
だが、青年には2度と逢えなかった。
彼は誰だったのだろう。
うしろ姿と横顔がフランにそっくりだった。
それでもあきらめきれず、大聖堂にも通った。
聖職者にも尋ねてみたが、背の高い金髪の若者だけではわからないと答えられた。
フランような男性は王都にはたくさんいるらしい。
フランはやはり――3年前に川で死んだのか。
◇ ◇ ◇ ◇
「苦労した甲斐があったわ……。こうしてわたしは自立できた。くやしいけど、イサクのお蔭ね」
「何か言ったか?」
「いいえ」
王都に来て3ヶ月が経っていた。
今日はイサクとネイサンと一緒に城内の庭を散歩していた。
「マリアン、あなた結婚は? イサクでよければ取り持ちますが?」
「ネイサン……結婚なんて……。この年まで独身で参りました。このさきもずっと独りだと覚悟しておりますわ。イサクには、わたしなんかを押し付けなくてもいくらでも若くて良いお相手が見つかりますわ」
「マリアン! だったら……どうしてもわたしの相手がいなかったら、最後はおまえがなってくれるのか?」
「はああっ? イサクったら! 恐れ多い冗談だわ!」
「これは驚いた! イサク、おまえが女性を口説くなんて! 天変地異でも起こるんじゃないか?」
「ネイサン! 冗談だろうが!」
「はいはい! それではマリアン、ここからは独身主義者同士でどうぞ」
「えっ? ネイサンは?」
「わたしはこう見えて新婚なんだよ! 早く帰らないと!」
「ネイサンの野郎……最初から仕組んだな!」
ネイサンは今年、結婚したばかりだった。
彼は貴族出身の騎士で、王都内の屋敷に妻と2人で住んでいる。
イサクは独身で身寄りがないので、騎士専用の寮に住んでいた。
イサクは優秀な騎士でおまけにハンサムだ。
王家や市民から絶大な人気がある。
もちろん、女性からも。
イサクを婿にもらいたがる王侯貴族はたくさんいた。
だが、当の本人がその気がなく、無愛想で受け答えもぶっきらぼうなので一部の令嬢たちからは敬遠されていた。
「マリアン! あっちの生垣の向こうに、むかしのバラ園がある。見に行こう!」
「ほんとに? 行きましょう!」
イサクに誘われ、城の裏庭に連れていかれた。
――ガサガサッ!
「ほら、ここだ! 手入れはされてないが、中庭のローズガーデンより見事なバラだろう?」
「まあ……! すてき!」
そこかしこに、さまざまな種類のバラが咲き乱れていた。
良い香りが充満している。
バラの花弁に鼻を近づけてみる。
「いい香りね……」
「その妖艶な香りゆえに、教会によってはタブー視されて薬草として栽培されている。マリアンみたいに色気のない女性は、たまにはバラの花でも頭に飾ってみたらどうだ?」
「まあ! 言ったわね! 頭にバラを飾ったほうがいいのは、イサク、あなたのほうじゃなくて!」
「どれ? やってみよう!」
イサクが一輪の赤いバラを手折り、わたしの栗色の髪に挿した。
この3ヶ月でわたしの髪や肌は輝きをとりもどしていた。
手の荒れもすっかりよくなり、からだもふっくらと丸みを帯びてきた。
わたしは笑いながら伸び上がり、お返しにイサクの髪に手折った白いバラを挿した。
2人ではしゃぎながら、バラ園の中で追いかけっこをした。
イサクたちにフランのことは話していない。
彼らはわたしを、必要以上に詮索してこなかった。
はじまったばかりの王都の生活はとても快適だった。
恨みや呪いの気持ちは日に日に薄れていった。
それもこれも、イサクがもたらしてくれた楽しい毎日のお蔭だった。
「それにしても……さすが王城の庭ね。どこもかしこも素晴らしいわ」
「これらはすべて、農民たちが汗水流して働いてくれる上に成り立っている。マリアン、農場にいた君なら、よくわかっていることだろうけどね」
「そうね……ここの生活はとても優雅で華やかだけど……城の外は違うわ。ここにいると貧しさもひもじさも忘れてしまいそう……」
「王城の華やかさは別格だからな……。なあ、マリアン。男爵令嬢が農場で労働するのは、相当に辛かったことだろう。まして両親を立て続けに亡くして破産まで……。何もない境遇はおれも一緒だ。これからはがんばって、幸せになれるようお互い努力しような」
「イサク……すべてあなたのお蔭よ。いろいろと、本当にどうもありがとう!」
イサクの顔に夕陽が当たり、神々しく輝いていた。
彼はわたしの救世主だ!
1人でいるときわたしは、ときどきイサクのことを考えるようになっていった。
◇ ◇ ◇ ◇
そんなある日のこと。
「まあ……すてき……!」
わたしの部屋にピンク色の舞踏会用のドレスが届けられた。
薄いシフォンで出来ていて上質なレースと真珠が散りばめられている。
イサクからだった。
「マリアン、イサクさまが、舞踏会にいらっしゃるのよ。あなたにパートナーをお願いしたいらしいわ」
「モニカ……」
わたしは目を白黒させながら、満面の笑みを浮かべるモニカとドレスを交互に見つめていた。
モニカは結婚しているが子供がいないため、わたしを実の娘のように可愛がってくれている。
新品のそのピンクのドレスが、たまらなくうれしかった。
まるで3年前の婚約式にもどったような気分だ。
そのときのドレスはこんなに上等な生地で作られてはいなかったが、やはりピンク色でスカートがふんわりと大きく広がっていた。
白い手袋の先にはフランがいて、わたしたちはいつまでも見つめ合いながらクルクルと回りつづけていた。
そのときの輪舞曲と彼のブルーの瞳が、今も忘れられない。
わたしとフランに祝福の拍手を送る両親や従業員たち。
あの頃にもどることができるなら、わたしは命を捧げても惜しくはないだろう。
◇ ◇ ◇ ◇
「あー……これは、あのー……ネイサンがプレゼントしろと……。ヤツのことだから、街で売ってる既製品だろう……」
「どうもありがとう!」
舞踏会に向かう途中、イサクがわたしに赤いバラの造花をあしらった髪飾りをつけてくれた。
だけどわたしは知っている。
この髪飾りは特注品だ。
お城に出入りする業者にイサクが細かくデザインをして発注していたと、ネイサンが事前に教えてくれた。
照れなのかなんなのか、恩着せがましく自分がプレゼントするのだと言わないイサクに好感がもてた。
彼は、とても素敵な人だった。
◇ ◇ ◇ ◇
舞踏会はすでにはじまっていた。
わたしは舞踏会に出るのは初めてで、あちこちに気を取られながら進んでいった。
「そんなに緊張していると、踊る前に卒倒するんじゃないか?」
「えっ? なに? わたしのこと?」
「おれの手の先に、他に誰がいるんだよ?」
「……今日は対等な立場でモノを言わせていただきますが……あなたってホント、ひねくれてるわよね? 何が原因がこうなったの?」
「はあっ? そんなこと、おれに面と向かって堂々と言えるのは、ネイサンぐらいなもんだぞ。わかったぞ! ヤツに言えっていわれたな?」
「ネイサンに? そんなわけないじゃないの! せっかくのいい雰囲気が台無しだって言ってるのよ」
「いい雰囲気? いい雰囲気って?」
「……もう、いいわ。早く踊りましょう! あら? パートナーがいらっしゃらない方は、お父上と来ておられるようね……。なんだかうらやましいわ……わたしもお父さまと舞踏会に来たかった……。お父さまもお母さまも、わたしを心から可愛がって愛してくれたわ……。なのにわたしは、なんの恩返しもできなかった……。ごめんなさい、こんなところで……」
「いいや、素直なマリアンは好感がもてるぜ? マリアンが元気で笑っていれば、それだけで親は幸せだ。産んでよかったって思っているさ!」
「イサク……」
イサクはまるで、自分に言い聞かすようにそう答えた。
彼は親を知らずに生きてきた。
自分の軽はずみな言動が恥ずかしくなった。
幸せな家族との思い出があるわたしが、彼の前でこんな不満を言うべきではなかった。
そのとき、輪舞の曲が流れはじめた。
「さあ、踊ろうよ、マリアン! 輪舞だ! おれ、これだけは踊れるんだぜ!」
「まあ? どうしてなの?」
「子供のころ、教えてくれた人がいるんだよ!」
「そうなの? わたしも輪舞は大好きよ!」
イサクが懐かしむような遠い目をした。
彼にも辛い恋の思い出があるのかもしれない。
わたしはイサクに親近感を覚えた。
誰だって辛い恋を経験している。
楽しそうに歌ったり踊ったりしている誰もかれもが。
急に舞踏会が楽しくなってきた。
「お手をどうぞ。マリアンヌ!」
「よろしくおねがい致します。イサクさま……」
再び音楽がはじまった。
同じことのくりかえしのこの曲は、同じことをくりかえすたびに楽しくなっていくから不思議だ。
何度もカラダを揺さぶることで、自分たちの新たな感覚を呼び覚まさますことができるのだろうか。
イサクのカラダがクルクルと回り、わたしの目もクルクルと回る。
それは3年前のしあわせな婚約式へとわたしを連れていった。
さらに13年前、公園で出会った少年の元へと。
「輪舞がお上手ね、イサク!」
「君こそ! 苦痛でしかない舞踏会にも楽しいことがあったとは、新たな発見だよ!」
「これを機会に、あなたを狙う壁の花たちにも目を向けてみたら?」
「ベラドンナたちをかい? あれは毒花だ、毒蜘蛛だ! 砂漠に潜むサソリだよ! 一刺しで一気に毒がまわる」
「蜂と一緒ね?」
「蜂ならいいさ! 一緒に死ぬから。彼女たちは始末が悪い。たった一刺しで、男のカラダ中に女の毒を植えつけてしまうんだ。自分は決して命を落とさずに!」
「なんてことを……。恋の素晴らしさを知らないのね?」
「恋? 君は甘いな! 恋なんて、この輪舞と一緒だ! 自分の想いがクルクルクルクル、同じ場所で回転しているだけさ。ひとりよがりな想いだってことだ。残るは苦い思い出だけだっていうじゃないか? おれの友人たちも、皆そうさ。傷つき挫折し……それを大人になったと勘違いして、冷めた仮面を被って生きていく」
「挫折の向こうには、あたたかくて甘い思い出が山ほどあるのよ。人はその夢を心の奥底に持ちながら、それを頼りに死ぬまで生きるの。辛くて苦しい、長い長い人生を……」
「夢? 夢を見るのは勝手だが、それに溺れないことを祈るよ。現実はいつも辛く、厳しいからね。だったら最初から、夢なんてみないほうがいいじゃないか」
「現実に直面してから見る夢は、とてもきれいな幻よ……」
2人はしばらく無言でクルクルと回りつづけた。
とてもセンチメンタルな気分になった。
イサクもそうなんじゃないか。
ブルーの瞳を見つめながらそう感じていた。
――パチパチ、パチパチッ……。
輪舞が終わった。
人々がおしゃべりをはじめる。
令嬢たちの突き刺さるような視線に耐えかね、イサクが知人たちと挨拶をしている間に暗い中庭へ逃げ出した。
イサクは彼が思っているよりもずっと、女性たちに人気があるようだ。
あれだけの素晴らしい容姿と肩書きがあるのだ。
当然といえば当然だ。
胸の奥に一抹の寂しさを覚えた。
――サクサクッ、サクサクッ……。
夏草を踏み分けながら水音のする方向へと足を伸ばした。
王城の噴水には素晴らしい彫刻が施されている。
美しい芸術作品が胸の乾きを癒してくれることだろう。
「ウフフフフ……まあ! あなたったら!」
「だって、そうだろう?」
先客がいたようだ。
木の陰からのぞくと、若い男女が噴水の淵で寄り添っていた。
とても幸せそうだ。
互いの目を深く見つめ合い、熱烈なキスをしはじめた。
――サアアアアー……ッ。
そのとき一陣の風が吹き、雲間から現れた満月が彼らの顔を映し出した。
「…………!」
そこには、かつての婚約者――フラン・ベネディクトの姿があった。




