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そら

「おわっ! もうこんな時間! 俺行くわ!」


 あわただしく店を後にした清彦は、外に飛び出すと「雨やんだぜ!」と嬉しそうに傘を振り回した。まったくもう、子供みたい。この春で十八歳になるのに。


「本当だ。雨やんだみたい」


 開け放たれたままの引き戸を閉める前に外を見てみたら、灰色の曇り空の切れ目から明るい朝日が差し込んできていた。幾重にも重なる天使の梯子が、天候の回復を告げているようだ。通りにいくつもできた水溜りがきらきらと光っている。すこし湿り気を帯びた空気に、土と草の香りが混ざり合っていた。


 清彦の背中はあっという間に小さくなっていく。相変わらず足が速いんだから。子供のころからケイドロをやっても缶蹴りをやっても絶対勝てないんだ。


「これなら、お客さんもいつも通り来てくれるかな……。あ! 香島(こうじま)先生!」


 清彦の姿が見えなくなったころ、ふらっと突然現れたのはしわしわの白衣を引っ掛けたくたびれたおじさんだった。近所で香島診療所を営んでいて、物心ついたころから糸原家の主治医のような存在の香島先生。すぐにずれ落ちてしまう眼鏡をくいっとあげて、私に「やあ、おはよ」と軽く手を上げ挨拶をくれた。


「わざわざありがとうございます」

「うん。寛ちゃんが急げって言うから、慌てて支度をして駆けつけたよー。おかげで朝ごはん食べてない」


 そう言い終らないうちに、香島先生のお腹がぐぅ~っと鳴ったので、私は小さく笑った。


「うちで朝ごはん食べていってください。今から急いで作りますから」

「おっ。咲穂ちゃんの作る朝ごはんは嬉しいなぁ。……で、肝心の患者さんはどこなんだい?」

「あ、店の中にいます。どうぞ」

「じゃ、お邪魔して……」


 店内に戻ると、父が「よっ! 先生! 悪いな」とすかさず声をかけてくる。香島先生はうんうん、と頷いた後店内をぐるりと見渡し、白妙を見つけるとその傍に近づいて膝を折った。


「患者さんは君かな?」


 眼鏡の奥をきらりと光らせ、香島先生は神妙な顔つきになる。白妙はピクリとも動かず、固まっていた。


「うーん。珍しいね。そうかぁー。成る程」


 白妙の小さな体を上から下まで観察しつつ、香島先生は「失礼」と断りを入れてから白妙の脈を見る。


「ふむ。口の中を見せてくれる?」

「くちのなか?」

「そうだ。こうやってあーっと大きく開けて」


 がばっと大口を開けた香島先生の顔をおっかなびっくり見ていた白妙は、少しためらった後、ゆっくり口を開けていった。私の角度からは白妙の口の中は見えなかったけれど、香島先生の雰囲気がすっと変わったのを感じた。


「……。君は……そうか」

「……?」


 大きな口で先生の方を見ていた白妙の瞳が、不思議そうに揺れる。


「記憶が曖昧だと聞いたが、君は何か覚えていることはないのかな? 何でも良いんだ。見たことのある景色とか、言葉とか」

「……。わからない。でも覚えてる言葉、いくつかある」

「なんだい?」


 先生に促された白妙は、ゆっくりと深い紫色の瞳を伏せた。そして目を瞑ったまま、何か詩のようなものを囁き始める。


――あめ つち ほし そら やま かは 

  みね たに くも きり むろ こけ

  ひと いぬ うへ すえ ゆわ さる

  おふ せよ えのえを なれゐて。


 白妙の声は透明感があり、柔らかく穏やかだった。身近な日本語もいくつかあるその言葉の羅列は、こうして白妙が囁くように詠むだけで美しく流れる旋律のように聞こえる。


「四十八の仮名だね。これは平安時代の手習い歌かな。……やっぱりそうなのか。いや、でもな……」


 一人でブツブツ呟いて納得する香島先生に、私も父も白妙さえも困惑気味だ。


「どういうことだ? 香島先生」


 父の野太い声が、真っ直ぐ響き疑問を露にする。香島先生は一瞬逡巡していたけれど、何か心を決めたのかぐっと顔を上げた。


「この子は、人ではなさそうだ。それだけは確かに言えるね。口の中に生える人の歯とは明らかに異なった牙。脈が異常に遅いことや、体温の低さ。恐らくは間違いないだろう。妖か鬼か、はたまた神か、それ以外の何かなのか。それを断定することはまだ難しいけれどね」

「尋常ならざる者……?」


 父の言葉を借りてそう口にすると、白妙という存在の異質さが際立っていくようだった。なんの因果なのか、こうして玉から出てきた白妙を拾ってしまったからには、最後まで面倒を見てあげなければという変な使命感が湧き上がる。私もまた白妙の傍に膝をついて、その白い顔を見つめた。


――本当に、綺麗な子。何の汚れも混ざりものもない、真っ白な布のような白妙。


 己が何者で、何故ここにいるのかさえ分からない、無垢そのものの存在は、ひたすらにきょとんとして私たちを順に見比べている。例え人であってもそうでなくても、守ってあげなければと思うのは何故なのだろう。


「さほ?」

「うん、白妙。大丈夫よ。ちゃんと傍にいるから」

「さほといっしょ。うれしい」


 綺麗な瞳を縁取る細かな睫毛が震え、薄桃色の唇が弧を描く。その笑顔の美しさは、花を愛でるときのような純粋な喜びを私に与えてくれる。


「……すっかり咲穂ちゃんに懐いてるみたいだね」


 香島先生の穏やかな顔を見ていたら、ふと疑問が浮かんだ。香島先生はなんでこんなにも冷静でいられるのだろう。人ではない存在に対して、父もだけれど免疫があるように感じるのだ。けれど今、それを口にするタイミングではなさそう。だって……。


 ぐ~

 ぐぅ~~


 ほぼ同時に和音のような音程で鳴ったお腹の音に、私と父は顔を見合わせた。白妙と香島先生が同じような動作でお腹を押さえたので、音の出所はすぐに明らかになる。


「朝ごはん、用意してきますね。とりあえず今後のことも、お腹を満たしてから話しましょう」


 私の提案に、白妙は小首を傾げ、香島先生は何度も頷いて応えた。相当お腹が空いていそうな二人、プラスいつも人並み以上に食べる父親のことを考えると、今朝炊き上がるようにセットしておいたご飯が三合では足りなかったかもしれないな、と思う。


 そうだ、土鍋で追加でお米を炊こう。まずはフキノトウをふき味噌にして、お味噌汁は葱とお豆腐で……昨日漬けておいた糠漬けと納豆と……。あ、すり鉢どこにしまってあったっけ……?


 料理のあれこれを頭で考えつつ、私は台所へと向かった。

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