第二十六話 水精霊王※
昨日は結局あそこで城案内が終わってしまったので今日改めて案内をすることになった。パシェはジグドの館の神木のことで忙しく、ハロルドは昨日イレーネに会いに行った分の仕事が溜まっているので案内はフィルライン一人だ。
つい、ため息を吐きそうになる。原因は少し後ろで自分を見つめるアーレン。何故だか分からないが先程から好意的とは言い難い視線を向けてくるのだ。今も溜め息を抑えたフィルラインをひやりとした瞳で観察する。
あまりにも冷たい視線に、それを遮れるだろう鎧が恋しくなってきた。
「……なにか?」
「いえ。なんでもありません」
笑顔もパシェに向けていたものより数段胡散臭い。そのような視線に晒される心当たりはなかった。
「……あー。アーレン殿。出立は四日後だったか。ロードニスでの滞在はどうだ?」
「とても充実しています。ロードニスは精霊がたくさんいるので交流も出来ました」
「精霊が見えるのか?」
「ええ。魔力が多いというのはそれだけで他を補える殆ど完璧な長所なんです。魔力こそ全てと考える人も少なくないほどに」
だから時には万能の力とも言われる。魔力量の多い者に少ない者は服従すべきだと主張する魔力絶対主義の過激派もいる。
しかし、加護も契約もなしに精霊を見ることも出来るとは初耳だ。魔眼の効果によるものなのだろう。ほとんど完璧な長所とは言えて妙だ。
「ロールデン様、貴方は、っ!?」
何かを言いかけたアーレンが転がるように左の角を曲がった。
「―――な!?」
全方位から大量の魔力を感じ、フィルラインもアーレンとは逆の方向に跳ぶ。こちらに向かってくると思った大量の魔力は何故か急に向きを変えてアーレンに襲いかかった。うっすらと何体かの精霊が見える。
「アーレン殿!?」
前のめりにアーレンが倒れた。急いで駆け寄ろうとするが壁のようなものに阻まれる。かろうじて数体がのしかかっているのは見えたが、フィルラインの目に映る以上にいるようだ。
倒れたまま、こほこほと咳き込むアーレンに怪我をした様子は無い。
「精霊の仕業だな。何が起きているか分かるか?」
「はい、これは単に、っまずい! 失礼!」
早口でそう叫ぶと開いた窓から飛び降りた。いや、自らの意志ではなく攫われたのか。
一人残され、呆然としているとぱたぱたという足音が聞こえてきた。
「大丈夫ですかっ?」
焦った声とともに姿を現したのは栗色の髪にきらきらと光る緑色の瞳を持った女中―――ティリーだった。
「ふぃ、フィルライン様っ!?」
「待ってくれ」
フィルラインを見るなり別方向へ走り出そうとした腕を掴む。少しショックだったせいかやや力が入ってしまった。
ティリーは観念したように振り返る。彼女がいつものように謝罪の言葉を言う前に口を開いた。
「すまん。俺はあまり精霊がみえないから教えてほしい……これは精霊の仕業だな?」
アーレンも肯定していたし、精霊で間違いは無いのだろう。問題はなぜ突然あんなに大量に現れたのか、である。
フィルラインが下手に考えるより高位の精霊使いのティリーの方が適任だ。
「はい。先ほど突然精霊がこちらへ集まっていったので。……あの。なにかありました?」
「王国ルロニアからきた魔術師が攫われた」
「えっ……?」
ティリーは大きな瞳をさらに大きくして驚く。だが、すぐに納得が言ったように頷いた。
「その方。魔力の質もいいのではありませんか?」
「おそらく」
同意すると、ティリーは嬉しそうに手を叩いた。
「でしたら、攫ったのではなくて、精霊たちはお気に入りの人間と遊んでいるだけです」
「そんなことがあるのか?」
「はい。お姉、身内もそうでしたし、キ、知り合いにも群がられてしまう人がいます」
(ティリーの周りにはそんなに凄い奴が居るのか)
……今は関係ない話だ。
脱線しかけた思考を首を振って元に戻す。攫われたのではなく、遊ばれている。だが、
「なぜ、急に?」
「確かに……。何故でしょう? 身内も知り合いもここに来てすぐに取り囲まれていまーーーー嘘っ、水臣!?」
ティリーは突然台詞を止めると、手を上げ細い指先で空をつかむような動作をした。
ぐっと濃厚な水の魔力の匂いが辺りに満ちる。
「あらあらまあまあ、お姫様ですの~!?」
「水臣、どうしてあなたがここにいるの!?」
現れたのは、魔術に疎いフィルラインでも苦しいと感じるほどの莫大な魔力を持つ、一体の美しい精霊だった。
途端、恐ろしいほどの圧迫感がのしかかる。あまりにも濃い水の魔力に、肺が圧迫され呼吸が乱れる。膝を折らぬように耐えるのがやっとだった。
「……っ」
「み、水臣っ、魔力抑えて! フィルライン様が苦しんでるわ」
「あらあらまあまあ、申し訳ないのですわぁ」
ふっ、と空気が和らぐ。苦しさから解放され、初めて目の前の精霊をまじまじと見ることが出来た。
この、圧倒的な存在感に心当たりは一つしかない。
「水の、精霊王……」
「うふふ、そうですわね。人間にはそう呼ばれていますの」
透き通る水色の髪に人間離れした美貌の精霊王はにこりと妖艶に微笑んだ。音もなく、一息で近づく。
「あらぁ? あなた、ターラのお坊ちゃんですのね」
ターラとはフィルラインと契約を交わす上位の火精霊の名だ。放浪するのが好きで契約を交わしていてもあまり姿を見せることはない。その性質から精霊の知り合いは多いと聞いていたが、まさか対極の水の精霊王にも知られているとは。
膝を折り、頭を垂れ最上級の礼を示した。精霊を重んじるこのロードニスにおいて精霊王は国王同等。敬うべき存在だ。
「はい。お初お目にかかります。フィルライン・ロールデンと申します」
「うふふ。実は私が貴方に会うのは初めてではないのですわよ。ああ、でも姿を隠していたから会話するのは初めてかしらぁ。大きくなりましたわねぇ」
まるで、叔母のような親しさで話す精霊王に戸惑う。
水の精霊王は他の精霊王の中でも最も人間に近い存在である。ほとんどの精霊王が姿さえ現さないことも珍しくない中、水の精霊王だけは約十年間隔で祭りなどに参加し、多くの人々に姿を見せてきた。珍しいことだが、過去に何度も人間と契約も結んでいる。
そう聞いていたが、対面すると改めて実感する。
「そういえば、ロードニス国王も代替わりしていましたものねぇ。今度挨拶に行きますわ。国王としての威信もありますし、式典に来た方がいいのかしらぁ?」
「申し訳ございません。私には判断する権限がなく、現状ではお答え出来かねます。早急に判断できる者を呼んで参りますので、お待ち頂けると幸いなのですが……」
「あらまあ、気にしないで下さいましな。時間をかけて構いませんわぁ。人間の時間くらいならいつでも付き合えますもの。決まりましたらその辺の水精霊に伝えておいて下さいまし」
「はい。お気遣い感謝いたします」
楽しみにしておりますわ、と精霊王は香り立つような笑みを浮かべる。水精霊は人間と契約を交わしている者もいないものもすべて配下。必ず耳に届くのだという。
「うふふふ。お姫様の元にもまた伺いますわね」
「うん。そういえば水臣に会ってない子もいるから紹介するね」
「……先ほどから、呼ばれている水臣、とは精霊王様のご尊名でしょうか」
問うと、一人と一体は同時に瞬きを落とした。
余程、見当違いの質問であったのだろうか。
「ううーん、そうですわねぇ。私の名前ではありませんの。けれど、精霊王と呼ばれるよりは近しいですのよ。フィルラインも水臣と呼んで構いませんわぁ」
「ありがとうございます」
説明はよく分からなかったが、親しい呼び方を許可されたことに頭を下げようとすると「堅苦しいのはいらないのですわ」と断られる。精霊王はフィルラインにとっては神話の中の存在だ。敬うべき存在から敬語もやめるように言われて、返答に困っているとティリーがパンッと手を叩いた。
「そうだ、水臣。ルロニアの魔術師様が精霊たちに連れて行かれてしまったの。返してもらえない?」
「あらあらまあまあ。そうでした。忘れていましたのぉ。私、あの子が来たから会いに行こうとしていたのだわ。向かっていましたのに私に気がついて気配を消すんですもの。一瞬見失ってしまいましたわあ」
彼女が意図したのかは分からないが有難い助け船だ。
魔術以外には頓着しないパシェならともかく上下関係の厳しい騎士団で育ったフィルラインは格上の存在に軽い口をきくことに抵抗がある。相手が精霊王なら尚更だ。ほっと息を吐く。
「もう、水臣まで。困らせちゃ駄目でしょう?」
「うふふ、これって本能的なものだから止められないんですの。私の配下だけであればどうにか出来るんですけれどねぇ。力になれなくて申し訳ないですわ」
「ううん、水精霊だけでも戻ってきてくれたら充分だよ。お願いできる? 精霊がいないと王宮内の仕事が滞って大変なの」
ロードニスは精霊を主とした国である。王宮の動力にも精霊の力が使われている。もっとも精霊は気まぐれのため、精霊がなくとも問題がないように魔道具も整備はされているがそれも永続的ではない。消費せずに済むのなら一番だ。
「分かりましたわぁ。ではまた後日」
精霊王は、来たときの同じようにふっと消える。濃厚な水の匂いだけが辺りに香った。
「あの、フィルライン様……?」
「ああ」
その魔力に意識を向けているとティリーから控えめに声がかかった。ふっと意識を戻す。
「申し訳ありませんでした! いきなり精霊王が現れて驚かれました、よね」
「そうだな。驚いた」
「説明が必要かと思うのですが……色々と複雑な話になりますし、今はこの状況の対処が先かと。ですので、今度のお茶会の時にお話させていただいてもよろしいでしょうか……?」
「ああ」
フィルラインもそうしてもらえる方がありがたい。
まだ精霊王に会った衝撃が抜けない。神話でしかきかなかった存在を目にし、会話を交わしたのだ。
今説明されても飲み込める気がしなかった。
「ええと、フィルライン様がお話しされている間に私の精霊達にも声をかけておきました。闇以外は全属性中位以上おりますので、ひとまず本宮内は魔石を使わずに回すことが出来ます。いないのは本宮にいた子たちだけで、他の宮は精霊達はきちんと働いているようです」
「そうか。助かる」
「いえ、お力になれて良かったです」
その無邪気な笑みで、慣れないことに緊張していた心が解されるのを感じた。
忙しかった日々。普段はもっと持つのだが、頭を使う仕事が多く、ティリーの作る菓子は数日前に尽きてしまった。
ああ、早くあの味が食べたい。
「ティリー、次は」
「えっ、ロールデン様!?」
「あっ」
どこからか小さな呟きが聞こえてきた。
ティリーが慌てて後ろを振り返る。声の主身を隠したのかもういない。ティリーは視線をさまよわせた後、恐る恐るフィルラインを見上げた。
「あの……」
先程よりかなり小さな声だ。おそらく自分と話しているところを見られたくないのだろうと当たりを付ける。フィルライン自身、騎士団長で爵位持ちであるし、なんといっても国王であるハロルドの親友だ。そんなフィルラインと親しげに話しているところを見られたら良からぬ噂がたちかねない。鈍くともそれくらいは理解できた。
聞きたいことは他にもあった。だが、今は個人的な疑問よりも国を守る騎士団長として聞かなければならないことの方が重要だ。
『君の精霊だけでどれほど持つ?』
口だけ動かす。わかりやすくしているので読唇術というほどの高度な技ではないが、読みとるのにはある程度技術が必要だ。
こんな技術など、よほどのことがない限りは使う機会もなければ身に着ける必要もない。一介の女中である彼女に読み取ることを求めるのは酷というものだ。何度か繰り返す予定でいたが、予想に反し、ティリーはあっさりと読み取り、指を三本立てた。
『魔術師殿がいつ戻るかは分かるか』
技術がどれほどか少し気になり、今度はすばやく口を動かしてみる。やはり読み取れた様子のティリーは否定を示すように瞳を閉じて頭を下げた。
ティリーは確かに高度な読唇技術を持ち合わせている。
先程より不安が増したのを感じつつ、フィルラインは急ぎ足で王宮に向かった。




