プロローグ 王女の危機
プロローグ 王女の危機
ライランス大陸西部のコーライ平野を突っ切るように延びる一筋のソリム国とパテシ国を繋ぐ街道を、西へ土煙を上げながら、二頭の馬が牽引する一両の質素な造りの馬車が、疾走していた。これまでで、すでに、六頭の馬を潰す強行軍を敢行していた。
車両には、御者と従者三人に、娘が一人の計五名が、乗り合わせていた。全員が、頭頂に、細長い兎のような耳を持つバニ族と呼ばれる種族である。
進行方向を向いて、後部右側に座る娘の名は、ジェリア・キュリナーク。背中まで伸びた金色の髪に、まだ、あどけなさの残る顔立ち。円らな青い瞳に、血色の好い唇。紺色の艶やかなドレスを着た、やや、育ちの良い出で立ちである。だが、これは、ジェリアの身分を誤魔化す為の目眩ましだった。何故なら、ソリム国の王女だからだ。極力、面倒な事に巻き込まれない為の措置である。今回の帰郷には、のっぴきならない事情が有った。父であるハリア・キュリナーク王が、危篤という報せを聞き付けての事である。
そして、昼前に、馬車が、国境の峠の天辺に、差し掛かろうとした時だ。
「ジェリア様、この峠を越えますと、ソリム国の領内になります」と、白髪に、白眉で、白い綿雲のように、口髭を蓄えた老従者が、やんわりと告げた。
ジェリアは、縁に身を委ねて、窓の外をぼんやりと眺めながら、老従者の言葉など、上の空で、小さく頷いた。今は、父の容体が気になって、返事をするのも、億劫だからだ。そして、溜め息を吐いた。
「ジェリア様、大丈夫ですよ。王様は、ジェリア様を見れば、元気になられますよ」
「そうです。王様は、御強い方です。病気になんて、負けませんよ」
しかし、ジェリアは、無視するかのように、若い従者達を一瞥する事無かった。
しばらく、車内が、気まずいとも言える沈黙の空気が、漂った。
突然、大きな揺れが、車内を襲った。
「きゃっ!」と、ジェリアは、咄嗟に、右手で、窓の縁に掴まりながら、進行方向を向いた。その瞬間、正面に座る体格の良い金髪の若い従者に、突っ込んで来られて、額をぶつけ合うと、その弾みで、縁から右手を離し、前のめりに、床へ倒れ込んだ。そして、「いたた…」と、顔をしかめながら、すぐさま、左手で額を押さえた。無防備な一撃だったからだ。
「お前ら! 何者じゃ!」と、御者が、語気を荒げた。
「うるせえ!」と、聞き覚えの無い男の声がした。その直後、何かを潰したような鈍い音が、聞こえて来た。
次の瞬間、「ぎゃあぁぁぁ!」と、御者の悲鳴がした。
「おい、お前達! 外の様子を見て来い!」と、老従者が、指示を出した。
「は、はい!」と、二人の若い従者が、すぐさま返事をして立ち上がり、左側の乗降口の扉を開けて、慌ただしく、外へと出て行った。
「うわぁぁぁ!」
「止めろぉぉぉ!」
二人の若い従者の悲鳴が、立て続けに聞こえた。
「ジェリア様」と、老従者が、声を掛けて来た。
ジェリアは、震えながら、徐に、左を向いた。
「このターカル・ハンダース、この老体を張ってでも、ジェリア様を、御護りしますぞ」と、ターカルが、大丈夫だと言うように、穏やかな表情で、やんわりと告げて立ち上がり、襟を正した。そして、背を向けて、若い従者達が出て行った乗降口に立つなり、「何じゃ? お前らは!」と、怒鳴り声を上げた。
「爺さん、邪魔だ!」と、先刻の男の声がするなり、先程と同じ鈍い音が、聞こえた。
その直後、「ぐ…」と、ターカルが、苦悶の声を発して、右に体勢を崩した。
「退け!」
次の瞬間、「ぐわ!」と、ターカルが、何らかの強い力に引き寄せられて、前のめりに、車外へ飛び出して行った。
その直後、頭頂部に、荒野に生える草むらのような頭髪を生やした大きな豚鼻が特徴のブヒヒ族の筋肉質で厳つい顔をした男が、ターカルの入れ替わりに、姿を現し、「見ぃ~つけたぁ~」と、にんまりと笑みを浮かべながら、ずかずかと車内に、踏み込んで来た。
「い…! いや…!」と、ジェリアは、ブヒヒ族の筋肉質に恐れて、萎縮した。ブヒヒ族の筋肉質の男から、身の危険とおぞましい気配を感じたからだ。
「へへへ。来な!」と、ブヒヒ族の筋肉質の男が、右手を伸ばした。
「きゃ!」と、ジェリアは、右腕を掴まれた。その瞬間、振り解こうにも、強張って、腕に力が入らなかった。このような危機的状況は、初体験だからだ。そして、ブヒヒ族の筋肉質の男に、車外へ引き摺り出された。
次の瞬間、「おらよ!」と、ブヒヒ族の筋肉質の男が、投げ放した。
「きゃ!」と、ジェリアは、投げ出されるように、地面に突っ伏した。
「兄貴ぃ、中々の上玉だぜぇ」と、妙に間延びする男の声が、左側から聞こえて来た。
「ターヤ兄貴、このバニ族の娘は、まだ大人じゃないよ」と、間延びをする男の声と同じ方向から、子供のようなあどけない男の声も、聞こえた。
「へへ、子供だろうが、何だろうが、女には、それなりの商品価値は、有るからな。値を付けるのは、ゲオ様だけどな」
「兄貴ぃ、ゲオ様にぃ、またぁ、値切られるんじゃないのかぁ?」
「そうだぜ。あのおっさんの事だから、絶対に、俺達に支払う何倍もの値で、売っていると思うよ」
「それを言うな。俺だって、そんな事は、分かっている。でもな、それを言っちまうと、俺達の連れて行った物は、二度と買ってくれないと思うぜ。あの人、自尊心の高い人だからな」と、ブヒヒ族の筋肉質の男が、ぼやいた。そして、「とにかく、この馬車は、邪魔だから、お前達、さっさと、処分しな!」と、指示を出した。
「へーい」と、二人が、声を揃えて返事をした。そして、移動する足音が聞こえた。少しして、僅かな時間の差で、二回の乾いた音が、周囲に、響き渡った。
その直後、馬達が、嘶いて、急発進した。そして、暴走状態のままで、瞬く間に、ソリム国側の坂へと下って行った。
少しして、「お嬢ちゃん、そろそろ顔を上げて貰おうか? ここに、いつまでも居られないからね」と、ブヒヒ族の筋肉質の男が、あやすように、穏やかな口調で、促した。
「さっさとしろ!」と、子供っぽい男の声が、追い立てるように、急かした。
「ひっ!」と、ジェリアは、驚いて、身を竦ませた。そして、ただ、震えるだけでしかなかった。頼る者が、誰も居ない絶望的な状況下だからだ。
突然、「ブヒヒ三兄弟! そこまでだ!」と、ソリム国側の坂の方から、三人とは別の若い男の声が、割って入った。
「何だ? お前は?」と、ブヒヒ族の筋肉質の男が、すぐさま応えた。
「これから倒される連中に、名乗る事も無いだろう」と、若い男の声が、さらりと返答した。
「兄貴ぃ、おでらの事を知っているてぇとぉ、あいつはぁ、賞金稼ぎだぜぇ」
「ポンク、そんなこたあ分かっている! ま、のこのこと、この場に現れたことが、間抜けだって事さ」
「そうだね。ターヤ兄貴、さっさと殺っちまおうよ」と、子供っぽい男の声も、賛同した。
「あんな野郎は、俺一人で十分だ。お前らは、手を出すんじゃないぜ。と、ターヤが、やる気満々で、告げた。
「へーい」と、二人が、声を揃えて、返事をした。
その直後、ターヤの足音が、ソリム国側の坂へ向かって、段々と、遠ざかって行った。
ジェリアは、恐る恐る顔を上げて、右を向いた。すると、ターヤの悠然と歩く後ろ姿が、視界に入った。さらに、ターヤに相対する焦げ茶色の頭髪で、精悍な顔つきに、色褪せた革のマントを纏った若者が、歩み寄っている姿も、視認した。
少しして、二人が、二〇歩程離れた先で、対峙した。
「おい! 俺達を倒そうって、なめた事を言ってくれるじゃないか!」と、ターヤが、凄んだ。
「俺は、本気だぜ。なめているのは、お前達の方じゃないのか?」と、若者が、毅然とした態度で、はっきりと言い返した。
「ほう、中々、胆の据わった野郎だな。まあ、強がるのも、それくらいにしておきな。命乞いをする事になるぞ」
「それは、どうかな?」と、若者が、ターヤの頭越しに、幅の広い刀身の剣を抜く動きが、見えた。
「おもしれぇ! 一撃で終わらせてやる!」と、ターヤが、左手の手斧を、頭上まで振り上げた。
ジェリアは、咄嗟に、二人から、顔を背けた。殺気立つ二人を、見て居られないからだ。
少しして、金属のぶつかり合う衝撃音が響いた。その直後、鈍い音がした。
「兄貴ぃ!」
「ターヤ兄貴!」
ターヤの連れの二人が、切迫した声を発した。
ジェリアも、二人の方に、向き直った。どのようになったのか、気になったからだ。
ターヤが、右手で、左手首を押さえながら跪いて、若者を見上げていた。その背後には、手斧が、転がっていた。
「これで、最期だ!」と、若者が、躊躇無く、ターヤの首を目掛けて、剣を水平に振るった。
「止めてぇぇぇぇぇ!」と、ジェリアは、金切り声に近い声を発した。これ以上の惨劇を見たくはないからだ。
若者が、その声に応えるかのように、ターヤの首の皮に、触れるか、触れないかの寸前で、剣を止めた。そして、視線を向けて来るなり、「ん? 何を言っているんだ? こんな山賊を庇っても、何の得にもならないぞ」と、不機嫌に、応えた。
「今だ! ポンク兄貴!」
「おう!」
背の低い小男と大柄の男が、若者の隙を突いて、右脇から、ターヤに向かって、駆け出した。そして、挟み込むように、ターヤの両脇に立って、間髪容れずに、ターヤの腋の下に、それぞれが、腕を潜らせるなり、ターヤを持ち上げると、反転して、再び、駆け出した。少しして、目もくれずに、ジェリアの右側を通り過ぎて行った。
若者が、背中の鞘に、剣を収めながら、しかめっ面で、すたすたと歩み寄り、「おいおい、あの連中は、必ず仕返しに、やって来るぜ」と、一歩手前で、立ち止まった。そして、「君のお陰で、俺の商売上がったりだよ」と、困り顔で、溜め息混じりにぼやいた。
「ごめんなさい…」と、ジェリアは、項垂れながら、しんみりと詫びた。若者には、申し訳無い事をしたと思いつつも、自分達を襲って来た山賊でも、命を奪われるのを黙って見て居られなかったからだ。
「謝って済むような事じゃない。君は、恵まれた環境で育ったから、そのように、山賊なんかを助けようと思えるのだろうけど、これまでも、奴らは、多くの人達を殺めて来たんだ。この先も、連中の被害に遭うもの達が、増えるだろうな」と、若者が、険しい表情で、非難した。
ジェリアは、返す言葉も無かった。若者の言葉が、心に、ずっしりと重く響いたからだ。
「おい! 君の後ろの爺さんは、まだ、息が有るぞ!」と、若者が、右手で、後方を指し示した。
「えっ!」と、ジェリアは、若者の思わぬ言葉に驚きながら、すぐさま振り返った。まさか、ターカルが、生きているとは、思わなかったからだ。そして、ターカルが、仰向けの状態で、血塗れになりながらも、蓄えた口髭を微かに揺らせながら、息をしているのを確認した。
その間に、若者が、ターカルの右脇まで歩を進めて立ち止まるなり、すぐさま、その場にしゃがんだ。
「あの、何を…?」と、ジェリアは、不安げな表情で、尋ねた。若者が、ターカルに、何をし始めるのか、心配だからだ。
「この爺さんの止血をするんだ。別に、とどめを刺そうという訳じゃないから、安心しな」と、若者が、背を向けたままで、両手をごそごそと動かしながら、答えた。そして、「気が散るから、黙っててくれ」と、言葉を続けた。
「はい…」と、ジェリアは、返事をして、若者の行動を、ただ、見守るだけだった。とても、これ以上は、声を掛けられる雰囲気じゃないからだ。
しばらくして、若者が、色褪せた革のマントを脱いで、ターカルの身体を包んだ。そして、振り返るなり、「血止めは済んだ。君、歩けるか?」と、確認するかのように、問われた。
ジェリアは、すぐさま、左右の足首を交互に動かして、確認した。少しして、幸いにも、痛みも無いので、挫いていないのが分かった。そして、「歩けそうです」と、返事をして、徐に、立ち上がった。
若者が、納得するかのように、小さく頷いた。その直後、「よっ」と、ターカルを抱え上げた。そして、「行こう」と、仏頂面で声を掛けて反転するなり、先立って、ソリム国側の坂へ向かって、歩き始めた。
「は、はい」と、ジェリアも、少し後れて、後に続いた。名前も、素性も知らない若者に、付いて行くしか、選択肢が無いからだ。そして、若者と共に、峠の坂を下るのだった。




