くも
柏餅の作り方は、案外簡単。
柏の葉さえ用意できれば、そんなに手間もかからず作ることができる。
ただ、今回は味噌あんを用意したから昨夜は仕込みに時間がかかった。
味噌あんを作るときに大事なのは上質な白味噌を使うこと。それだけで、風味や舌触りがだいぶ違う。白こしあん、白味噌、砂糖だけなのに、まろやかでクセになる甘さと上品な口当たりだ。
私は、柏餅に関しては味噌あんの方が好み。上新粉のもちっとした白い生地には、白あんを引き立てる味噌の風味が絶妙でぴったりだと思う。
真空パックに入っていた柏の葉を取り出して、丁寧に水洗いしたら五枚ずつに分ける。半分は熱湯で鮮やかな緑からくすんだ茶色に変色するまでぐらぐらと茹で、色が変わった所で水にさらし、その後ふきんで丁寧に拭いておく。これは味噌あんを包むための葉だ。
粉をこねる分の湯を沸かしている間に、こしあんと味噌あんを丁寧に丸めてパッドに並べていく。
分量の上新粉を計り、ボウルに入れたら沸いた熱湯を注ぐ。ここでしっかり水分と粉を混ぜ合わせないと、蒸したときちゃんと火が通らない。やけどに気をつけないと。
無心に生地を練っていると、柱時計が五回鳴った。白妙はまだ夢の中だろうな。
実は昨日――金曜の夕方にクサビラが突然現れ、「明日の朝、木の子の一人が伺いますので。準備をよろしくお願いします」と伝えてきた。
一応柏餅を作る準備はしてあったので、私は了承したんだけれど。
程なくして、清彦がいつも通り帰宅途中に顔を出した。不安そうな様子が顔に出ていたんだろう。清彦はすぐ何かを察知して「やっぱりだろ」――先回りしてそう言った。
どうしたって清彦には色々と見抜かれてしまう。それは小さな頃からの付き合いだからかなのか、私が単純で隠し事ができないからなのか、それとも何か別の理由があるのか分からないけれど。
ともかく、清彦の言うとおり“タイミングよく来た”クサビラの話を聞いて、本人は気合十分のようだった。「俺、支度してくるわ! 夜メールする」そう言って、何も買わずに帰っていった。
その夜、清彦からメッセージがあった。
“明日、とりあえず七時にはそっち行くからな。あ! 弁当はいなり寿司でよろしく!“
まるで遠足に行くみたいな雰囲気の清彦のカラリとした笑顔が文面を通して伝わってきて、張り詰めていた緊張の糸が解れていく。
その後も何度か清彦とメールをしつつ、時間と必要な荷物の打ち合わせをしてから、私は柏餅の準備に取り掛かった。
白妙を連れていくかどうか悩んだけれど、とりあえず留守番していてもらうことにした。クサビラが言うには、この地域に起こること全てを知っている……それがメグリガミなんだという。
何があるか分からないし、父に話をして今日は清彦と二人で行くことにした。白妙と離れ離れになるのが寂しい。父と一緒だから何の問題もないけれど、やっぱり留守番させるのはどこか不安だった。
「生地はこれでよし、と」
一口大にちぎった生地を、蒸し器で蒸すこと十五分。蒸し終えた生地を熱いうちによくこねていくと、透明感と艶のある見た目にも美しい白い生地へと変わっていく。弾力が出てきたら完成だ。
出来上がった生地を十個分に分けて、丸めておいたあんを包んでいく。あんこを包んだ状態で、さらに蒸すと出来上がりが柔らかくなる。この一手間をかけるかかけないかで、仕上がりがだいぶ変わると思う。
――さぁ、蒸しあがった。
冷めた柏餅に、柏の葉を裏表にして巻く。
よし、出来がり!
私はお重に柏餅を綺麗に並べ風呂敷に包むと、慌ただしく出かける準備を始めた。
***
「いってらっしゃい」と言って手を振る白妙の、どこか寂しそうな顔が脳裏に浮かぶ。
七時過ぎに清彦がお店に到着してから数分後、一人の木の子がやってきた。その木の子に連れられ、私と清彦は街の外れにある「ごぶくろ池」に来ていた。
昔のままの森林を生かしたごぶくろ池公園の中にある清らかなこの池は、はるか昔は放牧馬の飲み水や潅漑用水として使われていたらしい。その後も大切に守られてきた自然の湧水地で、地元の子供や地域住民の憩いの場所でもある。
小学校の地域探検で訪れたことはあったけれど、大人になってから来るのは初めてだ。
「なんか懐かしいなぁ」
山歩きスタイルの清彦が、リュックから水筒を取り出しつつ辺りを見渡す。
「涼しいね。清彦の言った通り、羽織るもの持ってきて正解だった」
私もまたリュックから薄手のパーカーを取り出して羽織る。四月の晴天の今日は暑いくらいの陽気だったけれど、公園に入ったとたん肌寒さを感じた。
湧き水の影響なのか、辺りは気温が低く湿った空気が漂っている。鬱蒼とした木々が空を隠し、木の下に木漏れ日は落ちてはいたが涼やかだった。
「こちらです。こちら!」
小さな木の子が、池の周りをトトトっと小走りに移動して、奥へと向かう。私たちは顔を見合わせて木の子に着いていった。
木の子は、池の奥まった場所で足を止める。
「ここ?」
清彦が眉をひそめた。なぜなら、その先は所狭しと竹の生えた竹林で、とても足を踏み入れられそうにもなかったからだ。
「どういうこと?」
木の子の傍で、私も首を傾ける。すると、木の子は「道具を使うのです」と言って小さな紅葉のような手のひらを開いた。その白くふくふくとした手の上には、金色の鈴がのっている。
「鈴?」
私の言葉に頷くと、木の子はその鈴を竹林の中に突然放り投げた。
――チリン……
どこか寂しげな澄んだ音を響かせ、鈴は密接して生えている竹林の中に消えていく。しばらく辺りは沈黙に包まれ、鳥の鳴くチチ、という音と風に木の葉が揺れる音しかしなかった。
「なんだ? 何にも起きないぜ」
清彦が頭の後ろで両手を当てて、呆れ声を上げる。しかし木の子は鋭く「お静かに!」と声を尖らせた。
――シャラン………
鈴の音が集まったような音が響いた後すぐに、竹林が左右に広がって――確かにそう見えた――唐突に道が開けた。あまりにも予想を超えた出来事に、私たちは言葉と顔の色を失い、固まってしまう。
――シャラン……
しかし、その音はあまりにも鮮明に竹林の奥から断続的に鳴り響いてきて、これが現実なのだと知らされた。
「行きましょう。メグリガミ様がお待ちです」
木の子が転がるように竹林の奥へと分け入っていく。躊躇ないその姿に励まされるように、私たちも一呼吸遅れて歩き始めた。
道はかなり狭かったから、先頭を木の子が歩き、その後ろに私、最後尾に清彦という並びで進んでいく。よく京都のCMで綺麗な竹林を見るけれど、ここはその雰囲気とはまるで違っていた。ピリピリとした緊張感と、張り詰めた空気はなぜか背筋をぞわりとさせる。
特に手入れなされていない竹林は、密集していて陽の光をあまり通さないから、池周辺よりもさらに一段暗く涼しかった。恐ろしさからくる寒気なのか、ただ寒いだけなのか。いや、両方なんだと思って自分で自分を抱きしめていると、背後から呑気な声がかかる。
「おーい、大丈夫か? 気分でも悪いのか?」
「リュックが重いだけだよ。大丈夫」
清彦に笑ってみせるけど、不安なのはばればれだと思う。
「昔みたいに手、繋いでやろうか?」
後ろから手が差し伸べられる。これ、絶対からかってるなと思って振り返れば、案の定清彦はニヤニヤと笑っていた。
「大丈夫だって」
「お化け屋敷とか肝試し、苦手なんだなぁ。相変わらず!」
含みのある言い方に、さすがに口を尖らせた私だったけれど、言い返そうとしたその時、竹の根っこに足を取られてつんのめってしまう。
「きゃっ!」
小さく悲鳴を上げた私に、後ろから清彦が手を引いたのと、木の子が振り返って青ざめた表情をしたのは同時だった。
「ダメです! 転んでは!!」
前方を行く木の子が口に手を当てそんなことを言うけれど、そんなこと言われてもこの体勢じゃ無理だよ……! 私は重いリュックのせいでうまくバランスを取ることができず、派手に転んでしまう。
そして。
パリン!
何かが割れる音がした。背筋が凍るような音だった。
はっと顔を上げた時、辺りの気配は一転していた。いつの間に夜になったんだろうと思うくらい、私のいる場所は真っ暗だった。
そしてそこは、何の音もしない場所だった。
「や、やだ……」
あまりにも恐ろしくて声を上げたけれど、私の声はただ闇に吸い込まれるだけ。
「清彦……、いないの?」
確かにさっきまでいた竹林の道なのに、暗すぎるしまるで何の気配もない。そこには清彦の姿も木の子の姿もなかった。
「き、きよひこ……!」
精一杯の声で名前を叫んだつもりだったけれど、恐怖に負けた私の声は、かき消えてしまいそうな程掠れていた。
「誰か……」
そう言えば、背負っていたはずのリュックもない。風の流れも、匂いもなく、音もしない空間に、頭がおかしくなってしまいそうだった。
このまま、この無の世界に閉じ込められてしまったらどうしよう。
そんなのは、絶対嫌だ。私は父の顔を思い浮かべ、目をぎゅっと閉じる。そうよ、私はあの父さんの娘なんだから。大丈夫。絶対帰れる。
そう心を奮い立たせて、私はゆっくりと立ち上がった。
どこか、帰れる場所を探さなきゃ。この変な空間の切れ目がどこかにあるはず。あって欲しいと、希望を持って暗がりの中を私は闇雲に歩き始めた。
そうやってどれだけ歩いただろう。
歩いても歩いても、闇の切れ目なんてなかった。そして私はもう、自分がどこを歩いてどれだけの時間を過ごしているのかさえ分からなくなっていた。
ここは、疲労さえもなかったから。
――嫌よ。このままみんなの所に帰れないままなんて、絶対嫌!
私はお腹にグッと力を込めた。
「父さん! 香島先生! 清彦! クサビラ! 木の子! ……白妙ー!!」
思いを込めて、私は大切な人たちの名前を叫んだ。一度目は弱々しかったけれど、二回目はもう少し大きな声が出た。
「白妙! 清彦! 私はここだよ!!」
本能的に、私はそう叫んでいた。暗闇が怖かった。何より、視覚以外の全ての感覚が鈍いことが恐ろしかった。
「帰りたい! 帰りたいよ!」
私の必死な叫びが、辺りにこだまする。
そして、
ピリっと、闇のベールの一端が破れる微かな音がした。