6:
背中に、ぬくもりを感じる。じんわりとした、太陽のような。
視界がおぼつかない。どこだろう、ここは。私は座って本を読んでいたことだけは覚えている。その本の内容を覚えてなくても、『3』が何回出てきたかを覚えてなくても、影さんの部屋に一緒にいたことだけは覚えている。
不思議な感覚だった。どこにいるのか分からない。私はいったいどうなってしまったんだろう。ぼんやりと、自分の身体の境界線が、あいまいになっている。空気になったみたいだ。自分の細胞のひとつひとつが空気に溶けだして、分散して、あらゆる場所からあらゆる角度で空間を俯瞰しているような――
ミサキさん、ミサキさん。
また、私を呼ぶ声がする。ミサキさん、ミサキさん……聞いたことのない声だ。穏やかで人の心をぬるりと撫でるように、やさしい、女の子の声。
「ミサキさん」
はっきり、聞こえた、その声。
あなたは、だれなの。
次の瞬間には、私は影さんの部屋に戻っていた。
肩のこそばゆさに違和感を覚える。突っ伏していた机から起き上がると、白衣のすれる音が耳にかすかに響いた。肩から羽織っていた、影さんの白衣。すっかり暖かく、熱を帯びてしまった。肩にそれをかけたまま立ち上がると、ずるずると裾を引きずるかのごとくだった。影さんはやっぱり、大きな人なのだ。
影さんの姿はなかった。パソコンは開きっぱなしで、レポート用紙も近くに散乱している。シャーペンも、消しゴムも置いてある。ずっとそこにいたはずの影さんがいないこの空間は、まさしく無機質な空間に成り果ててしまった。影さんの息遣いも、瞳の色も、かすかな体温も存在しない空間。それは、真空の宇宙のようなものだった。影のない宇宙だ。
私は傍らの本をいたずらに手に取って、一ページずつめくっていった。全部で何ページあるのか、数えるようにして手でめくっていった。影さんがいないここは、なんだかとても居心地が悪くて、逃げるように本の無いように目を走らせ続けた。壁の時計をふと見ると、今は三時。
一冊目は全部で、五百十六ページもある洋書だった。図解が一つもなく、ひたすら文字だけが書き連ねられているという内容だった。当然私にそれを知るすべはなく、二冊目を手に取ってひたすらページをめくり始めた。それしかやることはなかったから。
肩に重みを感じて、一瞬後に頬にかすかなぬくもりを感じる。『ⅰ』だ。私の右肩にひょいと乗っかって、みゃあ、と鳴き声をあげた。私が抱え上げてやると、抵抗することなく私を見つめ返してくる。ずいぶん軽くなったように感じた。
「影さんがどこに行ったか、知ってる?」
「みゃあ」
細い声で鳴くだけで、『ⅰ』は果たして何を考えているのかうかがい知ることはできない。影さんの行方を知っているのかどうなのか、私の言葉が分かっているのかどうなのか。
猫は頭がいい。人間を観察したり、あちこち自由気ままに歩き回ったり、きっと私のことも何もかも分かっているのだろうか。床にそっと体を下ろしてやると『ⅰ』は四本足で歩き出し、積み上げられた本の城を駆け上り始めた。軽やかにそのてっぺんに立ち、欠伸をして身を下ろした。眠ってしまったようだ。
私は本に目を移して、また一ページずつ、めくり始めた。
かさ、かさ、かさ――ページをめくるたびに、夢の中の声が聞こえてくる。ミサキさん、ミサキさん、ミサキさん――それは、色々な声を伴って、うなじの内側辺りに直接響いてくる。
それは全然聞いたことのない声だったり、電話越しに聞いた警察のおじさんの声だったり、お父さんの声だったり、お母さんの声だったり、昔見ていたアニメのキャラクターの声だったり、何気なく見ていたニュースのキャスターの声だったり、コンビニの中なんかで良く聞こえてくるアーティストの声だったり、――とにかく、色々な声が聞こえてくる。
そのうちに読み終わった二冊目、私は四百五十二回、名前を呼ばれた。
けれど、影さんには呼ばれなかった。
三冊目になってからも声は響き続けた。三冊目は脳の構造図や、heartとかspiritとかbrainとか、私でも少し見覚えのあるような英単語が並ぶ本だった。だからと言って、全体の内容が見えてくるわけではない。読み終わるまでに、私は六百八回、名前を呼ばれた。
けれど、影さんには呼ばれなかった。
四冊目に手を伸ばしたとき、頭の中で血管がうねるような鈍痛に襲われた。同時に、お腹がぐるるとなった。そういえば、ずっと本をめくってばかりで私は何も口にしていない。時計は七時を既に回っている。
いつもなら、影さんがそっと、カップ麺とかコーヒーとかを差し出してくれているのに。影さんはどこかに消えてしまった。私のそばに影さんは既にいない。どこに行ってしまったのか、立ち上がって部屋の隅々まで見回しても全く見つからない。ひとりで出かけてしまったのだろうか、けれど私は影さんがいないことに不安な気分ではあったけれど、不自然なことのようには思わなかった。だって、影さんは影さんだから、いつかどこかに消えてしまいそうではあったから。
わかっていたけれど、私はやっぱり、不安だった。誰もいないこの部屋は、なんだかひどく寒いみたいだ。
私は立ち上がって本の城に歩み寄り、てっぺんで眠っている『ⅰ』を抱え上げた。『ⅰ』は不満そうに手足をばたつかせていたが、すぐに落ち着いたようで私の右の肩に居場所を移した。すっかり、懐いてくれたようだった。『ⅰ』の身体はちょっと暖かくて、さわると柔らかい布団みたいな手触りがする。ちょっと安心した。『ⅰ』は余計なことを何も言わないから、影さんとちょっと似ている。だけど、影さんと違って、私の中にいる。すぐ近くに居て、こうしれ触れることができるから、それは影さんとは違って、ちょっと今は頼もしかった。
床に散らばったレポート用紙を一枚拾い上げてみると、まるでパソコンで打ったみたいなひどく無味乾燥な字で難しいことがたくさん書いてあった。影さんの物だろうか。日本語らしいものを見つけることはできない。全てアルファベットで書かれている。びっしりと細かい字で、それらはひどく黒ずんでいたからきっとシャープペンシルで書かれたものなのだろう。私はこれも、目で追ってみることにした。相変わらず何が書いてあるかはわからなかったけれど、それでも読んでみることにした。無色透明な影さんの字は、本に書かれている機械仕掛けの字よりも、ずっと冷たくて、きれいだった。
影さんのアルファベットは、『l』の字がちょっと筆記体寄りになっていたり、『s』の文字の尻尾の部分がちょっとカギのように伸びていたり、ひとつひとつの文字にちょっとした癖があった。ぜんぶの文字を指でなぞりながら、一文字一文字を頭に刻み込むようにして読んだ。
そっと、それを元の場所に戻すと、不意に『ⅰ』が私の肩でみゃあ、と大きく口を開けて鳴いた。欠伸のように身をよじって、いかにも眠そうだ。
「眠いよね。ごめんね」
『ⅰ』に言うと、彼女はみゃあとひとつ大きく鳴いた。なんと言っているのか。
部屋を隅々まで歩いて回って、やっぱり影さんはいなかった。床を這いまわるコードの中にも、散らばったレポート用紙の間にも、積み上げられた本の城の中にも、どこにも影さんはいなかった。時計を見たら、もう十時だ。
私は、だんだん影さんの姿が白に紛れて消えていくような気がして、とたんに身体の中に氷をひとかけら落とされたような感覚に襲われた。元いた椅子に座っても、その場所からは影さんのことは見えてこない。傍らにあった本を一つ手に取って、ページをめくっても、内容は一つも理解できなかったし――それは影さんとおんなじ・ごく自然な事なんだけど――、途中で『3』を数えても、十数えたくらいのときに、すぐいくつ数えたか忘れてしまう。ページ数を数えるなんてもってのほかで、私はどうすればいいのか、分からなくなっていた。
影さんが消えるのは自然なことで、けれど、せめて私には教えてくれたっていいじゃない、そう言いたかった。どうして? どうして、黙って消えてしまったのだろうか。買い物? それとも散歩? 影さんがどこに行ったのか、どうしているのか、どうして私になにも言ってくれなかったのか、それをずっと考え続けていた。
本を読むことにも集中できなくなって、お腹も減った。だんだん私の頭は、思考をやめようとしていた。授業中にどうしても眠くなった時にそうするみたいに、私は机に伏せた。ずっと肩に乗っていた『ⅰ』が驚いたように声を上げた。みゃあ、みゃあ、と心細そうに鳴く声は、初めて私に出会った時に上げていた声とよく似ていた。頭に手を乗せてくれたりする。
このまま眠ってしまって、そして次に目を覚ました時に影さんがいつも通りそこに居たら。
それがいちばん、よいことだ。それで影さんはカップ麺とコーヒーを差し出して「食べな」なんて言って、それがいちばん、よいことなんだ。このまま眠ってしまえば。
けれど、少し目を伏せていると、また頭の中に声が響いてくるのだ。ミサキさん、ミサキさん……いろいろな声が私を責めるように響いてくる。優しい声で、いたわるように、尋ねるように、気遣うように。そんな声で私に何がしたいんだ。私が一体、何をしたっていうんだ。
眠れずに顔を上げると、時計の針はちっとも進んじゃいなかった。数分も経っていない。
みゃあ、と机の上に座り込んでいた『ⅰ』がこちらを見ていた。左右でちょっと色の違っていた眼は、今は同じ色に見えた。ただの白でも黒でもない色だ。他愛のない色だった。
わたしはまた顔を伏せた。嫌だったのだ、たまらなく。
影さんがいないことで、こんなにも、こんなにも打ちのめされている、自分が。早く、影さんに会いたかった。