第14話
「…………!」
「大丈夫だマリアン。向こうからこっちは見えない」
フランに言われなくてもわかる。
イサクは一目散にルイーズの元へ飛んでいった。
わたしたちが見える位置にいたとしても、彼は気がつかなかっただろう。
それほどイサクは切羽詰った様子だった。
立ち上がろうとするルイーズを制しイサクは椅子に座り彼女と話しはじめた。
2人の話し声はわたしたちのいる場所まで届いてこない。
イサクは眉間にシワを寄せ不機嫌な様子で聞き入っていた。
わたしの心に鈍い痛みが走り、それがジクジクと胸のなかに深い溝を刻み込んでいく。
「フラン……ルイーズはなんて?」
「今日、カフェでイサク殿に会うとそれだけしか言われていない」
「そう……」
「マリアン、元気を出せ。イサク殿が特別じゃない。男なんてみんなそうさ。それに……彼だけが男じゃない」
突然フランから真剣なまなざしを向けられた。
彼はとっくのむかしにわたしのことはあきらめてくれていたものと思っていたので、ひどく戸惑ってしまった。
「マリアン、そんなに警戒しないで……。ただ、君が不憫で……」
フランが悲しそうに長いまつ毛を伏せた。
困ったわたしは、もう1度イサクに視線を転じた。
「あっ!」
――ガタンッ!
「どうした?」
「イサクが帰るわ! わたしも行くわね!」
「あっ! マリアン!」
わたしはコーヒー代だけテーブルに置くと、いそいでイサクのあとを追った。
――カッカッカッカッ……。
――タッタッタッタッ……。
今日のイサクは速足だ。
ついていくのがやっとだった。
「あそこは……」
例の公園に入っていく。
あとをついていくと案の定、奥の森を抜けて裏門から娼館へ向かった。
「やっぱり、イサクは……」
公園の柵につかまりながら、呆然と暗い裏通りを見つめ続けていた。
◇ ◇ ◇ ◇
その後、どうやって帰ってきたのかは覚えていない。
気がつくと自室のベッドに横になり泣いていた。
――コン、コンッ!
「はい……」
「マリアン! イサクさまが来ているよ!」
「モニカ……気分が悪いの。今日は、帰ってもらって」
「まあ! 大丈夫なのかい?」
「あの……風邪みたい……移ると悪いから……」
「わかった! そう伝えるよ!」
――コツコツコツコツ……。
モニカが去っていった。
嘘をつくのは初めてだが、今日はどうしてもイサクに会いたくなかった。
それに、泣き顔を見られてどう言い訳すればいいのか。
イサクの顔を見た途端、ルイーズや娼館のことを責めてしまいそうだ。
そんなことをしたらイサクは、わたしの元から去っていくだろう。
それだけは避けたかった。
まんじりともせず涙を流しながら朝を迎えた。
◇ ◇ ◇ ◇
イサクが真っ赤なバラの花束を持ってあらわれた。
「イサク……」
「あのバラ園からとってきたんだ。マリアン、風邪はどうだい?」
「……この通り、もう大丈夫よ」
「マリアン、話しがあるんだ」
「……いいわ。じゃあ……バラ園に行きましょうか?」
「ああ……」
いつになく深刻そうなイサク。
わたしはバラの花束を花瓶に挿し、イサクのあとに従った。
◇ ◇ ◇ ◇
うだるような暑さのなかバラ園の花はくったりとしおれきっていた。
芳しい香りはいつも通りだが、今はそれもうっとうしいだけだった。
「話って……何かしら?」
昨日の今日だ。
覚悟は出来ている。
イサクの口からルイーズの話を聞かされるのだろう。
「マリアン……顔色が悪い。痩せたようだし……。まだ風邪が抜けてないのか? おや? 目が腫れているな。まさか……泣いたのか? 何か心配事でも?」
イサクがわたしのカラダを心配しはじめた。
「あの……大丈夫よ……。ゆうべ眠れなかったから、そのせいね」
「そうか? その……マリッジブルーなんじゃないかと思ってさ。ネイサンや周りの連中も結婚するとき奥方がそうだったって」
「そんなことないわ。お式も決まってないのにマリッジブルーだなんて……」
「マリアン……」
嫌味を言ってしまった。
だってそうだろう。
婚姻の目途も立っていないのに、イサクは娼館通いをしたりルイーズと会ったりしている。
「イサク……昨日はどこにいたの?」
「昨日……? 仕事をしていたが?」
「そう……。このまえ領地に行っていたわね。どうして事前に教えてくれなかったの?」
「領地に行った件を? 仕事だよ。どうしてそんなことを?」
「だって……いつも事前に教えてくれるじゃない! わたしがとつぜん会いに行っても困らないように!」
「あのときは……急だったから……。なんだ? いまから束縛かい? いつかネイサンがいるとき言ったろ? 特殊任務があるんだ。これからもとつぜん任務で王都を離れることがあるだろう。詮索されても困る。いくら君でも答えられないんだ」
「そう……」
ルイーズに会ったことや娼館に行ったことを隠している。
イサクが簡単に嘘を吐くことが信じられなかった。
彼の心の中にはもう、わたしは存在していないのだろうか。
身寄りを失くしたわたしにとって、イサクは恋人だけでなく親や親戚のような存在でもある。
彼とは魂まで寄り添うソウルメイトと信じて疑わなかったから、突然の突き放しに心が動揺した。
どうしたらいいの。
イサクに捨てられたらわたしは、どう生きていいのかわからない。
「マリアン……愛してる。あの夜から、もっと君なしではいられなくなった。おれに……なにか言いたいことはないかい?」
「イサク……あなたこそ……何かないの?」
わたしはイサクの目をまっすぐに見つめた。
穢れのない澄んだブルーの瞳が、今日もわたしの心を掴んで離さない。
「だったら、マリアン! 婚約式の日にフランがネイサンの家まで訪ねてきたと言っていたが……裏庭で会ったんだろ?」
「なぜ……そのことを?」
「では、これは? おれが領地で勤務している間、大聖堂でフランと堂々と会っていたそうじゃないか! あれほどフランには気をつけろと言ったのに!」
「信じて! あれは、フランが勝手に……! 決してフランとはやましい関係ではないわ!」
「ぜんぶ本当のことなんだな? マリアン……君を信じていたのに!」
「フラン! だったら……あなたはどうなの? わたし……ぜんぶ知ってるのよ!」
「なにをだ?」
「クーデターの最中、あなたが……こっそり領地から帰ってきたことを!」
「……どうしてそのことを?」
「やっぱり、あなただったのね」
「どこかでおれを見たのか? マリアン……特殊任務だと言ったろ? ネイサンも知らないことだ!」
「だからと言って……」
仕事だと言われてそれ以上は聞けなくなった。
ルイーズや娼館の話を出しても任務と誤魔化されるだろう。
それよりもフランの誤解を解くほうが先だ。
それにしても――イサクはどこからわたしとフランの情報を得たのだろう。
「マリアン、なんだ?」
「な、なんでもないわ……。じゃあ、任務だったのね……。わたしとフランのことも誤解よ。婚約式のときのことは以前に話したわよね? フランが勝手に押しかけてきたの。侍女にお金を握らせて婦人を名乗り、わたしを裏庭に呼び出したわ」
「おれが領地に行っている間のことは?」
「大聖堂であなたのことをお祈りしていたの。そこにフランがまいにち来たのよ。でも、わたしもどうしてもお父さまの最期を知りたかったから、話を聞いたわ。フランがお父さまのことを思い出したというから……」
「君の……お父上のことを? そうか……。でも、誰か第3者を同席させるべきだったな。マリアン、とにかくフランを寄せつけるな。こちらがき然とした態度を取り続ければ、そのうちあきらめるだろう」
「イサク……わかった。もう、フランを相手にしない。結局フランは、お父さまのこともあまり憶えていなかったわ……」
「マリアンのお父上のことは、また改めてフランに聞きに行こう。ただし……次は絶対におれと一緒だぞ?」
「わかってるわ。たしかにわたしはウカツだった……ごめんなさい」
「わかってくれればいいんだ。マリアン……あの夜おれたちは身も心もひとつになった。ソウルメイト……そう思ったのはおれだけか?」
「イサク……! わたしもよ! わたしも同じ想いよ!」
イサクに思い切り抱きつく!
ソウルメイト!
やはりイサクも、そう思ってくれていた。
「イサク! わたしを信じて! あなただけ! あなただけなの……!」
「マリアン……愛してる!」
「わたしもよ! イサク、愛してる! 心から、あなただけを……」
イサクはわたしをきつく抱きしめ、熱烈なキスを贈ってくれた。
心底ほっとしたわたしは、うっとりと彼を見上げる。
「…………!」
目の前のブルーの瞳からギラギラと伺うような視線が発せられていた。
それは14年前に見た天井画のアポロンのように、わたしの心を一瞬で捉えた。
激しいキスを交わしながら、わたしの両足は未知の予感に怯えブルブルと震えていた。