2:
白い湯気のもうもうと立ち上る黒い水の入ったコップを手渡された。紙とコードで形作られた、迷路の宮殿。パソコンが並び、本が積み上げられ、黒板やホワイトボードには無数の数字とアルファベットが書き綴られている。足元には何かのコードが並んでいて、蛇のように足元にまとわりついてくる。あちこちにレポート用紙が散らばって、見かけのスペースよりも狭苦しい、きれいな場所だった。
私は四つくらい並んだ事務机のひとつに座って、毛布を肩にはおりながら、近くに置かれた小さな電気ストーブで暖をとらされていた。膝の上には、あの灰色の猫もいっしょだった。すっかり落ち着いたようで、ごろごろと喉を鳴らしながらくつろいでいる。
私を導いて引っ張ってきた影は、自分もコーヒーをすすりながら椅子に座ってパソコンの電源を立ち上げつつ、左手にシャーペンを握って傍らの紙に何かを綴っている。
コップの中身はとてつもなく苦くて、舌の感覚が薄れてきて、それでも私はのんだ。これくらいの方が、良かった。壁にかかった時計は全部で三つくらいあって、どれも二時くらいを指し示していた。全部アナログ時計で、午前と午後の区別がつかない。
「あの……」
ピピピピピ、ピピピピピ、とアラームの音が鳴る。影さんはすぐにのっそりと立ち上がって、私にプラスチックの容器を差し出した。何も言わずに。丁寧に蓋の上には、割りばしを乗せて。蓋を開くと、そこには熱湯に沈んだうどんと厚揚げ。
「食べな」
声を聞いて顔を上げると、影さんは既に椅子に座って、自分もカップそばを食し始めた。
「おなか、すいてるんでしょう」
「あの……」
白色の蛍光灯が、影さんを照らしていた。真っ直ぐ伸びた黒髪は、椅子に座っても床を引きずるくらい長くて、かろうじてうかがえるその顔立ちはこの上なく整っていて、けれど来ているのは黒いブレザーの上に白衣を羽織っただけ。パソコンを打鍵し始めた指は、さらさらと細くて長くて、氷細工みたいだ。
「あの……」
みゃあ。猫が鳴く。
「その、ありがとうございます」
「食べな」
「……いただきます」
割りばしはちょうど半分に割れた。カップのうどんをすすると、体の内側が燃えているようだった。額にうっすら、汗がにじむ。いったん食べ始めると、ふたくち、みくち、次々食べてしまう。あっという間にスープまで飲み干してしまった。「ごちそうさまでした」
影さんはなにも言わなかった。パソコンをカタカタと操作しながら、時々レポート用紙になにかを書き込んでいる。なにも言わなかった。
私は膝の上の猫をそっと持ち上げてストーブの近くの床において、部屋の中に乱雑に転がっていた分厚い本の中から一冊を手に取って開いてみた。アルファベットで書かれた、何が書いてあるのかさっぱりわからなかった。けれど、何枚かページをめくってみると、図がかいてあった。円とドーナツ型。
もう一冊、手に取ってみた。今度もアルファベットだ。ずるずると、分からない。
「あの……何の本ですか、これ」
影さんは何も答えてくれなかった。私は散らばっているレポート用紙に目を通してみるけれど、やっぱり日本語は一つも見当たらなかった。
そうしているうちに、私はうとうとと眠気に襲われた。すっかり、くたくただった。
特別仲がいいわけでも、特別不仲なわけでもなかった。私の家族は、ごく普通の家族だったと思う。なんとなく、あきあき、していたのかもしれない。毎日のルーチンワーク。学校に行って、友達と話して、帰ったら家族と話をしたり、宿題をしたり、そうやって寝るとまた同じ一日が始まる。そういう日常に、あきあき、していたのかもしれない。
「ミサキさん」
いつも、そう呼ばれていた。とにかくミサキさん、ミサキさん、ミサキさんだった。私は。家族は私のことをミサキさんとは呼ばなかったけれど、私にとっては大して変わらないような、つまりそんなものだった。名前なんて、別にどうでもよかったのかもしれない。
私は、輪から外れてしまった。
期せずして、心の奥の望みを始めて実感すると同時に、それが叶った。誰だって望んでいることを叶えられるわけじゃない、だけど、私は叶ったのだ。叶った瞬間に、私がそれを望んでいることを実感した。
私は、外れてしまった。ルーチンワークの輪から、日常から。
目を覚ますと、壁には見たことのない時計がかかっていた。
七時。
朝日が差し込まないので夜かと思って部屋の中を見回してみると、初めてこの部屋に窓が無いことを知った。四角い窓も、カーテンもない。私はびっしょりと汗をかいていて、けだるかった。すぐ横を見ると、ストーブが唸るようにしてつけられている。
影さんがこちらを見ていた。彼女は同じようにパソコンに向かいながらレポート用紙を広げ、シャーペンを左手に握って、傍らにコーヒーの入ったコップを置いていた。彼女はのっそりと立ち上がり、実にゆったりとした挙動で机の周りを迂回しながら、やがて私の元にたどり着くようにして歩いていた。その片手には、カップが握られている。私はそんな彼女の様子を、ただぼんやりと眺めていた。
「飲みな」
そのコップを、私に差し出して短く言った。
「あの……いただきます」
影さんは、やっぱりこたえては、くれなかった。軽く頭を下げて受け取り、それをすする。頭の芯まで冴え渡るような、苦味。彼女はその間も、一心不乱に紙とパソコンに向かっている。挙動はゆっくりで、今にも眠ってしまいそうだけれども、瞳の奥にはらんらんとした光が宿っているように見えた。楽しそうだったのだ。
コーヒーを飲み終わって私は椅子に座ったままで三十分ほど部屋を観察していた。白い壁に囲まれた、直方体の窓のない部屋。事務机とイスのセットが四つ。あちこちに散らばったレポート用紙。過剰に多いパソコン。コード類。積み上げられた本の城。天井は高く、蛍光灯は真っ白け。
ふと、扉を見つけた。ごくごく単純な、横に開くスライド式の扉だ。私が影さんに引っ張られてはいってきた、あの扉だ。六歳くらいの頃、脚の骨を折ったときに入院したときに、病室のベッドの上から見たような扉だった。扉の横には簡単なキッチンまでしつらえられていて、水場からコンロまで完備されているが、――汚れ一つ無いように見える。
私は傍らの本を開いて読み始める。読めないけど、読み始めた。アルファベットが並んでいるけれど、わずか習った英語の文法が一切見当たらない。別な言葉なのかもしれない。分からないけれど、数字だけは読めるのでそれを追っていくことにした。『3』を二十個くらい見つけた時、みゃあ、と足元で声がした。
見ると、あの灰色の猫だ。すっかり元気になったのか、四本の足でしっかりと立って、こちらを見上げていた。指を出して頭をちょんと突っついてやると、弾かれたように軽やかな足取りで歩き出して、レポートを踏みしめ、本の城を踏みつけながら登っていく。影さんはそこで初めて猫の存在に気付いたように顔をゆったりと上げた。猫は本の城を駆けあがり、尻尾でバランスを取りながら一番高いところまで行ったところで腰を下ろした。
猫と影さんが、じっとにらみ合う。
猫は大きな目をいっぱいに見開いて、影さんの深淵までのぞき込むように首をもたげている。影さんはどこかうつろそうに、しかしその瞳の中にはパソコンやレポート用紙に向かっているときとは別な輝きがあるように見えた。既視感を覚えた私はすぐに、その瞳の色が、私と出会った時の物だということに気付いた。
やがて、猫が尻尾をくるくると振って欠伸をしたのを見て影さんが視線をパソコンに落とした。
「『ⅰ』と呼ぼう」
それだけ言って、また打鍵を続ける。
「無理だ」
「あの……」
影さんは、やっぱりこたえちゃ、くれなかった。
『ⅰ』と名付けられたその猫は、高いところから私たちを見下ろしている。彼には、私たちはどう見えているのだろうか。
影さんはずっと、変わっていなかった。何かを書いて、何かをタイピングしている。私は読めもしない本を広げて、彼女をこうして見ているだけだ。あの人の名前も、ここがどこなのかも、分からないまま。
あとで分かった事だけど、『ⅰ』は雌猫だった。