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misaki.  作者: 王生らてぃ
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4:

 椅子で寝るのは何度目か、ここに来てから何度目か。体中がなんだか痛い。体にかけられた毛布を取り払って時計を見ると、また七時と書いてあった。膝の上では『ⅰ』が丸くなっている。見かけより軽かった。

 部屋の周囲を見回すと、影さんはまた、なにも変わっていなかった。パソコンとレポート用紙に向き合って、何事かをカタカタ打ちこんだり、カリカリ書き込んだりしていた。目の下にクマも浮かんでいない。この人はいつ眠っているのだろうか。今は夜なのか、朝なのか。

 疑問は尽きずとも、私がもぞもぞと身じろぎしているのをとらえたのか、影さんが目ざとく反応して立ち上がった。カップ麺の入ったビニール袋から二種類を取り出し、ケトルから熱湯を注ぐ。まるですっかり当たり前のように、二人分を用意してくれている。影さんは、何事もない。

 不健康そうにも見える伸びきった長い黒髪は、彼女を包んでくれる衣のようだ。黒のローブに隠された、真っ白けの肌。じっと、見入ってしまう。椅子に座ってキーボードを打鍵する指先まで、なんだかとても、――色っぽかった。本を読んでいるときなんかより、ずっと、ずっと、楽しかった。

 ピピピピピ、ピピピピピ。アラームの音でふっと我に返り、影さんが立ち上がった時には頬がぼうっと熱くなった。

「食べな」

 割りばしとカップ麺を手渡す影さんは、本当に、いつも通りだった。

「ありがとうございます……」

 うつむき加減に、そう言うのが精いっぱいだった。とても顔なんて見られそうになかった。かしゃん、と影さんが椅子に座る音を聞いて、そそくさとうどんをすすった。

 みゃあ、と『ⅰ』が膝の上から私を見上げて、にや、と笑っていた。軽やかに床に飛び降りて四本足で優雅に歩くその姿はいっそ誇らしい。憎らしくもある。

 無理だ。影さんの言葉が脳裏に浮かぶ。彼女はいったい、なにを感じているのだろう。私の中になにを見ているのだろうか。尻尾を振るばかりで何も答えちゃくれない。寂しいけど、孤独じゃなかった。

 その日も私は一文字一文字を目で追いながら、網膜に刻み付けるようにして読めない本を読んでいた。十二時を回って一冊をようやく読み終わり、二冊目の本を手に取ってまた同じように読み始める。影さんがたまにコーヒーを作ってくれるのを静かに受け取って、退屈な時間は過ぎていった。

「影さん」

 うっかり、声に出してそう呼んでしまったことがあった。あわてて顔を背けてしまったけれど、影さんは何も言わず、何も答えず、何かを続けていた。

「……影さん」

 そんな風に私の言葉に答えないのには、何か理由があるのだろうか。

 私は影さんの事を、何も知らない。知りたいけど、それはきっとよくないことだとも思う。一心不乱になにかにふける影さんを見ると、邪魔をしてはいけないとも思うし、なにをしているのか気になる。疑問をたくさんぶつけたい。名前は、年は、何をしているの、――どうして私をここに連れてきてくれたの。

 ふと、『ⅰ』が影さんのパソコンの隣に上ってゆく。影さんは手を止めて、猫と目を合わせた。みゃあ、と『ⅰ』は欠伸をするように口を大きく開いて、影さんに鳴き声をぶつけた。ふたりはそうして睨み合ったまま、動かない。

 私はそんなふたりの様子を、じっと見ていた。両手で抱えた本の一文字一文字、数字もアルファベットも、ぜんぶ頭になんか入ってこない。影さんは作り物みたいに動かないまま、いっかいだけ、ゆっくり瞬きをした。

 やがて影さんはうん、と頷いて、『ⅰ』を細い指で抱え上げ、ゆっくりと床におろした。

「やっぱり無理だ」

 みゃあ、と『ⅰ』が鳴いた。私はまたパソコンに打鍵を始める影さんを見て、本に目を落とす。『ⅰ』だけは無邪気そうに部屋を四本の足で歩き回りながら、私たちの時間を回していた。


 ミサキさん、ミサキさん、ミサキさん――玄関のチャイムが鳴るのと同時に、紺色の制服に身を包んだ男の人がゴトゴトと靴の音を鳴らしながら家に入ってきて、そう呼ぶのだ。御崎(ミサキ)さん、御崎(ミサキ)さん、御崎(ミサキ)さん……

 落ち着いてください、と中年の男が言って、私を座らせようとする。その間に若い二人が、私の部屋、両親の部屋なんかを漁って回る。落ち着かない。嫌で、嫌で、仕方がなかった。私には何もない。けど、この家にはいろいろなものがある。それを、掘り返さなないで。勝手に踏み込んでこないで。

「落ち着いて聞いてください」

 電話の向こうで言ったのと同じように、彼は言うのだ。

御崎(ミサキ)さん。あなたのご両親が――」


 脳をつくカフェインのにおいで、意識が急に引っ張られるように目を覚ました。

 目の前には銀色の事務机の上に乗せられた、私の腕。周囲を見回すと、なにも変わらない、窓のない白い部屋。眠ってしまっていたらしい。

 すぐ横を見ると、コーヒーが乗っていた。カフェインのにおいの元はこれのようだ。のぞき込んでみると相変わらず真っ黒で、すっかり揺れている。

 影さんはコーヒーのカップを持って立っていた。こちらの様子に気付いたようにふと視線を移して、それから何事もなかったかのように椅子に座った。彼女はコップの中をすすりながら、

「よく寝てたね」

 とたんに照れくさくなって顔を背けて、苦いブラックコーヒーを飲んだ。机に突っ伏して眠ってしまっていたらしい。むむぅ、と唸るような声を聴くと、私の足元で『ⅰ』が体を丸めて、尻尾を体にはわせるようにして眠っていた。むむむ、と時々声を上げるのは、夢でも見ているのだろうか。私と、同じように。

 影さんは、また影さんに戻っていた。コーヒーを傍らに置いて、何かを、している。

 コーヒーを飲んで眠気も覚めると、膝の上に広げたままになっていた本を手に取った。これを読んだまま、眠ってしまっていたらしい。まだ意識が半覚醒のままなのか、あれだけ熱心に読んでいた本の文字の羅列が、今は小さな黒い虫の集まりみたいに見える。ぜんぜん意味を見いだせない、本能的なグロテスクさを感じる。なにが書いてあるんだろうか。

 ぺらぺらと適当にめくっていく。ずっと文字の羅列。アルファベット、数字、時に図解……それも妙にねじれた空間を現したような、見た事も無いような世界が書いてあった。なんだこれ、と思わず口を突いて出る。

 コーヒーからもうもうと立ち上る湯気が、私の顔をわずかに濡らす。

 私は何百ページもある本の中の、ちょうど真ん中あたりにその図はあった。難しい数学書みたいな、管がねじれて絡まっているような図、人の脳の構造を現したような図、円グラフ、折れ線グラフ……やっぱり、分からないことだらけだ。本を閉じて、コーヒーを飲みほした。苦くて、暖かかった。

 空のコップを置いて、また机に体重を預けながら、コーヒーを飲みながらもシャーペンを止めない影さんをじっと見た。こと、と、コップを机に置く音がする。静かだった。壁にかかった時計を見上げると、十二時になりそうなころだった。

 影さんをじっと見ていると、時間はどんどん過ぎていった。彼女は瞬きもせず、欠伸もせず、背伸びもせず、一心不乱に、けれど表情を変えないまま、ひたすらパソコンの画面に目を走らせている。目は半分くらいしか開いていなくて、半月型の瞳が艶めかしく蛍光灯の光とパソコンのブルーライトを反射している。

 凛と伸びた背中も、長く引きずる髪の毛も、――蠱惑的だった。触れたら壊れてしまいそうな、けれど触ってはいけないような、危うい絶対の美しさがあった。

 ずっと眺めていたい。触れるくらい近くで、じっと見ていたい。静的なオブジェのようで、生命力を感じさせないけれど、退廃的な死も感じさせない。境界線に存在する、――私と同じように。

 生きているのか、死んでいるのか。

 いったい、私はどっちなんだろう。なにもかも失って、分からないことだらけの世界に放り出されたような気分だ。

 影さんが立ち上がるのが見えた。椅子の背もたれからコートを持ち上げて、袖を通す。

「ついてくるかい」

 うん、と頷いた。はい、とは言わなかった。私は足元の『ⅰ』を鞄に入れようと持ち上げる、そのためにかがんで手を伸ばすと。

「駄目だ」

 影さんの短い一言に、それを止められた。

「駄目だ。『ⅰ』は寝てるんだろ」

「は、はい……」

「寝てるんだから、起こさないで」

 優しい声色でそう言って、影さんは扉を開いた。


 十二時は夜の十二時だったようで、暗い廊下を出ると真っ黒な空から雪が降っていた。既に冷たいアスファルトの上に、足首くらいまで埋もれるほど雪は積もっていた。影さんは玄関を出てすぐ横に立って、壁にもたれるようにして空を見上げた。私は少し距離をとって同じように彼女の隣に立った。

 空には星が出ていて、月もかすかに見えるのに、雪が降っていた。不思議な光景だった。雲は雪から降るものじゃあ、ないんだろうか。ため息が漏れるように、私の口から白い息が漏れた。私はいったい、何をしてるんだろうか。

 影さんはどうして、ここに来たんだろう。横目に彼女を見ると、影さんは口からわずかに白くて薄い息を漏らしながら、じっと、空を見上げていた。

「影さん」

 呼んでも、答えてくれないことは分かっていた。だからあえて、影さん、と、言ってみた。

「ここ、どこなんでしょうか」

 天に輝く鼓星(オリオン)座。砂時計の中の砂は、黒くて見えない。少し歩けばコンビニに行けるくせに、周囲に建物も見えない。誰もここにはいない。不思議な場所だ。白くて黒くて、不思議な世界。ふと、そんな疑問が口をついて出てしまった。影さんは答えないでくれるから。

 ひゅう、と夜風が身を切るように吹いた。

「どう、かな」

 とまどったようなその声は、私のものではなかった。

 横を向くと、影さんも私の方を向いていた。目が合った。

「楽しいかい」

「え……」

 何を、聞くんだろう。

 影さんは。

「楽しいかい」

 もう一度、確かめるように影さんは言った。瞳の奥がわずか揺れるのが、私には見えた。影さんは私よりも背が高いから、私を見下ろすようにして見ていた。

 雪が蒼い月明かりを、淡く照らし返している。

 影さんは何も言わずに、じっと、私の瞳をのぞき込んでいた。私も、じっと、彼女の瞳を見ていた。吸い込まれそうな混沌のパステル・カラー。心臓が駆け足で、私の意識を奪う。

「……はい」

 自然にその言葉を発していた。頷くと、影さんは僅かに口元を緩めた。

「よかった」

 ゆったりと、安心したような表情でそう言って、影さんの口から白い息が漏れた。それからはいつも通りの影さんに戻った。じっと空を眺めて、氷のように動かなくなってしまった。私は影さんから目をそらすことが出来なくなった。たまに口から漏れる白い息の消えるまでの行方を、じっと、目で追っていた。薄く、本当にわずかに挙動する胸の上下する動き、たまにぴくりとだけ動く白い指先、ぜんぶ、ぜんぶを見ていた。

 しばらくして、影さんは思い出したように壁から背を離して歩き出し、私もそれに追従する。私たちは真っ直ぐに部屋に戻った。

 どうして影さんは外に出てきたのだろうか。時計は一時を指していた。影さんはまたいつものようにコートを脱いで椅子の背もたれにかけた。そのしぐさがいつも通りの影さんで、私はほっと安心したような気分になった。

 影さんがブラックのインスタントコーヒーを淹れている。背筋を伸ばしたまま。髪の毛も真っ直ぐ。ケトルから注がれる熱湯より、それを持つ手の方に視線がいってしまう。なにも言わずに、彼女は私にブラックコーヒーを差し出してくれた。

 ほんのりと苦くて、黒くて、影さんの味がした。

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