6:Q
「ご両親が事故に遭われました。自動車の追突事故です」
電話越しの『警察のひと』は開口一番、そう私に告げた。
「現在は病院で手術を受けて、なんとか一命をとりとめている状態です。ですが、予断を許さない状況です」
ぼんやりと、私はそれを聞いていた。
どこか現実味が無く、電話越しに誰かの夢物語を聞かされているような、そんな気分だった。
「――今から警察の者がそちらに伺います。あと数分で到着するでしょう、彼らが病院まであなたをお連れいたしますから、待っていてくださいね……ミサキさん?」
私がずっと返事もせずに黙っているのを、彼はどう思ったんだろうか、私が「聞いてます」と言うと、彼はほっとしたようにうん、とひとこと言った。
それから、彼はそれまでの調子に輪をかけて、流暢に難解な単語をつらつらと並べて、私を責めた。今から行きますからね、あなたの親戚筋に連絡してください、今後の生活については、その場合の手続きは、エトセトラ、エトセトラ――
だから私は部屋を出た。
すっかり、ちゃんと、支度して。鍵もかけて、ガスの元栓も締めて。
たったそれだけで、私はループから外れたのだ。日常というループから。
○
夢を見ているのか、単に記憶をたどっているのか、それすらもおぼつかないような、そんな、そんな。
私は机に突っ伏している。しばらくこうしているような気がする。けれど、顔を上げて時計を見るような力はもう残されていない。ちょっと前に買ったばかりの下着がずれてかゆかったりするけれど、おへその下の辺りがキリキリと痛むけれど、私の身体は私の意志を汲み取ろうとしてくれなかった。
夢と記憶の違いはなんだろう、ふとそんなことを思った。頭だけ――私の脳の中だけ――は、私の言うことをちゃんと聞いてくれたからだ。夢とは脳が記憶の整理をしている過程で人間が見る記憶の追体験のことなのか、それとも単に自分の頭の中で好き勝手に生まれてくる妄想の世界なのか。確かめるすべはない。夢を見るのは人間で、人間の思考を司っているのは脳で、記憶とは脳の中、頭の中にあるからだ。頭の中に、記憶と夢は並んでいる。並んで立っている。そしてその高いてっぺんから、他の身体の部位全てを見下ろして、きっと笑っているのだ。
かわいそうに、と。
「みゃ」
『ⅰ』が短く鳴いた。足音が聞こえる。どこかを歩き回っているのだろうか。『ⅰ』も夢を見るのかな。本の城のてっぺんに身構えて、身体を丸めながら、きっと私が夢に出てきたりするのかもしれない。彼女の中で私はどういう風に見えているのだろう。
夢とは記憶か、記憶とは夢か?
だとしたら、今まで私が辿ってきた人生という道のりも、全て夢なのだろうか。
小学校の入学式も、喧嘩して大けがしたことも、お父さんとお母さんのことも、必死に覚えた分詞構文も、――影さんのことも、『ⅰ』のことも。ぜんぶ、ぜんぶ、私が見てきた夢だったのだろうか。勝手気ままに描き出して、私の都合のいいように動き回る舞台上の役者たち。ロボット。
瞬きをする。私は瞬きをする。この『瞬きした瞬間』すら、今では私の夢でしかないのだろうか。肉体的な感覚と、物理的な運動とを伴って私の脳に刻み込まれた今のできごとすら、私にとってはもう現在ではない、過去のことでしかない。じゃあ、それは夢と何の違いがあるのだろう。思い出とは夢で、夢とは記憶で、記憶とは過去で、過去とは思い出で。覚めない悪夢はない、というけれど、だったら、と私は思うのだ。
――だったら、この夢から覚めたら、私はどこに行くのだろう。
今ここにいる私は、今ここにいる『ミサキさん』は、私。ひとりぼっちでこうして蹲っている、私だ。
じゃあ、影さんと時を過ごして、警察の人から電話を受けて、両親と普通に暮らして、お母さんのおなかの中から生まれてきた『ミサキさん』は、もう、ただの『ミサキさん』で、私じゃあ、ないのかもしれない。
だったら、私は、今どこにいるの?
この夢を見ている私。今もどこかで眠り続けているのかもしれない、私という『ミサキさん』。それはいったい、どこにいるのだろうか。家だとか、学校だとか、影さんの部屋だとか、そんな話じゃない。
影さんはもういない。影さんはどこかに消えてしまった。影のように、闇にまぎれてしまった。
ふいに、あの声が全く聞こえないことに気付いた。ミサキさん、ミサキさん、私を苛むあの声が、今ではぱたと止んで聞こえてこない。私の身体は、動かない。机に伏せたまま、動かない。
ミサキさん、ミサキさん。
聞こえなくなると、不意に、それは心細くさせるものだ。影さんが居なくなった今、私は、ひとりぼっちだ。『ⅰ』はいる。ただ、それは無理だった。『ⅰ』のことを、私が理解するのは無理だった。『ⅰ』が何を考えて、何を見て、何を感じているのか、どんな夢を見るのか、何を記憶しているのか、それを確かめるなんて無理だったのだ。ずっと机に伏せたままで、私はずっと、考えていた。考えていた。ただ、『ミサキさん』の居場所を。私の現在地を。
私は覚醒している。同時に、眠ってもいる。そんな感覚だった。寝ているのか覚めているのか、夢を見ているのか、記憶をたどっているのか。身体は動かない。だからひたすら考えた。
私はどこ?
ウェア・アム・アイ?
跳ねるように、私の頭が起きた。目の前の視界は、眩むけれど、それでも起きた。白は緑や赤でちらちらと明滅して、頭の重さを支えるだけで精いっぱいだった。
机に手をついて、私は立ち上がり、歩き出した。すぐそこにある、影さんの指が踊っていたパソコン。影さんがいつも何かを書き込んでいた、レポート用紙。画面が開いたままのノートパソコンを再起動すると、パスワードの入力を求められる。壁紙は白一色で、なんだか影さんらしくて笑ってしまった。
ずっと、影さんに踏み入ることはしなかった。影さんが私に触れて、私に話しかけてくれて、そんな風にされるのは良かった、でも私から影さんに触れちゃいけないって、そう思っていた。私が触ったら壊れてしまいそうで、掴んでもするりと逃げられてしまいそうで、怖かったから。影さんがそこにいないような気がして、壊れるのも嫌だけど、そこから消えてしまうのも嫌で、つまり私の、単純なわがまま。きれいなものを、きれいなまま、そこにとどめておきたかった。
今は、影さんが、私に答えてくれると思った。私のたった一つの問いかけに、答えてくれると思ったから。ごめんなさい、許して影さん、――そんな風には思わない。
ただ、私は影さんに会いたかった。それだけだった。
マウスをクリックして、キーボードに手を伸ばすと、またあの声が聞こえてきた。ミサキさん、ミサキさん……私の身体中に響く声。ずっと私を責めるようにして、私を犯し続けたあの声が、今は心地よく感じる。ミサキさん、ミサキさん、ミサキさん、ミサキさん。
エンターキーを、ゆっくりと押す。
入力するパスワードは、思っていたよりもずっと単純で、身近で、とっても短いことば。
『misaki』
Welcome.
私を迎え入れる、歓迎のあいさつのようだった。真っ白けに広がるデスクトップ、そこにたったひとつ置かれていた、ワードファイル。マウスを操作して、それをクリックすると、画面いっぱいにファイルが広げられた。それは英語で書かれた文書だった。何十行、何百行と並ぶ英文は、難しい言葉ばかりで数字も図解もほとんど出てこない。だけど、目で追う必要なんて、なかった。私は、タイトルに書かれた英語だけは、しっかりと理解できた。
「『ごめんなさい』」
――そう言って消えてしまった、影さん。私に触れて、キスをして、私のことを抱いて、――たった一言そう告げて私の前から消えてしまった影さん。ずるくて、卑怯で、手の届かない場所にいた影さんに、今は私が手を伸ばす番だ。
ぬっとそこに立っていて、背の高い影さん。引きずるほど長い、黒い髪の影さん。無口で、けれどとてもきれいな影さん。指が細くて長くて氷細工みたいな影さん、肌の白い影さん、笑う声がちょっとくすぐったい影さん――
今まで見てきたどの影さんとも違う、影さんの本当の『姿』が、すぐそこにいた。
『How to DREAM』
――夢のみかた。