第十一話 美女
ぱたりと読みかけの本を閉じた。
読んでいた本の作者名を指でなぞる。
イレーネ・ミラー。
彼女はレディアを題材としたこの本、「哀」の作者であり、この後宮の主ハロルドの想い人だ。
ハロルドはこの女性を王妃にするためにこの後宮を設置した。
建国当初からある由緒正しき伯爵家の令嬢である彼女は身分の問題はない。しかし、彼女は父親が冤罪を掛けられてからその判断を下した王族を嫌い、会うことすら拒絶しているのだ。これでは、王妃への打診など出来はしない。
そこで後宮を開きむりやり王妃の候補にしてしまおうというわけだ。そうすれば否が応でも会う機会が増える。
ティーリアとてこの国出身ではないにせよハロルドに国の将来のために頑張ってほしいとは思う気持ちは確かにある。迷惑なのは大規模な後宮を開くため本来は入るはずのないティーリアまでその対象になってしまったことだ。
ティーリアはあと少し経てば、正式にファンレーチェ公爵家のティーリア・ファンレーチェとして公表されるはずだった。だが、それは後宮入宮を促す書状により延びてしまった。
ティーリアは可能な限りロードニスではなくルロニア王国で過ごしたい。
退魔の結界の張られたルロニア王国では精霊にあうことは難しくなるが、ルロニア王国で公爵家復興のためひとりで頑張っている長兄の側にいて支えたいのだ。
今、唯一触れあえる肉親なのだから。
※
「どこだろう……」
『確かこのあたりですよね』
精霊と頷きあって後宮の庭を見回した。
窓辺でキシから貰った魔道具の手入れをしているとき、一つ魔道具を落としてしまった。雷の魔術が編み込まれたものなので、早く探さないと間違ってさわってしまった誰かが怪我をしてしまうかもしれない。それで急いでこんな時間でも後宮を歩き回れる女中「ティリー」の格好に着替えてやってきた。
満月の今日。月明かりは普段より強く明るいが、それでもやはり暗い。
他の苦手なものなら我慢はきくがこの暗闇だけはどうしても無理だ。早く見つけて明るい部屋に戻りたい。近くの精霊達に声をかけて探すのを手伝って貰う。
『あたよー』
下位精霊の舌足らずな声に振り向く。小さな手には少女の姿がかかれた青いブローチが乗っていた。
「良かった。ありがとう」
確かに落とした物だ。ほっと息をはいた。
これさえ見つかれば用はない、踵を返したとき草を踏みしめる足音が聞こえ、慌てて木の陰に隠れた。
普段なら、精霊たちが真っ先に気がついて知らせてくれるのだが、今はブローチを探してもらっていたのでそこまで気が回らなかったのだろう。
足音の主は近くの茂みに身を隠すように座り込んだ。ここからでは顔は見えない。だがドレスの端が見えた。どうやらティーリアと同じ後宮の令嬢のようだ。
「……っ」
(……泣いてる)
つい木の陰から出て声をかけてしまった。
「大丈夫ですか……?」
令嬢は弾かれたように顔をあげた。人がいるなんて思っていなかったのだろう。驚きが顔に現れていた。それにしても、
(……綺麗な人)
顔をあげた令嬢は美女という言葉がぴたりと当てはまる美しい人だった。
月の光を集めたように輝く金髪。海を連想させる青い瞳。泣いたからか、やや赤みのある頬は美女のもつ色気を助長させている。
美人は精霊達で見慣れているが、それでもやはり美しいと感じる。
「あなた誰?」
「私は、」
『姫様ー! 人がきますわぁ』
答える前にユエがふわりと降りてきた。
「え、また人が来るの?」
「やっ」
呟いた声に美女が小さな悲鳴を上げた。細い肩が怯えるように細かく震える。
それでも、彼女は瞳だけは強い光を灯し、逃げようとするように立ち上がった。
「あの、こっちです!」
気がついたら美女の手をつかんでいた。
なぜだか分からない。けれどこの人を助けなくてはいけない気がした。
※
足音に追われるように美女の手を引き、風精霊達に手を貸してもらいながらなんとか部屋までたどり着いた。
扉を閉め、息も整わないうちに、追跡者の足音が響く。
「……危なかった」
「危機一髪ですね」
妖艶な美貌の彼女が吐く息はまるで色がついているようだ。動作のひとつひとつが様になる。
足音が遠のくと美女は扉から視線を外し、ティーリアをみた。
「助かったわ、貴方のおかげね。ありがとう」
ふわりと微笑む。その表情はドキリとしてしまうほど優しい。
「私は、なにも」
「しっ」
再び響いた足音に言い掛けた言葉を切った。足音に紛れてシャラシャラと音を立てる貴金属から、追っ手が騎士ではなく貴族だと分かる。
「くそっ……このあたりのはずなんだが」
追跡者の声はやけに聞き覚えがあった。記憶を探ろうとする前に美女が小さく呟く。
「ハロ、ルド……」
「え」
声が漏れそうになり慌てて口に手を当てて押さえる。
(陛下……?)
美女が呟いたのはこの後宮の主、ロードニス国王ハロルドの名だった。
美女は顔を強ばらせながら、扉から視線を外さない。美しく青い瞳。走ったせいで乱れてはいるがさらりと流れる金髪。
―――ああ。この人が。
国王ハロルドの想い人。イレーネ・ミラーなのか。
足音が聞こえなくなってからようやく美女、イレーネはティーリアの視線に気がついたのか気まずげに俯いた。
「ごめんなさい。驚いたでしょう。その、国王に追いかけられているなんて……。安心して頂戴。貴方には迷惑はかけないわ。もう、行くわね」
握りしめられたイレーネの手は白い。どんな事情があるのかは分からないがそれほど緊張していたのだろう。それほど、ハロルドから逃げたかったのだろう。
なのに、ティーリアの事を考えて出て行こうとしている。
その強い優しさはまるで―――、
扉に手をかけたイレーネの手をとっさにつかんでいた。
「よろしければお茶飲んでいかれませんか?」
「……え」
蒼い瞳が瞬く。
―――姉、レディアのよう。
(そっか)
さっき手を引いたのも、今引き留めているのもイレーネがどこかレディアに似ているからなのだ。
ティーリアはにこりと微笑んだ。




