悪目との出会い
薄暗い地下牢は、天使の聖域とは思えないほど冷え切っていた。
湿った石壁からは冷気が滲み出し、灯された松明の光さえも弱々しく揺れている。
鉄格子の向こう。
鎖に繋がれた悪魔が、壁にもたれるようにして座っていた。
少年は剣を握ったまま、しばらく動けずにいた。
ここに来るまで、何度も自分に言い聞かせたはずだった。
ーー情を抱くな。
ーー相手は悪魔だ。
それでも、喉を通った声は思いのほか低く、静かだった。
「…どうして、抵抗しなかったんだ。」
悪魔は顔を上げない。
鎖に縛られた身体は痩せ細り、衣服は裂け、肌には無数の傷跡が残っている。
まともな扱いを受けていないことは、一目で分かった。
「抵抗しても…結果は同じだった。」
掠れた声が、地下牢に落ちる。
「僕たちは負ける。いつも、そう。」
少年は眉をひそめる。
「…なら、なぜ戦う。悪魔は争いを好むのではないのか。」
悪魔は小さく笑った。
それは嘲笑ではなく、長い戦いに疲れ切った者の、乾いた笑みだった。
「あなたは、なぜ剣を振るうの?」
思いがけない問いに、少年は一瞬、言葉を失う。
「…正義のためだ。天界を守るためにーー」
「誰から?」
短い問いだった。
だが、その一言が、胸の奥に深く突き刺さる。
少年は、答えを知っているはずだった。
教えられてきた。
信じてきた。
だが、目の前の悪魔は、今にも消えてしまいそうなほど弱っている。
「…悪魔からだ。」
「僕は今、この鎖で繋がれている。」
悪魔はゆっくりと腕を動かし、鎖を鳴らした。
金属音が、妙に大きく響く。
「それでも、まだ僕は“脅威”?」
沈黙が落ちた。
言葉が、見つからなかった。
少年の胸の奥で、何かがきしむような音を立てる。
今まで積み上げてきたものに、見えない亀裂が走る。
そのとき、悪魔が初めて、はっきりと少年を見た。
赤い瞳。
炎のように揺れながらも、どこか澄んだ光を宿している。
宝石のように美しく。そして、あまりにも哀しかった。
少年は、思わず息を呑んだ。
「僕たちも…生きたいだけだ。」
剣を握る手が、わずかに震える。
それは、教えられてきたどの“悪魔”とも違っていた。
「…それは、正義じゃない。」
絞り出すように、少年は言った。
自分に言い聞かせるようでもあった。
「そうかもね。」
悪魔は、ゆっくりと目を閉じる。
「だけど、僕たちが生きていること自体が“罪”ならーーこの世界は、最初から間違っている。」
その言葉は、静かで、逃げ場がなかった。
少年は、何も言えなかった。
反論も、剣も、祈りさえも、意味を失った気がした。
地下牢の冷たい空気の中で、少年が信じてきた正義に、確かに、ひびが入った。
そしてそのひびは、もう元には戻らない予感だけを、残していた。




