第二十八話 胸に咲く言葉
プロローグを読み直してからの方が分かりやすいかもしれません。
大好きな黒髪が目の前でさらりと空に解けた。
髪を靡かせて振り返ったレディアは慈愛を込めた瞳で笑った。
「大好きだよ」
うん、私も大好きだよ、お姉ちゃん。
「愛してる。だから、――――来るなッ!」
黒に紛れて、赤が散る。ドロリと零れた赤がティーリアの足下まで広がった。
レディアが微笑む。
優しく、優しく。
レディアが微笑む。
微笑んでゆっくりと緑を宿す瞳を閉じた。
ああ、目の前に広がっていた深い森が消えてしまう。優しい笑みが消えてしまう。
その瞬間を見ていたくないのに、夢の中では目を閉じることさえ出来ない。
嫌だ、お姉ちゃん、嫌だ。
ぐるりと思考が乱れる。沈んで、浮かぶ意識が何かをつかみかけたとき、不意にティー、と呼びかける声がきこえた。
その声に引きずられるように振り返ると、背後にはかつて長い時間を過ごした暗い小屋の景色が広がってた。
「お、ねえちゃん」
「大丈夫、大丈夫だよ、ティー」
レディアは何度も大丈夫、と繰り返してティーリアを抱きしめた。心が落ち着くようなハーブの香りを漂わせていたレディアからいつもとは違ったにおいがする。鼻につくようなひどく不安になるにおいだと思った。
「おねえ、ちゃん……」
「大丈夫。ティーは私が守るから」
力のこもった抱擁は痛いくらいだ。けれど、心をせき立てる何かが離れたくないと叫んでいた。
「絶、対に。ティーだけは……っ、守り抜いてみせる。私が守る。守るんだ。必ず……っ」
――――たとえ、何を犠牲にしても。
ひとつひとつの音を噛みしめるように放たれたその言葉はやけに重く響いた。
その重みはレディアの覚悟だったのだと今なら分かる。
「ティー、魔法をかけてあげる。とっておきの魔法だよ」
頬に触れた手が淡く光り、不思議な感覚が身体に走る。翻る背を追いかけようと伸ばした手は動くことさえ制限された。
これが、レディアがティーリアにかけた最後の魔術だった。
ああ、ごめんなさい。ごめんなさいお姉ちゃん。お姉ちゃん。嫌だ。行かないで。ごめんなさい。
お願い。良い子にする。もう何一つ願いが叶わなくていい。何もいらない。だから、だからお願い、__ないで……。
夢の中でも、最後の言葉だけ弾かれる。
行かないで? 泣かないで?
違う。もっと、苦しくて切実で、ひどく絶望を感じていた。
あの時ティーリアは何を願っていたのだろう。
ふわりと意識が舞って、また目の前を流れる風景が変わった。見覚えのある人が膝をついて、ティーリアに懺悔している。
「ごめん。ごめん、なさい、ごめんなさいっ。救えなかった……! 貴方から家族を、あの人を、奪ってしまった……ッ」
カランとその手から仮面が落ちた。
どうして泣いているの。何が辛いの、苦しいの?
過去に見た風景だ。なのに、その前後のことが思い出せない。けれど、
泣かないで。
今なら伝えるその言葉を、当時のティーリアは決して口にしなかったことだけ、よく覚えている。
「私は守られ、託された。だから、どうぞお使い下さい。お命じ下さい。この身は盾であり、剣。この生の終わりまでただ貴方の幸福の為だけに」
○
目覚めが良くなかった日は、決まって倦怠感が纏わりつく。
何もしたくなかった。けれど、そういうわけにもかない。
後宮を抜け出して女中として働くくらい暇を持て余しているティーリアとて令嬢として放るわけにはいかない用事もある。
狭い後宮の世界での人間関係は非常に重要。今日はそんな人間関係を構築するために欠かせないお茶会の日なのだ。
後宮で与えられた部屋にいるティーリアの格好はいつもの簡素な服ではなく、最近の流行どおり七分袖でくるぶしまでの総丈のドレスだ。
スカートは白色で夜会のものとは違い、さらさらとしていて比較的動きやすいもの。上からはおったボレロは濃い紫色に黄金色のボタンがついていてティーリアの銀髪によく似合っている。普段は負担をかけないよう何もせずおろしている髪に鮮やかな赤の細工の施された飾りが刺されており、髪も一部分だけ軽く結い上げられている。リボンの色も今日のお茶会の主賓と被らないように気を付けて選んだ。
セリスに施された化粧は濃く、目尻に朱のラインが入っている。
すこしきつく見えるような気がするが、きっと自分が童顔なせいだろう。
そう納得して口に塗られた紅でますますきつくみえるようになった顔を眺める。自分の後ろで髪に香りの良い油を塗ってくれていたセリスが立ち上がり準備が終了したことを伝えた。
「美しいですわ! ティーリア様!」
「うーん、少し派手な気がするけど」
「そんなことありませんわ。ティーリア様はお優しいので、少し迫力があるくらいでちょうど良いのです。それに、多少は容姿で威嚇、いえ、なんでもありません」
「……セリス?」
「言葉の綾です」
なんとなく不穏な台詞が聞こえた気がする。セリスは何事も無かったように穏やかに微笑む。
「心配でしたらユエ様に尋ねてみてはいかがでしょう? わたしもユエ様の意見もお聞きしたいですし」
「うん、そうする」
セリスを信じていない訳ではないが、念のためだ。彼女は忠誠心が高いあまり、時折ティーリアを過大評価する所がある。
セリスの言った、ユエは水の中位精霊だ。深く物事に入れ込まない精霊の中で唯一水精霊達だけが流行、特にお洒落に敏感である。他の精霊も何かに打ち込まないわけではないが気まぐれな性質上、あまり長続きした実績がない。
そしてなにより水精霊はとてもセンスがいい。
「ユエ、いる?」
「はーい姫様、なんですかー?」
そっとユエを呼ぶ。彼女は最近完璧に実体化出来るようになったので頭に直接響くような精霊語ではなく人間と全く変わらない声の調子だ。
「今日のドレスを見て欲しいの。ユエから見てどう?」
ユエはティーリアの周りをくるくるっとまわる。
「まぁー姫様とても素敵ですー! もっとフリルがあったほうが良いと思うけれどー、そんなに目立つ必要ないしーこれで充分ですわー」
「そうかなぁ」
「ご安心下さいませ。ユエは精霊ですからー。流行なら人間より敏感ですよー」
やはり化粧についてはなにもいわなかったのでこれが普通なのだろう。
セリスは気になっているところをユエと話し合い、調整を始めた。
「……もう一度、確認させて下さいませ。ティーリア様、本当に行くのですか? 何か、理由を付けてお断りしても良いのでは」
支度も整い、約束の時間が近づいてくるとセリスが心配そうに話しかけてくる。微笑みを浮かべて頷いた。
「そんなに心配しなくても大丈夫。別にいつも何か言われる訳じゃないでしょ?」
「……そうですね」
セリスは言葉を飲み込んだような顔をする。
彼女が言いたい台詞は理解できた。
今回のお茶会の主賓はティーリアと仲の良い令嬢では無い。むしろ逆だ。心配するのも当然だろう。
カロリナ・フレンテラ。
今日のお茶会の主賓であり、フレンテラ侯爵の一人娘である。緑色の髪に金の瞳。高飛車な性格で、侯爵令嬢だというのを良いことに好き放題している。彼女を筆頭に上級貴族の集まった派閥は後宮内で最も力が強い。そして、派閥にはいっていない下級貴族をお茶会と称して招き嫌がらせをするのが彼女達のやり方だ。
ティーリアは本来なら彼女達より格上の王国ルロニアの公爵令嬢。しかし、今はダウス子爵の一人娘としてここにいる。明らかに彼女達の苛めの対象になる存在だ。
セリスはそれを案じてくれている。
(……心配しなくてもいいのに)
何度もそう言っても変わらず心を砕いてくれる。
けれど、本当に平気なのだ。だってティーリアには姉からもらった言葉がある。昔、ファンレーチェ邸に訪れた令嬢達に使用人と思われ、囲まれて酷く罵られたことがあった。落ち込むティーリアに姉は言ってくれた。
“可愛い可愛いティー”
“ティーはあまりに可愛いから妬まれてしまうんだよ。価値の分からない者の言葉に耳を貸す必要は無い。貴方を傷つけるためだけに放たれた言葉なんて聞き流してしまいなさい”
“でも、どうして辛くなったら何度でも言ってあげる。ティーはとっても可愛いよ。私は誰より、ティーが好きだよ”
今もなお、胸に咲き続ける言葉があるから、それでいい。ティーリアにとってはレディアの言葉が真実だから。
「ティーリア様が傷付かないかと、本当に不安なのです。ティーリア様が心を痛める様子を見るのは嫌です」
そんなセリスの心配にティーリアは笑って返した。
「大丈夫だよ。ずっと断り続けるわけにもいけないでしょう? いつかは行かなきゃいけない日がくるの」
ティーリアは目立たないようにするために精霊の加護をうけていることは秘密にしている。だから万が一の場合以外には精霊達の助けを借りることができないのだ。勿論少し貶されたぐらいでは精霊の加護を受けていると知られるより断然マシだ。
ひらりとスカートを揺らし、まだ不安そうなセリスに明るく微笑みかける。
「もうドレスに着替えちゃったし、ね?」
丁度そのとき、ノックが聞こえた。セリスは諦めてティーリアをしっかりと見つめた。
「ティーリア様。貴方は素晴らしい人です。貴方は強い。貴方は優しい。誰が何を言おうとも、わたしを救って下さったのはティーリア様なのです。わたしはティーリア様にお仕えできて良かったと心から思っております。それだけは覚えていて下さいませ」
貶されてもティーリアが落ち込まないようにというセリスの心遣いがたのもしい。
(ねえ、お姉ちゃん。私は幸せ者だね……)
幸せという感情にちくりと痛むものを抱えながらティーリアはいっそう優しく微笑んだ。
「ありがとう。頑張ってくるね」