第十五話 友人*
最後のイレーネ視点です。
送りますという彼女の申し出断って一人で長い廊下を歩く。
一人でぼんやりとしていると自然とハロルドのあせった声を思い出す。
あの人は、何を考えているの?
一旦隅においていた事がぐるぐると頭の中を回る。重いため息が夜の闇に溶けた。
「イレーネ!」
「っ」
聞き覚えのありすぎる声に吐いた息をすぐ吸うことになった。ばっと声の方向を振り向く。―――予想通り、ハロルドだ。
考えるより早く足は動いていて背を向けて駆けだしていた。
入り組んだ後宮内を走ればいくらハロルドの足が速くても撒くことはそう難しくない。さっきもそうして外に出ることが出来たわ。大丈夫よ。
そう、思っていたのに。
「頼むから、待ってくれ……っ!」
足音はすぐに近くなって、私はあっさりと捕まった。
「いや、離して!」
大きな手で手首を取られる。力一杯引っ張ってもビクともしないくせに不思議と痛くない。……ああ、なんなの。
「イレーネ」
ずっと走っていたのか、ハロルドの息づかいは荒く、少し寒いくらいの温度なのに汗ばんでいた。
なんで、そんなに必死なのよ。待てと命令すればいいのに。どうして、懇願するように言うの?
黙る私にハロルドは苦しげに言った。
「すまない。もう追いかけない。だから、部屋に戻ってくれ。危ないから」
お父様を信じなかった国王陛下が罪人の娘を気遣うの?
出かけた言葉を飲み込む。
「……分かったわ」
答えると力の抜けた手から自分の手を引き抜いた。
ハロルドはついては来なかった。
けれど、見守るような視線をずっと感じていた。
※
ティーリア・ダウスの部屋の前で私は数度深呼吸をした。
落ち着かないわ。
彼女は私がイレーネ・ミラーだと、罪人の娘だと知ったらどんな反応をするのかしら。少なくとも最後に見せてくれたような笑顔ではないでしょう。
分かっていても憂鬱になってしまう。
大丈夫。
彼女が態度を変えたら、私も冷めるから。お父様は罪を犯してなんかいないと、怒りが沸くだろうから。傷つきはしないわ。
もう一度ゆっくりと息を吐いて、侍女にノックを頼む。
「ようこそいらっしゃいませ、ミラー様。大したおもてなしは出来ませんが、どうぞごゆっくり」
「……ご機嫌よう、ダウス様。こちらこそ、急にお伺いして申し訳ありませんわ」
彼女の微笑みはやはり、この前とは違った。冷たい光を宿した目だけでにこり、と笑う。
わかっていたけれど虚無感が胸に広がる。
適度にお互いの服を褒め合い、昨日と同じ、柔らかなソファーに腰掛けた。
紅茶の良い匂いと甘いお菓子の香りが広がる。
「罪人の娘」である私でも一応伯爵令嬢。彼女より位が高いので一応心の込めたおもてなし、という体をとっているのでしょうね。爵位が同じか上だと紅茶ぐらいしか出ないし。
手で指示してついてきた侍女を下がらせる。昨日の話は流石に聞かせられないもの。
形だけの笑みを浮かべる彼女に私も社交界用の笑みを返した。
本当に、嫌になるわ。早く終わらせましょう。
「ああ、そうです」
私が話題を切り出すより早く彼女が口を開いた。
「ミラー様が今日いらっしゃるのでしたら、ブローチをこちらでお預かりしておいた方が良かったですね。もう朝、ミラー様の侍女に渡してしまいました。夜番だった方なので明日になってしまいますね」
「……え?」
確かに、ブローチは落とした気がする。
けれど、そうじゃない。私が疑問の声をあげたのはそうではなくて。
「なぜ、私だと……? 昨日は名乗っていないのに」
声がかすれた。
私が彼女の元へ向かうという先触れを出したのは昼下がり。なのに、朝には私の名を知っていた?
じゃあ、もしかして、昨日の時点で私だと分かっていた? それなのに、助けて、優しい笑顔をくれたの?
―――もしかして、彼女なら。
「ミラー様は有名ですもの」
その言葉を聞いた瞬間。胸に広がった温かさが期待とともにいっそ冷え切るように落ち着く。
……何を期待していたの?
「あら、罪人の娘だと?」
所詮、そういう目で私は見られるの。
不快感を全面に表して眉を寄せた。
お父様は罪人なんかじゃないわ。なぜ、知りもしないくせに決めつけるの? まだくすぶっていた怒りが酸素を得たように燃え上がる。
「帰ります」
そのまま、私は立ち去ろうとした。
「違います」
それは酷く静かな、染み渡るような声だった。トン、と軽く胸をうつ。
たった一言。
なのに燃え上がった怒りが一気に沈静化する。
「少々お待ち下さい。……セリス。あれをお願い」
「はい」
窓が開いているため、涼やかな風が色素の薄いカーテンを揺らす。
侍女はすぐに戻ってきた。その手に一冊の本を持って。
「……あ」
藍色の表紙に銀の刺繍が施された見慣れた本。銀で彩られたその題名は―――「哀」。
私の、書いた本。
「私がミラー様を存じ上げていたのは、この本の作者さまだからです」
何度も読み返したのだろうという跡が、開き気味のページから見て取れた。
「私、『悲嘆の薔薇姫』を題材にした作品の中でこの話が一番好きなんです。他の話は殊更に悲劇を煽るけれど、『哀』は違って……『レディア・ファンレーチェ』の生き方をしっかりと書いていますから。書いた方はきっと真っ直ぐな方なのだろうなと、思っていました。ですから、」
彼女は本をおいて一歩、私に近寄った。
「ずっと、貴方にお会いしたかった」
……そんな、優しげな目で見られたのはいつぶりかしら。
父が捕まってから私の友人は居なくなった。仲が良かったはずの子に侮蔑の籠もった瞳で罪人の娘だと言われた。
そのときようやく気がついたわ。私は所詮「由緒正しきミラー伯爵家の令嬢」という価値しかなかったのだと。
悔しかった。あまりにも何も持たない自分のことが情けなくて仕方なかった。美人だと言われるこの顔も、お母様とお父様のおかげ。ダンスやマナーが優雅なのは家の力で雇った教師が有能なおかげ。
私自身は何も持っていなかった。
だから、何かを見つけたくて必死になったの。真っ先に思い浮かんだのは、大好きな本のことだった。なかでもよく読んだのは「悲嘆の薔薇姫」、大陸で最大の領土を有するルロニア王国で実際に起こったお話。
「悲嘆の薔薇姫」レディア・ファンレーチェの境遇は今の私とほんの少し似ていた。
レディア・ファンレーチェは魔力が多いせいで「化け物」だと距離をとられ、私は「罪人の娘」だと距離をとられた。
一人の兄以外の家族、使用人のほぼ全てが亡くなってしまったレディア・ファンレーチェ、そして父を失い、友人と婚約者、多くの使用人に見捨てられた私。
彼女の方が何倍も規模が大きい。似ているなんておこがましいかもしれない。けれど、少しだけレディアの気持ちが分かる気がした。
「悲嘆の薔薇姫」を題材にした本はいくつもあるけれど、あまり彼女の心情は書かれていなかった。……なら、書いてみようかしら。ふと、そう思った。
そうして書いた本、「哀」はよく売れた。それは私の実力ではなく、「伯爵家の令嬢」「罪人の娘」が書いた本だと冷やかしで買っていく人が多かったからだと理解している。
その頃には私は、本を書く過程でレディア・ファンレーチェの生き方にふれ、冷やかしだって利用してやろうと思えるほどには強かになっていた。
「罪人の娘」と言われることはいつまでたっても苦しかった。
いつだって思っていた。お父様は罪人なんかじゃない、と。
けれど。それだけじゃない。「私」をみてほしかった。罪人の娘ではない、私自身を。
彼女の澄んだ目に映るのは「私」なのかしら。
「私、は。……イレーネよ」
胸に溜まったドロドロしたものを吐き出すように、呟いた。
「はい」
自分でも何を言っているのか分からない。ただ彼女は優しく答えてくれた。
白い指が伸びてきて、頬に流れる涙を拭う。
「貴方はイレーネ・ミラー様です」
「……ええ」
「罪人の娘ではありません。伯爵家の令嬢でもありません。私にとって貴方は素敵な本を書かれるイレーネ様です」
―――彼女は、「私」を認めてくれる。
あふれ出した涙は止まらなくて、絨毯に染みていく。彼女は泣く私を安心させるようにずっと「イレーネ様です」と、繰り返してくれた。
※
「では、直接聞いてみたら良いと思います」
泣きながら、今まであったこともハロルドに対する疑問もすべて彼女、ティーリアに打ち明けた。そして、言われた台詞がこれだ。
「聞けないから、聞いているの」
「私が言うことは全て憶測になります。イレーネ様が混乱するだけですわ」
どさくさに紛れて彼女をティーリアと呼ぶ許可をもらった。ついでにイレーネと呼んでもらうのも。
「……それでも、貴方の意見が聞きたいの」
ティーリアはくすっと笑った。その笑みは柔らかい。
なんでも、彼女の一見冷たいように見えた笑みは魔道具によってのものらしく、外せば昨日と変わらない笑みだった。
「では、私の意見ですが。まず、初めから間違っているのではないかと思います」
「初めから?」
どういう事かしら?
「はい。ハロルド様がミラー伯爵を信じなかったという点から」
「それは事実よ。だから、お父様は捕まったんじゃない」
きっぱりと否定する。
「でも、噂というものが当てにならないのはイレーネ様はよく分かっているはずです。だって、ミラー伯爵も罪人としてではなく正しくは罪人の疑いで捕らえられたのでしょう? けれど、噂では罪人となっている」
「よく、知っているわね」
お父様が罪人ではなくあくまで疑い、として捕まったというはほぼ全ての人が知らない。
「ええ。後宮の令嬢の情報は、ある程度押さえておりますから」
流石、ティーリア・ダウスといった所かしら。
彼女は噂とは違ってふわふわとしているけれど、こういう発言などにやはりどこかに後ろ盾の影を感じる。
「噂は悪意があるものが流せば歪むものです。悪意がなくとも真実に程遠い場合もあります。ですから、誤った情報が流れてしまったのではないかと」
「でも、私は見たのよ。お父様の手に手錠がかけられるところを。誤解なんてしようがないじゃない」
がしゃん、と。私の人生を変えたあの音は今でも時々耳に残っている。
「そうですね……」
ティーリアは考え込むように俯いた。
「けれど、イレーネ様は確実に誤解なさっている事があります」
「何?」
「イレーネ様は、ハロルド様は臣下を見ていないのだと仰いましたね」
「ええ、そうよ。お父様を見ていたのなら、罪人という疑いすらかけなかったはずだもの」
ティーリアは綺麗な緑の瞳で真っ直ぐに私を見つめる。
「ハロルド様は、とても、ミラー伯爵と親しくなさっていましたよ」
「嘘よ……! なら、どうして、」
どうして、お父様を捕まえたりしたの? お父様はそれに絶望して自殺したのに。
「分かりません」
ティーリアはゆっくり首を振った。そして、私の手をそっと握る。そうされて初めて爪が皮膚を指すほど手を握りしめていたことに気がついた。
「ですから、聞いてみて下さい。ハロルド様にしか、分からないことです。勝手な考えで決めつけられて傷ついた貴方は、どうかハロルド様を決めつけないで下さい」
柔らかい声が静かに心に染みた。
私は、頑なだったのかもしれないわ。
ストンとその考えが浮かぶ。
だって、憎む相手がほしかった。お父様が急に亡くなって。安心して寄りかかれる大きな柱がなくなってしまった。一人で立たなくてはいけなくなった。
ハロルドの傷ついたように開いた瞳と真剣な声、苦しげな顔が脳裏に浮かぶ。
ティーリアの言うとおりなのでしょうね。ハロルドは、きっと悪くない。
きっかけはいくらでもあったわ。でも、認めてしまえば崩れてしまいそうで怖かった。
後宮に来たのはハロルドを詰るためだけではない。最初はティーリアの言うようにこの目で見て確かめようと思っていたはずなのに。いつのまにか、目的がすり替わっていた。
きっと、憎しみを支えにしてきたから、それを失って立てなくなるのが怖かったんだわ。無意識に、楽な方を選んでしまっていた。
でも、それじゃ駄目ね。
「……分かったわ。ハロルドに聞く」
「はい。イレーネ様が聞けばハロルド様はきっと答えて下さいますよ」
ティーリアは日溜まりのように温かい笑顔を浮かべた。
そう。私にはもう寄りかかるだけじゃない、一人で立つのを支えてくれる友人が出来た。だから、もう憎まなくても立っていける。
真実を、見極めましょう。
お父様の名誉の為にも。
ねぇ、お父様。私は頑張るわ。だから、見ていてね。