『ん』から消えてゆく物語
ある日『ん』が消えた。『ん』がなにかというと『ん』としか言えない。なぜなら、なにか特別な物ってわけではないし、なにかの暗号ってことでもない。五十音の『ん』のことなのだから。自分でもなにを言っているのかわからんがとにかく『ん』が消えた。その日のテレビは天と地がひっくり返った様な大騒ぎだった。例えばこんな感じだ。
『皆さこばは。……失礼しました。皆様、今夜はいかがお過ごしでしょうか。き急……り時……、失礼。……急場のニュースをお伝えします。ほ日…今日未明、五十おの末尾のおが消失したことがは明…明らかになりました。そのため、さきほどからお聞き苦しい放送となっていることをご容赦ください。この消失はこの様に発お……口にすることができなくなるばかり、文字も消えてしまいました。視聴者の皆様でこれに当たる文字を憶えている方がいらっしゃれば、下記の連絡ば…数字にまでごれ絡、通知をお願いします』
アナウンサーがそう言って画面下の電話番号を示す。言われてみれば俺も思い出せん。頭の中まで『ん』が消えてないのがせめてもの救いだ。おそらく、あのアナウンサーか原稿かカンペを出す人か誰かは知らないが、その人が忘れてないから苦戦してるのだろう。
『この事態について桃郷大学名誉教授のかだ名誉……っと、失礼しました。えーっ……と』
ああ、名字に『ん』が入ってるのか。そういう人は不便だな。そう思っているとアナウンサーの横のおじさんがニッコリと微笑んで喋りはじめた。
『ああ、慌てなくも大丈夫です。こういう時はですね。どうもご紹介に預かりました、桃郷大学のか だと申します』
おお、なんとなく神田に聞こえたぞ!その神田(仮)先生は続ける。
『この『 』は、撥音、本当ははつお『 』なのですが、言えないので仮称としてそう呼ぶとしてですね。冒頭にでも来ない限りは独自の音を持っていないのですよ。ですから、前の音を強めに出しつつ、急に切れば、なんとなくですがそう聞こえる『 』ですよ』
おじさんは自信満々に発言するが手が所作なさげに動いていた。
『なるほど。それでは日常生活への影響は?』
『慣れれば日常会話はも『 』題ないでしょう』
『それでは影響ははげ『 』定的と?』
『と『 』でもない! 法律のようなものから説明書、娯楽の小説に至るまで全てのものから『 』が消滅ですよ? 今頃、あらゆるところで会議ですよ』
『なるほど。海外でも似たような事例が……え、も『 』部科学省の記者会け『 』ですか?』
なんだか漫画の原住民の会話を聞いている様で疲れる。面倒となりテレビを消した。なんか悪い夢でも見てるみたいだし、一晩寝れば元に戻ってるような気がする。うん、治らなくてもしがない一市民にはどうしようもないし。偉い人がなんとかしてくれることでしょう。って、ことでおやすみー。
翌日になると昨日の騒ぎはどこへやら、いつもと変わらぬ朝がやってきていた。それでもどこか違うその朝の理由はすぐに明らかとなった。世の中から一文字消えたのに普通過ぎるのだ。まるで初めからなかったかのような平常状態。確かになにかが消えたってのにさ。いや、なにが消えたのかまでハッキリとは憶えてないのが痛いところだけど。まぁ、こうやって社会は動いてるんだ。たいしたことはないのだろう。
その日まではその程度にしか思っていなかったが、それが全ての始まりだった。
それは朝のニュースを見ている時だった。
『おはようございます。今朝のニュースお伝えいたします』
女性司会者が言い回しに失敗した。業界用語の『かむ』とかを普通に使うのは如何なものか。そのような気難しさと共に朝食を口にする。テレビの向こうじゃアナウンサーがショックを受けたように口を押えていた。公共放送の司会者じゃなくてもショックなのか?
そういうことを考えていると、警報を知らせるチャイムと共にテロップが流れてきた。
『音と文字が一つ失われた模様。急な閣議が招集されて----』
マジかよ! 昨日に続いて二個目だ! っていうか、昨日に続いてなのに急な会議って……。まさか音が失われたことを忘れていたのか? さすがにないよな?
結論からいうと、そのまさかが正解だった。まるで初めての事象に対処するかのように対策方法などが報道されていた。もしかして明日になると今日と同じく何事もなかったように一日がスタートするのではないだろうか? そしたら俺も『を』の字を忘れてしまうのか?
そして翌日、俺の嫌な予想は全て的中してしまった。なにごともなく一日が始まり、俺の中から、また一つのなにかが失われていた。しかし幸い(?)にもその日はそれ以上の出来事はなかった。いや、正確には起きていたのだが気が付かなかったのだ。
なにごともない三日が過ぎた日のことだ。テレビから警報のチャイムとともにテロップが流れた。もう気が付いているだろうが『わ』がなくなったって知らせだった。あの三日中も『ワ行』は日々消えていたのだ!
随分と日にちが経った。一日一字、一音ずつ消えていった。すでに『ほ』が消えた。そして明日には記憶にないはずだ。音は五十のはず。『あ』『か』『さ』『た』『な』『は』これの五倍……なに五だっけ? く五、四じ……ああ、九九が言えない。意外にも結構な字数があるのか?
『字』と『音』が消えて、思考がきびしくなった。外の人の服装がおかしい。靴下がなかった人、スカート履いてない人とか普通。話すことができなくなった人がいた。フード買いに行った時の話だ。「うつけ」が制服を汚く羽織っていた。そしてぼうっとして立っていた。会計が出来ずに日没だったのが次の日になってた。
『おはー! 今朝のお話だ!』
司会はキビキビだ。そしてあの警報と字が出てきた。
『音と字が一つ消えた。急いで閣議が開催だ』
少しずつ違う字にはなはだ疑懼した。
こうして日々、音が消えていった。そして―――
ああああああ哀愛合会いいいいいいいいいぁぁぁぁぁぁぁぁ。いいいいい意亜イ位委胃良いぃぃぃぃぃぃ! 遭い藍あいあいあいいいいいいぁぁぁぃぃぃ。いいいいいいいいいいい。
『あああああああああああ。ああああああああああああああああぁぁぁぁぁ』
あいあいああい? いぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ。
『あああああああああ。あああああああああああああああ』
ああ、いいいいいいいいいいいいい。
あああああああああああああああア亜阿唖あぁ。あああああああああああああああ。嗚呼嗚呼アアアアアアアアアアアア!
『』
ああ? ぁぁぁぁぁぁぁあああああ!
『』
嗚呼! ああ……ぁ……。ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!
―――人が獣以下となってから幾千の夜を迎えたのだろうか。暦を忘れた人々に知るすべはない。朽ちた建物と雑草が勝利した舗装路がその月日を語っている。
ある人は二足歩行を止め、ある人は食べることすら忘れてしまった。だが、その方が幸せだったろう。文明をなくし、生産を止めた人々を養うだけの食べ物などどこにもなかったのだから。
そんな獣たちの中にも昔日の記憶を保つ者がいる。彼らは気持ちを出そうとするが声にならずに苦悶の日々を送っていた。そんなある日、彼らの一人が声にならない声、音にならない音、詰まったような声を出した。今の気持ちを表すようなそれを書き残そうと彼はペンを手に取った。
そしてまた新たな物語が始まる。―――