一、謎の男
一、謎の男
日暮れ前。
ネイル達は、ソリム国側の麓の村に着いた。そして、その足で、入り口の通りから真っ直ぐ進んで、右側に三軒並んだ家屋の三軒目に在る二階建ての建物に入った。ネイルが、逗留している宿屋である。
「ネイルさん、この方々は? 峠で、いったい、何が有ったのですか?」と、些か、腹の突き出た中年の宿屋の主人が、戸惑った顔で、尋ねて来た。
「俺が、駆け付けた時には、もう、ブヒヒ三兄弟の奴らに、襲撃されていたんだよ」と、ネイルは、冴えない顔で、苦々しく答えた。
「で、ブヒヒ三兄弟は、やっつけられたのですか?」
「いいや。俺がしくじって、取り逃がしてしまったよ…」と、ネイルは、頭を振りながら、神妙な態度で、無念だと言うように、やや低い声で答えた。本当ならば、連れて来たバニ族の娘の余計な一言で、逃がしたと言いたいのだが、それを言うと、言い訳じみて来るからだ。
「私が…」と、ジェリアが、物を言おうとした。
「おいっ、主人! この爺さんの傷の手当てを、誰かに頼めないか?」と、ネイルは、要らん事を言うなと言わんばかりに、ジェリアの言葉を遮って、問い合わせた。今は、怪我人の治療が、最優先だし、それと、両腕も疲れて来たからだ。
「そうですねぇ。この村には、お医者様は、十日に一度、この村に来られますが、二日前に来られたばかりなので、何ともなりませんねぇ」と、宿屋の主人が、間の悪いと言うように、困り顔で、回答した。
「ターカルは、助からないのですかっ!」と、ジェリアが、悲痛な表情で、食って掛かった。
「申し訳ありません。この方には、お気の毒ですが、私には、他に、お医者様には、心当たりが無いもので…」と、宿屋の主人が、少し天辺が薄くなった頭を、ただ、ひたすら下げて平謝りだった。そして、「呼びに行くにしましても、この村から隣の村まで、早馬でも、往復一昼夜は、掛かりますし、この方の体力を考えましても、かなりのお年のようですし、息の有るうちに、間に合うかどうか…。運が悪かったと思って、諦めるほかないようですね…」と、沈痛な面持ちで、追い討ちを掛けるように、言葉を続けた。
ジェリアが、死の宣告に等しい言葉に、打ちひしがれるかのように、茫然自失で、その場にへたり込み、「うう…。うっ…」と、両手で、顔を覆いながら、泣き崩れた。少しして、涙が、右の手首から細く白い上腕を伝って、肘からぽとりと、床に、垂れ落ちた。
ネイルは、ジェリアを見下ろすだけで、ただ、何も言えずに、突っ立っているだけだった。情けない事に、このような場面で、掛けてやれる優しい言葉の一つも、持ち合わせていないからだ。
突然、「すいません。今夜、こちらへ、御厄介にならせて貰えませんか?」と、重苦しい空気の中に、落ち着いた温かみを含んだ口調の男の声が、割り入って来た。
「は~い」と、宿屋の主人が、困り顔から一転して、愛想の良い笑顔に切り替わった。そして、戸口へ歩を進めて、その男に、応対した。
ネイルも、ジェリアから目を逸らし、その方を見やった。何者か気になったし、興味も、そそられたからだ。すると、三歩先の戸口に、自分よりも、背が低めで、黄土色の黒い幾本もの縦縞柄の薄汚れた着物姿のどっしりとした体格で、総髪に、やや丸みを持った柔和な顔の男が居た。そして、右手に、茶色い革張りの角張った手提げ鞄を持ち、履き古した下駄は、黒ずんでおり、歯と四隅が磨り減り、黒い鼻緒も、よれよれにくたびれている身形だった。それを見たところ、あまり、品の良さそうな者じゃないと感じた。そんな第一印象を抱いたからだ。
そこへ、総髪の男が、つかつかと歩み寄って来た。
ネイルは、慌てて視線を逸らした。大方、文句の一つでも言われるのだと、予想したからだ。
その直後、「あなたのお抱えになられている方は、妙に、顔色が悪そうですし、かなり弱ってますが、ご病気か、何かですか?」と、総髪の男が、穏やかな口調で、問い掛けて来た。
「へ?」と、ネイルは、予想外の質問に、きょとんとなった。文句ではなかったからだ。そして、すぐに、平常心を取り戻し、ターカルを刺激しないように、ゆっくりと反転して、総髪の男と向かい合うと、「あんたの言う通り、この爺さんは、具合が悪い。山賊達に襲われて、深手を負って、生死のに境居る。ま、医者が居ないから、もう、助からないだろうな…。気の毒だが…」と、声を、落とした。総髪の男に話したところで、助かる訳でもないからだ。
「それは、大変ですね。傷の具合は、どうなのですか?」と、総髪の男が、更に、質問した。
「あんた、そんなに、しつこく聞いて来て、話の種にでもしたいのか?」と、ネイルは、怪訝な顔で、やや不機嫌に、問い返した。まるで、他人の不幸を、根掘り葉掘り聞かれているような気がしたからだ。そして、露骨に、不快感を露にした。素性が知れない初対面の者に、これ以上、話す事は無いからだ。
「いえいえ。私は、興味本位で、質問をしている訳ではありませんよ」と、総髪の男が、、気分を害する風も無く、疑念を払拭するかのように、やんわりとした言葉遣いで否定した。
「じゃあ、何故、そんなに、知りたがる?」
「そうですね。強いて言えば、その方を助けてあげたいと…」
「ええっ!」と、ネイルは、突拍子の無い言葉に、驚きの声を発し、「おいおい、何を言っている? 冗談なら、承知しないぞっ!」と、些か、強い調子で、言った。どう見ても、医者や回復魔法が使える者には、見えないからだ。
「冗談ではありません。私は、こういう身形ですが、医術には、少々、覚えが有りますので…」と、総髪の男が、内に秘めた強い意思を垣間見せながらも、控えめな態度で、医者である事を仄めかした。
ネイルは、総髪の男から発せられた気迫を感じて、背筋が、ぞくっと震えた。本気の者にしか発せられない意思表示だからだ。そして、間髪容れずに、表情を引き締めるなり、「あんたに、改めて、頼もう。この爺さんを、助けてやって貰えないか?」と、軽く頭を下げて、依頼した。爺さんが助かるには、この男を信じるしかないと思ったからだ。
「良いですよ。目の前で苦しんでいる人を、放って置く事は出来ませんからね」と、総髪の男が、気持ちを察するかのように、力強く頷いて、快諾した。
「ネイルさん、良かったですね。お部屋なら、何処でも使って下さい。私も、全面的に、協力させて頂きますよ」と、宿屋の主人も、申し出た。
「早速だが、二階の一番奥の部屋を拝借させて貰おう。それと、洗浄用の熱湯の方も、用意をしておいてくれ!」と、ネイルは、指示した。
「はいはい。承知しました」と、宿屋の主人が、愛想の良い返事をするなり、足早に、ネイルの右側をすり抜け、ジェリアの横を通過して、奥の食堂兼酒場へと、立ち去った。
ネイルは、ジェリアに、顔だけを向けるなり、「君は、奥の席で、腰を掛けて、待っていてくれないか? 俺も、爺さんを部屋まで運んだら、戻って来るからさ」と、声を掛けた。そして、ジェリアの反応と返事を見届ける事無く、総髪の男に、向き直った。娘の事よりも、爺さんを部屋まで運ぶ事が、最優先だからだ。
「では、急ぎましょう」
「ああ」と、ネイルは、すぐさま頷いて、先に歩き始めた。
少し後れて、総髪の男も、二、三歩、間を置くように、後から付いて来るのだった。




