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雪がすっかり積もっていた夜だった。私の家がなくなった。
石油ストーブの近くでどてらにくるまれながらひとりで留守番していると、不意に電話が鳴った。受話器の向こうから知らない男の声が聞こえてきて、ミサキさんですか、と突然尋ねてきたので、すぐに電話を切った。
もう一度かかってきたので出てみると、さっきと同じ声の男の人が話しかけてきた。
「警察の者ですが」
そう前置きして、彼は一瞬押し黙った後にこう切り出した。ご両親が――
ひとしきり手続きがどうのとか、今から保護がどうのとか、難しい話を聞かされたあとに電話を乱暴に切られて、私はストーブを切った。自分の部屋に戻って黒いセーラー服に着替えて、鞄の中に筆記用具とノート、貯金箱の中に入っていた二万円、それだけ突っ込んでふたを閉めた。クローゼットからお気に入りの白いコートに袖を通して、マフラーを首に巻いた。
電気を消して、ブレーカーも落として、蛇口もしっかりしめて、ガスの元栓も締めて、鍵をかけて玄関を出た。空は真っ黒で澄んだ空気に星がよく見える。雪が積もった白い道に足跡を残しながら、私はブーツで一歩一歩を踏みしめるように歩き出した。周囲に私以外の足跡は残っておらず、他に歩く人も見えない。車が一台やっと通れそうな狭い住宅街の花道を歩く。白い花道は、私を足元から取り込んでしまうように柔らかい。
ご両親が、ご両親が、ご両親が、音のしない深夜の雪空の下では頭の中の音だけが昏々と響く。電話のベル、ご両親が、ぎゅ、ぎゅ、と雪を踏みしめる音。こんな夜中に外を歩いたことはなかった。今までそれなりに真面目に、健全に、生きてきたつもりだった。それも、どうでもいいことになった。コンクリートの蒼い光は寒くて、私まで生きた心地がしなかった。すっかり感覚が無くて、不思議と寒くもなんともなかった。
息が白い。雪も白い。降り積もる雪も白い。真っ白と真っ黒の視界の中で、そのはざまに灰色の塊を見つけた。道の片隅にうずくまるようにしてそこにいたそれは、近付いてみると灰色の小さな猫だった。
長いしっぽを体にはわせるようにして、小さく丸まっている。雪が背中に積もり始めていて、ピクリとも動かない。死んでるのかとも思ったけれど、わずか身じろぎするのを見て私は猫を抱え上げた。だいぶ冷え切っていたけれど、心臓のわずかな鼓動とほのかな体温を手のひらに感じる。
ひゃ、と静かな悲鳴を上げた。
猫はまだ生きている。私は両手にそれを抱えて体を撫でながら、また歩き出した。な、な、と小さく鳴き、猫は少しばかり手足を動かした。まるで死の遣いに連れ去られるのを抵抗するようだ。今の私はまさしく死の遣いだ。行く当てもなく、この子を連れていくのだから。
夜の闇に吸い込まれるように、足取りは軽やか。ゆきゆきて、月の下。雪に月が浮かび上がって、さしずめ私が散る花ということだろうか。猫がにゃ、と今度ははっきりと声を上げた。
自分は花のように可憐だと、そんな風には思わない。花はただ咲いて、ただ散るだけだ。
不意に、風が吹いた。
振り返るとそこにぬっと背の高い黒い、影が立っていた。見ると、それは長い黒髪に長い黒コートを着た、女のひとだった。長い前髪からほんの少し覗く顔は雪よりも白くて、月明かりを蒼く照らし返し、切れ長の瞳がこちらをじっと見つめている。
背の高い影は、右手に大きなビニール袋を提げて、こちらを見下ろしていた。凍ったような表情で、彼女は言った。秋の虫が鳴くような、か細い声だった。
「こんな夜中に。危ない」
みゃあ、と猫が鳴いた。くつろぐような声だった。私の手に抱えられながら、彼女に向かって手を伸ばしたりする。
目の前の影は、それに手を伸ばして応える事も無く、戸惑ったような表情をしながら話していた。
「どこに行くんだい」
どこに。
どこでもない。ただ、あそこでなければ、どこでもいい。月の明かりに導かれるままに、行くだけだ。
私の首が思わずぴくり、と動いた。
帰りなさい、とか、そういうあたりまえなことを言われると思っていた。私には帰る場所なんて、もうないから、真っ先にこの人の事を嫌いになっていたかもしれない。けれど、この人は違った。
じっと、女の人は私を見下ろしていた。
黙って見返していると、彼女はなにか得心したようにうん、と頷いて、踵を返した。背中は大きくて、私は彼女の言いたいことがなんとなく分かった気がして、猫の背を撫でて後を追った。影についていくなんてなんだかおもしろくて、私は悪い気はしなかった。
追いかける彼女の姿は、夜の空よりも、ずっと黒かった。
諸事情により「文学フリマ」に出店するはずだったものを大幅にリビルトして書き直しているものです。予想以上に長くなったので分割しています。