5:
夜の三時を回っても、私は眠れなかった。眠らなかった。ミサキさん、ミサキさん――呼ぶ声がしてはじめて、自分が舟を漕いでいたことを知る。その度意識を無理やりに引きもどして、私の名前を振り払う。コーヒーを飲みすぎたせいか、頭が脈打つように痛んだ。今の私にとっては、大切な鎖だ。私を夢に縛り付けてくれる、命の鎖。
けれど、しばらくすると、また私に舟を漕がせようとする何かおぞましいものが襲い掛かってくる。その度、私は目をつぶったり、こめかみを抑えたりして、ミサキさん、その声から逃れようとする。声にならない声が、喉の奥から這い出てきた。
みゃあ、と不安そうに『ⅰ』が足元で鳴いた。いつの間にか起きていたらしい。ひょい、と軽やかに私の膝に飛び乗って、無邪気そうに私を見上げていた。よく見ると、『ⅰ』の瞳は左右で微妙に色が違った。金色の瞳と、青緑の瞳。それが私を、ただ見ていた。
指で頭を撫でてやると、心地よさそうにみゃぉあ、と目を細めて『ⅰ』が笑ったように見えた。じゃれつくように両手を伸ばしてくるのを、私はなすがままに放置しておいた。顔、肩、胸、お腹、『ⅰ』の手は私の身体のいろいろな場所に触れて、熱を伝えてくる。
「ありがと」
『ⅰ』は満足したように本の城を駆け上った。
影さんは猫に一瞬だけ目線をやってから、こちらに目をやった。私も見た。影さんは立ち上がって、コーヒーの瓶からスプーンで一杯すくった。
影さんがすぐ近くまで歩み寄ってきて、コップを机に置く。そして、私を見た。
「寝れない?」
「いいえ」
言ってから、首を振る。
「寝れないんじゃないです。寝たくないんです」
影さんは、唇を引き結んでいる。だから、私も黙っていた。椅子に座ったまま、目の前にぬっと立つ影さんを見上げて、口から呼吸が浅く漏れる音が聞こえるようだった。
つくりものみたいな、黒白。
そうしてじっと黙っていたまま、どれだけの時間を過ごしただろう。見つめあったまま。
とたんに喉の奥から欠伸が漏れてしまいそうになって、あわてて殺す。目尻から涙がにじんで、それはやがて大粒になって頬を伝った。右手でぬぐおうとした時、
そっと、頬に触れられた。
「っひ」
肩がびくっと弾かれたように動いて、肺の奥に息が吸い込まれた。
影さんの右手が、私の頬を撫でるように添えられていた。心臓が跳ねた。冷たい。
彼女は親指で目尻の涙を、そっと、ぬぐってくれた。なんでそうするのか、分からない。分からなかった。
私は、触れてほしくなんか、なかった。貴女はずっと、そこに居てくれるだけで良かったのに。氷の壁の向こう側にいるみたいに、ずっと、そこに居てくれるだけで良かったのに。私の夢に、リアルな感覚があらわれる。
影さんは私の涙をぬぐって、
「『ごめんなさい』」
――なんて、言うのだ。
ごめんなさい。ごめんなさい?
ごめんなさい?
「影さん、」
もう片方の頬に、彼女の左手が伸びる。私の身体が、氷に中てられたように冷たくなった。指先が動かない。自分の意志が、伝わらない。
「影さん……」
そっと、影さんが腕を持ち上げて、私はされるがままに椅子から立たされた。
頭ひとつぶん以上、背の高い影さん。長い真っ黒な髪が綺麗な影さん。指先までひんやりとして、真っ白な影さん。淡い瞳が、私をのぞき込んでいた。じっと、まるで、脳の奥まで見つめているように。
ぜんぶ、影さんには、分かっているのだろうか。私の『家』のこと、家族のこと、私のこと。私が見ている夢、私がかつていた現実。こんなに何もない私に、何を見出しているのだろう。
なにも分からない、私のことを、影さんはきっと分かっているのかな。
影さんはそっと、私の顔を自分の方に引き寄せた。ほとんど力なんて入ってないはずなのに、私のかかとは少しだけ浮いて、そのまま飛んで行ってしまえそうな、錯覚。影さんはそのまま目をすぅ、と細めて、うすい唇を私のそれにそっと重ねた。
長い指が私の顔を包むようにして、けれど空から落ちてくる雪みたいな非力さで、私を支えていた。うすい呼吸が伝わってくる。影さんの唇から、私の唇に。
口から、影さんの舌が入り込んでくる。魂までからめとってしまいそうなそれが、私の舌に触れた。
「っん」
細い声が響く。誘惑に負けそうになる。ここで目を閉じちゃ駄目だと思った。瞼が重たくのしかかる。この目を閉じたら、駄目なんだ。指先まで動かせずに、ただ影さんと繋がっていたかった。影さんの吐息が、影さんの髪の匂いが、影さんの唇が、ぜんぶ、ぜんぶ、私のもの――繋がっているのはいい、ただ、引き込まれるのは駄目だ。甘い夢の中に。
そっと、私のかかとが地についた。唇がゆっくり、名残惜しそうに離れる。影さんと私の間に、光る細い鎖が繋がっていた。閉じる寸前で瞼を押し開くと、影さんが私の頭にそっと手をやって、私を抱き寄せた。
「『ごめんなさい』」
影さんは、泣きそうな顔になりながら――じっと見ないと分からないほど、かすかに瞼を揺らしながら、また、そう言った。
「『ごめんなさい』」
なんで、そんな風に、言うんだろう。
影さんは分からないことだらけで、影さんは綺麗で、けれど私は影さんと繋がれた。触れてしまったのだ。触れられないはずの、影に。
影さんの薄い胸に顔をうずめながら、波打つ鼓動に耳を傾けていた。情けないことに、私の鼓動だった。私の頭を、肩を抱き寄せる影さんの白くて細くて冷たい腕を、私は振り払うことができなかった。
「影さん……」
彼女の胸の中で、私は呟いた。
「わからない……わからないよ……」
「わか、らない?」
影さんは、戸惑うように、手繰るように、声を出した。
私の腕が勝手に、影さんの腰に回る。強く、抱きしめた。抱きしめられた。
「わからないよ……わからない……」
「……『ごめんなさい』」
最後にそれきり言って、影さんは何も言わずにもう一度、私に唇を重ねてくれた。無垢な子どもみたいに。それしか、言葉を知らないように。
冷たい床に散乱した、レポート用紙。本。レポート用紙。本。積み上げられた本に書かれたものの中に、ただの一つも日本語はなかった。ただただ数字とアルファベット、意味の分からない図、それのつみかさね。
私は影さんの白衣に体を包まれながら、椅子に座ってコーヒーを飲んでいた。
「影さん」
影さんはやっぱり、答えて、くれなかった。長い白衣を私に羽織らせてくれた影さんは、新しい白衣を取り出してそれを着ていたから、すっかりいつも通りの影さんだった。私の羽織った白衣からは、かすかに影さんの匂いがした。雪の匂いだ。
「ねぇ、影さん……」
みゃあ、と影さんの背後の本の城から、『ⅰ』が不安げに鳴いた。遠吠えのように身をふるわせて、みゃあ、みゃあ、と何度も。それでも影さんは、動かなかった。私はふいに、影さんの事をひとつ、分かってしまった気がした。
影さんはいつも『ⅰ』の事を気にしていた。いつもいつも、『ⅰ』が何かすると抱え上げたり、視線を投げたりして、それでこういうのだ。「無理だ」。なのに、影さんは何も言わない。まるで『ⅰ』の声なんて、聞こえていないみたいに。
私は、影さんが――影さんに手を伸ばしてしまいたい衝動にかられた。触れたい。抱きしめたい。キスをしたい。彼女が私にそうしてくれたように、私が彼女にそうしてあげたい。両手で頬を抱え上げて、舌を絡めて、私の胸に抱き寄せてあげたい。繋がりたい。
けれど、強く首を振った。苦いコーヒーが助けてくれる。すぅっと頭痛が引いていくような感覚と共に、意識と目の前との間に掛かっていた透明なもやが消えていく。私はやっぱり、影さんには触れちゃいけないのかもしれない。
傍らに積み重ねられていた本から、一冊を手に取る。何が書いてあるのか、やっぱり分からない。それでも私は読み続けた。たまに影さんの方を見ても、何も変わらない影さんが、そこにはいた。
私は知ってしまった。影さんはじっとしているように見えて、じっと、なにかをこらえているように見える。唇を引き絞って、指をせわしなく動かして、瞳はぼんやりと何かをとらえ続けている。
「影さん……」
ずるいです。
その言葉は、声に出さずに、ほんの小さな吐息と一緒に漏れた。
影さんは、ずるい女だ。私は触ることができないのに、影さんはこちら側に乗り出してくる。私と影さんの間の壁をするりと抜けて、私に触れてしまった。私は影さんに触れられてしまったのだ。ずっと、壁の向こう側の存在だった影さんは、私にとってのリアルになってしまった。実体を伴った、なまめかしい感触と共に。
影さんは何も答えちゃくれないのだ。私の言葉が届かない、別次元の存在。彼女だけが、自由な国の人だ。縛られている、影のくせに。
「……それは、」
力なく、笑いが漏れた。
みゃあ、と『ⅰ』が鳴く。『ⅰ』は私の膝の上を安住の地と定めたようで、軽やかに着地するとそのまま体を丸めこんでしまった。最後に尻尾を振って、それを体にはわせるようにして、寝息を立てはじめる。
『ⅰ』、アイ、あい、愛、哀、藍。私の『ⅰ』は、どの『アイ』なんだろうか。私の膝の上に乗ってしまうほどの小さな命、すぐに手を伸ばせば首を絞めて殺してしまうことだってできてしまうのに、――なんて重たいんだろう。『ⅰ』という、名前だけで。
「無理だ」。影さんはそう言った。どうして、そんな名前を付けたんだろうか。影さんは、じっと、なにも変わらない影さんで居続けた。私はそれがつらくて、ひどく扇情的だった。私をいたずらにあおるその態度に、それでも、ほっと、安堵してしまう。
時計は四時を指していた。私は、本を読むことにした。そうすれば、私は、私の世界だけにとどまっていられるから。机の上に本を広げて、影さんの白衣に包まれながら――