二十三話 真珠の涙※
三人称フィルライン視点です。
不安が残るが二人が完全に闇に消えていったのを確認し、歩き出す。
まずはジグドの館からだろう。死角も多い上に、滅多なことがない限り人の出入りもない。侵入者がいるとしたら最も可能性が高い。
ジグドの館付近に付くと燭台を置いた。灯りは侵入者に居場所を教えるようなものだ。魔術はまだ有効なようで灯りがなくとも不思議とよく見える。
こんな便利な魔術をかけてくれた反面で、信用しきれない男だ。目的がまるで見えない。
魔力を感じた、というのが嘘と見たほうがいいだろう。
フィルラインがここにいるのでさえ彼の計算の内なのかもしれない。
(目的がハロルドを揺さぶってなにか情報を聞き出すことだとしたら……)
ハロルドの所に行った方がいいのではないか。
不安に駆られ、足を止める。今すぐにでも踵を返したい。
だが、
「巡回が先、だな……」
二人きりを選んだのはハロルドだ。
彼なら多少自分が危険になってもイレーネの安全を優先するだろう。アーレンも王国から正式に来ている以上下手な真似は出来ない。
ハロルド・ロードニス。この国ロードニスの君主。尊敬する友人にして主。ハロルドなら大丈夫だ。
フィルラインは彼の選択を信じる。
神経を尖らせ、ゆっくりと歩きだした。
木の葉が風で揺れるざわざわとした音がやけに響く。音源はジグドの館に来るとすぐに目に入る樹齢何百年にもなる大木だ。
昔はこの木の下でパシェとハロルドと一緒に昼寝をした時もあった。
大木の作る陰が心地よくて、転がって話をするつもりがみんなで寝入ってしまったのだ。そのあと探しにきた大人たちに叱られたのは、今となってはいい思い出だ。
パシェが怒られたくない一心で「この木には魔力があるんだ! だから寝ちゃったんだよ」と主張していたのをよく覚えている。ますます怒られていたが。
言い訳の仕方といい、あの頃からパシェは変わっていた。ハロルドはただ不服そうに押し黙っていたような気がする。フィルラインには説教の最中にも寝て、父親にこってり絞られた記憶がある。
懐かしい。
昔の事を思い出して笑みを刻む口元を抑える。今は警備の途中だ。気を緩めてはいけない。
しばらく見て回ったが、人のいた形跡はなかった。ここはただ、穏やかな大気で満ちている。
ふと甘い匂いが鼻を掠めた気がした。ここに来るときは焼き菓子の匂いで一杯だったから、錯覚したのだろう。
ハロルド達との思い出もあるが、最近ではティリーと過ごした印象が強い。食べた菓子の味を思い出して、感嘆のため息が出た。
この場所での思い出は幸せの詰まった穏やかな物ばかりだ。ここではみんなが笑っていて。
昔はよく訪れていたのに、いつから行かなくなっていたのだろう。
――――ここは、 の場所ね!
ずきりと頭が痛んだ。
あぁ、そうだ。彼女がいないのに三人だけでここに来るのは、ここで穏やかな時間を過ごしては、いけないと思っていたのだ。ここは彼女のお気に入りの場所だったのだから。
「……時間切れか」
急に辺りが暗くなった。どうやら、魔術の効果が切れたらしい。
慌てず近くに置いていた燭台を拾いあげ、重くなった足を叱咤して後宮への道に歩を進める。アーレンの言葉ははったりだろうという確信があったが、念のためだ。
辺りを探索しつつ、ハロルドへの報告を考える。
今日は疲れた。最後に昔の出来事を思い出したから余計だ。
……本当は毎日思い出して、懺悔しなければならないのだろう。たとえ本人に望まれなくとも、フィルラインはそうしなければならないような事をした。彼女が望まないということに甘えてしまっている。
そんな事を考えていたからだろうか。視界の端に映ったものに気が付くのが遅れた。
――――――人だ。
そう認識してから剣に手を伸ばす。侵入者がいたのか。緊張感が全身を駆け抜けた。
「そこでなにをしている。答えろ」
問いに答えない侵入者に痺れを切らして、光を当てる。
そこには僅かな光でもきらきらと輝く銀髪を持った小柄な少女の姿があった。
目が合うと緑眼にじわりと安堵が浮かぶ。
少女は糸が切れたように倒れこんだ。
※
ティーリア・ダウスの事は噂に疎いフィルラインでも流石に知っていた。
(王の隠し子……はおそらくないと思うが)
実は小国の姫であるとか。黒の騎士という守護者が付いているだとか。
彼女にまつわる噂は尽きない。真実だとしたら、この国の存続にも大きく関わる。だが、徹底的に調べでも彼女の情報はほとんど出てこなかった。
意図的に隠されているとしか言いようがないのだ。
隠す所は疑いようのないくらい完璧に隠しているから、わざと違和感を残し、彼女を「下手に手を出せない存在」にしたのだろう。
ダウス夫妻も整った顔立ちをしているが、それとは一線を画した美麗さ。形容しがたい銀髪の髪と翡翠色の瞳。それが彼の令嬢の特徴だ。
頭を床に打ち付けてはいけないと、とっさに受け止めた少女の顔には涙の跡があった。
時折聞こえるのはすやすやとは言い難い苦しそうな吐息だ。
ティーリアがフィルラインの服を握りしめているせいで、座り込んだまま立つことができない。手を開かせようとしたがあまりにも小さな手は、無理に動かせば折れてしまいそうで、出来なかった。
側室候補の令嬢と肌が触れ合う距離。いくらここが自由恋愛だろうとさすがに側近のフィルラインの立場でこれはまずいのではないかと思う。
……ハロルドは咎めることはないだろうが。そもそもイレーネではない限り気にしないはずだ。
だが報告の義務があるため、そう長居はしていられない。起こそうと声をかけようとしたとき、ティーリアの肩が大きく揺れた。
陶器のような白い頬に澄んだ涙が零れる。
「……ないで、……っ死なないで……」
「っ、寝言か」
涙と共にこぼれたのはこちらの胸も裂かれそうなくらい悲痛な声。必死に涙を止めようとするように唇はきつく噛み締められてていた。
握りしめられた手にもさらに力が籠る。顔を覗き込むと頬には真珠のような涙が零れていた。
自分に向けられた言葉ではないのは分かったが、婦女の扱いに慣れていないフィルラインは涙を流す少女に焦った。どうすれば止まるのか、このままでは妙に居心地が悪い。
「あー……」
少し迷ってから、弟にしていたようにぽんぽんと一定のリズムで軽く背中をたたく。
その選択は正解だったらしい。徐々に緩んでいく表情にこちらの頬も緩む。
(―――ん?)
歳にしてはやや幼い顔立ち。妙な既視感を感じた。最近、どこかで見たような気がする。いや、謁見の場で確かに見てはいるのだが……。
寝息はいつのまにかすうすうと穏やかなものに変わっていた。
謁見の場で話して感じたのは、彼女はそこらの令嬢よりよほどしっかりしていて、自分の立場をよく分かっている振る舞いをするということだ。貴族としてかなり好ましい。
袖を掴んでいた力が弱くなっていき、とうとう滑り落ちたが、体勢を立て直す気にはなれなかった。動けば起きてしまうかもしれない。苦し気に涙を流していた少女にようやく訪れた穏やかな眠りを邪魔したくはないと思ってしまった。
(いや、駄目だ。早くハロルドへ報告しなくては)
頭では分かっているのに、どうして実行出来ないのだろう。……あぁ、そうか。
少しあの子に似ているのだ。この令嬢も。……ティリーも。フィルラインのせいで、人形のようになってしまった彼女に。だとしたら今起こさずにこうして近くにいるのは贖罪のつもりなのか。
なんて甘いなのだ、と自虐する。
(俺がしたことはこんなことで許される訳ではない)
そう思ったのを最後にフィルラインは疲れもあり、温かい体温と穏やかな寝息に誘われるように目を閉じていた。
闇に響く鳥の声で目が覚めた。
瞬時に辺りの状況を把握し、頭を抱えた。まさか、この状況で寝るとは。
星の位置を見るに随分時間がたってしまっている。
(ハロルドは、もう寝ているだろうな。報告は明日か……)
諦めてとりあえずフィルラインは、むき出しの足に上着をかけてやろうと慎重に動いた。




