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影さんは実に分かりやすい人だった。パソコンとレポート用紙に向かい、ある程度時間が経つとケトルでお湯を沸かしてカップ麺かコーヒーを作って口に運び、またパソコンとレポート用紙に向かう。機械的というには人間的で、かといって人間的というにはいろいろなものがかけているような、そんな風な人だった。毎回私にカップ麺とコーヒーを分けてくれるのを、私はただ受け取るしかできなかった。
「ありがとうございます」
お礼を言っても、なにも返事をしてくれない。影さんは黒髪を文字通り引き摺りながらのっそりと歩いて自分の席に戻っていく。偏頭痛のように頭が痛む。影さんはコーヒーを淹れるとき、いつもコップふたつ分作ってくれたからだ。砂糖もミルクも、なにもついていないブラックコーヒー。私には縁のなかった未知の飲み物だった。けれど、不思議とこの部屋でしばらくじっとしていると、その頭痛もすぐに嘘のようにおさまっていく。居心地がいいということだろうか。頭痛が治るなんて時間が経てば普通の事のはずなのに、とくべつこの部屋が、特別な気がした。私は読めもしない本の一文字一文字に目を走らせながら、時間を過ごしていた。
「これ、何の本なんですか」
忙しそうになにかをしている影さんに尋ねてみても、やっぱり何も答えてくれなかった。かといってパソコンやレポートを覗きこむのも、なんだか気が引けた。結局私は、なにも出来ないままで本を読むしかなかった。みゃあ、と傍らの『ⅰ』が鳴く。前足で私の開いていたページをべしっと叩き、退屈そうに鳴いていた。
お前には分かるかい。猫はもちろん答えないので、私は聞かなかった。『ⅰ』はじっとページをにらんでいたが、やがて目を離してまた本の城に上った。
影さんはまた『ⅰ』に目をやって、それからまた戻した。
「やっぱり、無理だ」
本の城から『ⅰ』が暇そうに降りてきたころ、影さんはまたのっそりと立ち上がった。彼女は椅子の背もたれに引っ掛けてあったコートに腕を通して、こちらを振り返った。
「ついてくる?」
「……はい」
頷くと、くす、と息だけで影さんは笑ってくれた。
背筋に悪寒が走るくらい、どっきりさせられるくらい、きれいな笑顔だった。ほんのちょっとだけ笑っている瞳は、赤……青……緑……黄……どれにも取れるくらい、不思議な色彩をしていた。影さんの、白でも黒でもないところ。
「『ⅰ』も連れてきて」
「は、はい」
みゃあ、と億劫そうに鳴く『ⅰ』を抱え上げて、私も外に出た。ずいぶんと手足をばたつかせて、まるで暖かいところから出すな、せっかく逃げてきたのに、と言いたげだ。私は鞄の中の物を全部出して、そこに『ⅰ』を突っ込んで歩き出した。影さんの言いたいことはなんとなくわかる。自分の目が届かない場所で本だとかレポートだとかを猫に荒らされたくないのだ。
無理だ。影さんの言葉には、いろいろな意味が含まれていそうだ。
扉を開けた影さんの後に続いて、私は外に出る。白い床が伸びる、病院の廊下のような場所だった。電気はついていない、真っ暗だ。ぽつぽつと緑色の光が点灯しているくらいで、どこまで伸びているのかわからない。その緑色の光がなんだか不気味で、まるで私を誘い込むための罠みたい。
三時というのは午前の三時だったようだ。窓のない部屋にしばらくいたせいで、時間の感覚がすっかり失われている。扉に鍵をかける音が遠くまで響いて、影さんは歩き出した。私が見上げるほど、大きな人にみえた。吐く息が白いのは、『非常口』と書かれた緑色の光に照らされて分かった。ずっとストーブに当たっていたせいか、ひどく寒かった。
リノリウムの廊下を長いこと歩いていくうちに、ここはどうやら病院ではないということだけは分かった。診察室のようなドアがいくつも並んでいて、けれどそれだけだ。エントランスのような少し開けた場所からガラス張りの扉を押し開いて外に出た。雪はやんでいたけれど、ずいぶんと積もっていた。空には星がきらめいて、黒い空が幕のように私たちに覆いかぶさっていた。影さんは迷うことなく、真っ直ぐに歩いている。私は彼女と等間隔を保ちながら、じっと歩き続けた。真横でも真後ろでもない、微妙な立ち位置を保ちながら。
自嘲する。どっちが影だかわからない。私が影さんの、本当の影みたいだ。
「あの、」
私の声の他に、音はない。やっぱり影さんはなにも答えてくれなかった。
十数分ほど歩いただろうか、影さんがやってきたのは、深夜の眠る町にぽっつりと浮かぶコンビニだった。影さんはカゴを掴んで、しっかりした足取りでふらふらと店内を歩き始めた。黒くて背の高い影さんは、白い店の中ならどこにいても目立つ。私たちの他に、客はいない。店員は眠そうな顔をしながら店の掃除をしたりしていた。影さんを照らす、白く光り輝くコンビニのシンセティックな明かりは、なんだかとても場違いに見えた。
漫画の単行本の背表紙を見たり、店内の放送に耳を傾けたりしているうちに、影さんがレジにカゴを置いたのが見えた。カゴの中にはインスタントコーヒーの瓶と大量のカップ麺、そしてレポート用紙と2Bシャーペンの替え芯が入っていた。店員は驚いたように目を見開いて、しかしすぐにレジを打ち始めた。
「五千と六十一円です」
影さんはコートのポケットから財布を取り出し、レジに表示された値段を見て五千円札を一枚と、小銭をいくつか。店員はやがてレシートと小銭を渡して、少々お待ちください、とカップ麺をせっせと巨大なレジ袋に入れ始めた。
彼女はきょろきょろと店内を見回して、少し離れたところでお菓子を見物していた私の姿を認めるとほっとしたように肩をほんの少し、なでおろした。
「お箸はお付けいたしますか」
店員の言葉に、影さんはなにも答えない。ただ、私に手招きしていた。こっちに来な、と。その通りに私が彼女の隣に行くと、影さんは言った。
「何か欲しいかい」
「えと……」
「教えてごらん」
「あの……すみません、お箸は……」
店員が戸惑ったようにもう一度聞いても、影さんは何も答えなかった。私が店員と影さんとを交互に見返していると、影さんはぬっと店員さんに向き直った。そこでようやく彼の姿に気が付いたように、ゆっくり顎を引いて、はいお願いします、のアピール。店員は「かしこまりました」と持ち直したように、大量の割りばしを袋に入れた。
最終的に袋は大きなものが三つになった。私がひとつ、影さんがふたつ。自動ドアをくぐって、また雪の花道をふたりで歩く。影さんはなにか心残りがあるように、コンビニに意識をなんども向けていた。
「なにもいらなかったの?」
「は、はい。別に」
白い息が口からもうもうと立ち上る。相当に気温は低いらしい。影さんに半歩遅れて着いていきながら、私は呟くように言った。
「カップ麺、好きなんですね」
ぎゅ、ぎゅ、と雪を踏む音が心地よい。
「でも、身体に悪いんじゃないですか?」
影さんの髪の毛は長い。だから影さんの歩いた後には足跡の他に、髪を引きずった跡が残る。
「太っちゃいますよ」
「……えっ、なんだって」
急に影さんが振り返った。私もびっくりした。
「ごめん、もう一度」
じぃ、と目の奥の神経まで覗きこんでしまいそうな、深い深い瞳が私を見ていた。なんだか妙に緊張してしまった。心臓が高鳴った。一度だけ目をそらしてから、また向き合って、
「太っちゃいますよ」
はっきりと言った。
「こんな夜中に」
「……ふふっ」
こらえきれないように、不意に影さんが笑った。目が細くなる。
「大丈夫。気にしない。誰も」
歌うようにそう言って、また影さんは歩き出した。
「いちばん効率がいいんだ」
「でも……それじゃ、健康にも悪いんじゃ?」
「なにか食べたいものがあるなら、買ってあげるよ」
それきり、影さんは何も答えなくなってしまった。
鞄の中で、にゃ、と短く『ⅰ』が鳴くのが分かった。わからなかった。