6:A
○
何を言っても答えてくれなかった影さん。
私にそっと、触れてくれた影さん。
『ごめんなさい』――それだけ言って、姿を消してしまった影さん。
「ここに、いたんだね」
○
扉を開けて外に出ると、みゃあ、と何だか懐かしい声が聞こえた。足元を見ると、『ⅰ』が尻尾を振って私を見上げている。左右で微妙に色の違う瞳が、緑色のランプの光を反射して妖艶に光っていた。
両手を伸ばしてみると、みゃあ、と細い声で『ⅰ』は鳴いた。鳴くばかりで、欠伸もしない、手を伸ばしもしない。私がかがんで身体を抱え上げると、ようやく思い出したように口を開いて欠伸を絞り出した。なんだか、ひどくほっそりしてしまったような。
『ⅰ』を両手に抱えて暗い廊下を歩く。非常口を指し示す緑色のランプを頼りにリノリウムの床を踏むたびに、ひたひたと足音が響く。暗くて、冷たくて、だけどなんだか心地よい、不思議な空間を私は歩いていた。絹のカーペットの上を歩いているような、――夢の中に生けるような空間。ぱちりと蛍光灯が白くはじけて、また一瞬の後に消えた。
こんなに天井は低かっただろうか。
圧縮された空間から追い出されるように、私は自動ドアをくぐって外の世界へ踏み出した。雪がすっかり降り積もった、けれど星空は凛と澄み渡って見える、なんだか素敵な冬の夜。星の光が私になにか、もの言いたげに目を光らせていた。空の黒は真っ黒で、月はぽっかり円い穴が開いたみたいに浮かんでいる。
この建物はすっかり、寂れてしまったようだ。見た目もそうかもしれないけれど、それはやっぱり、私がひとりぼっちになってしまったから、――そばに居てくれる人が、いないから。
「大丈夫だよ」
自動ドアの中に向かって、私はちゃんと頷いた。私は分かっている、確かに私はこの世界で、この空間で、ひとりぼっちかもしれない。
月を背にして立てば、そこにいる。白い雪のキャンバスに立っている、ぬっと背の高い、まるで影みたいなその人は、とっても冷たくて、氷ったみたいに無機質で、それでも確かなぬくもりを以て私に触れてくれた。私に残してくれたものは、確かにここにある。胸に手を当てれば、耳をふさいでみれば、目を閉じれば、確かにあるもの。
それが私にとっての、
「みゃあああ」
不意に、『ⅰ』が手足をばたつかせて暴れはじめた。思わず両手を解くと、雪の上に転がり込むように落下し、身体中に白い雪をまとわりつかせてしまった。殆んど背中からの着地だったが、元の体勢に戻ってすぐに寒そうに体を震わせると、足で器用に身体の雪を払い落としてようやく腰を落ち着けた。
『ⅰ』がじっと、私を見ている。尻尾を振って、首をかしげて見せた。私が屈んで頭をなでると、心地よさそうに目を細めた。彼女が笑顔を見せてくれたように感じたのは、はじめてだ。
やがて、『ⅰ』は私の指をひとつ甘噛みして、
「みゃ」
とひとつ鳴いて見せて、背を向けて歩いて行ってしまった。
空から降り始めた雪は、まるで『ⅰ』の足跡を残させまいとするようで、なんだかおかしかった。
「無理だよ、そんなの」
ひとりごとのように言葉が漏れるけれど、ひとりじゃない。私は『ⅰ』に手を振った。
「ありがと。元気でね」
遠くに見える『ⅰ』が、尻尾を振ってこたえてくれたような気がした。
雪はだんだん降り積もってくる。真夜中の住宅街はなんだか閑散としていて、仄暗い。コンクリートの色は嫌に冷ややかで、道は迷路みたいに入り組んでいる。雪はどんどん降り積もってくる。頭の上に積もってくる雪を、数歩歩いては払い、数歩歩いては払った。自分の自然な挙動の一つ一つがまるで人間臭くて、思わず笑ってしまいそうになる。ひどく多面的に自分を俯瞰しているような気分になれた。
この景色には見覚えがある。こんなに塀は、低かっただろうか。
白い息がはあっと漏れる。
赤い屋根の家を真っ直ぐ素通りし、つきあたりの角を左へ曲がる。
さぁっと、不意に、風が吹いた。
あ、と、声にならないような声が漏れた。
私の背よりも、だいぶ小さな背丈の女の子が、私のことを見上げていた。真っ黒なセーラー服を着て、両手には白い毛並みの猫を抱きかかえていた。なにか、恐ろしいものでも見てしまったかのように表情を凍らせて、私を見ていた。
私もじっと、それを見返している。――こんなに、真っ黒で、真っ暗で、光のない瞳をしていたっけ。
女の子は口をぽかん、と半開きにして、はぁっと白い息を漏らした。みゃあ、とか細くかわいらしい声で、腕の中の猫が鳴いた。『ⅰ』とは全然違う、図々しさとか、老獪さとか、そういう毒気が一切ない、かわいらしい子猫だった。思わず腕を伸ばすと、女の子はごく自然な挙動で、それを私に手渡してくれた。
子猫は驚いたように手足をばたつかせて、私の腕をすり抜けて女の子の元に飛び出してしまう。ふふっ、と思わず笑ってしまった。
「やっぱり、無理だ」
「そうかもね」
女の子が笑って、私を見ていた。
黒い髪の毛は手入れが行き届いて、肌も健康的な血色と雪のような白さが奇妙に共存している。
白い息が、漏れる。女の子は子猫をそっと、地面に降ろした。
それで、――私に両手を伸ばしてみせるのだった。
「影さん、今度こそ」
屈託ない笑顔だった。
不意に、頬を涙が伝ったような、そんな気がした。彼女に身を任せるままに、私は抱き寄せられた。すっかり、背ばっかり、伸びちゃったな。こんなに小さいものだったっけ……
「影さん」
『ミサキさん』。
女の子は薄い胸に私の顔をうずめながら、頭を撫でてくれた。
「また教えてよ、夢のみかた」
みゃ、と猫が鳴いた。
無理かもしれない、私は今度こそ、喉を鳴らして笑ってしまった。髪が、顔が、雪で濡れる。
「おかえりなさい」
こんこん、と雪の降る夜のことだった。私の家がなくなった。
「misaki.」完結です。
この話はもともと半年以上前に完結している予定でした。難産の末、生まれてきた物語です。
ミサキさんって誰なのか、影さんって誰なのか、無責任ですが、みなさんの心の中にひとつ、しまっておいてほしいです。そして、考えてみてほしいです。
少しでも心に残れば、いいなぁと、思います。
あなたの影さんは誰ですか。
このお話を読んでくださった方に、少しでも幸福がありますように。王生