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ゐて

 宵闇が深まるにつれ、周囲の空気は次第に涼しくなっていく。白妙が降り立ったのは、春には蓮華の絨毯が広がる休耕地で、印波沼のほとりまで田畑は続いていた。

 視線を転じれば水辺から離れた場所に小高い丘があり、鬱蒼とした林の中に大木がそびえ立っているのが見えた。


「あれが、約束した大桜なの?」


 私が誰ともなく問いかけると、白妙がゆっくりと私に歩み寄り、「そうです」と短く答えた。

 隣に並ぶと、白妙の顔ははるか高い位置にあって、これまでの幼い白妙の面影はほとんどない。


「行きましょう。時間があまりない」

「時間がない? 何か起こるのか?」


 白妙の表情にはあまり色がなかったけれど、ほんの少しだけ焦りのようなものを感じ、私は問いかけた清彦と白妙を交互に見た。


「ええ、大龍はわたしが力を取り戻したことに気づいているはずです。そして佐保姫の魂があるとなれば、必ずここに現れる」

 空を見上げて白妙はそう宣言する。私と清彦は顔を見合わせ、同じように空を見上げた。

 白妙が龍寿寺で闇を退け、最後の欠片を取り戻したあとから空は星空が隅々まで見えるほど晴れ渡っていた。

 でも今、雲が空を覆い、先ほどまで輝いていた月の光を遮っている。雲は刻々と濃くなり、はるか彼方で小さな轟きが聞こえた。


 私は心臓がどきりと跳ねるのを感じる。


「どうなるの?」


 不安のあまりそう呟けば、白妙も清彦もわからない、と首を振る。


「大龍がこの地に戻ってくるのは、何千年ぶりか…。それほどまで長い年月、大龍はこの地から離れていたのです。でも大龍の力の一部を取り戻したわたしには分かる。大龍が今もなお怒り、苦しみ、悲しんでいることを」


 白妙は憂いを込めてそう言い、空から私に視線を移した。


「咲穂、あなたの中にいる佐保姫が、今こそ必要なのです」


 そう言われても、私は自分の中の佐保姫をどうして良いのかなんてまるで分からなかった。ふるふると首を振るしかない私に、白妙はすっと手を差し伸べてくる。


「行きましょう、共に」


 その白い手を見て不意に、龍角寺へ行く直前のことを思い出した。私が白妙に手を差し伸べたあの時、白妙は不安そうな顔をしていた。今はまるで反対だ。


「…わかった。白妙と一緒に行くよ」


 私は深呼吸してから白妙の手を取った。ぎゅっと握り返され、その手の大きさに驚く。あんなに小さくて弱々しかった白妙が、今ではとても逞しく私を導いていた。


 約束の大桜に向かい、私と白妙、そしてその後ろに清彦が続く。


 丘の上へ続く坂道を登り切ったころ、遠くで鳴っていた轟きが確実に近づいているのが分かった。暗雲が立ち込め、星空も月も完全に見えなくなり、周囲は途端に闇に覆われる。


 心許ない気持ちで歩みを進めていると、白妙は手を繋いだ反対の手で“光る球体”を生み出して、懐中電灯のように私たちの足元を照らした。


「もう、すぐそこです」


 白妙の言葉を聞き、辺りを見回してみると、暗闇の中、大きな木のシルエットが浮かぶのを見つけることができた。丘の上は大きな空き地になっていて、その中心にまだ葉をつけたばかりの大桜が静かに梢を揺らしていた。


「なーんか、嫌な感じがするんだよな。香島先生、間に合わないよな…」


 不安げな清彦の声が聞こえ、私もまた不安になってくる。


 私と白妙と清彦は、その大桜を前にひと時沈黙した。


ーーここは、私が最初に見た記憶の場所とよく似ている。大龍と佐保姫が共に過ごした場所。昼間なら確信を持てたのに。



 永遠に思えるようなその沈黙は、突然の閃光と雷鳴に破られることになる。



***



「ーー来た」


 低く言葉を発した後、白妙は身構えた。


 丘の上から見下ろすことのできる印波沼の上空に、激しい雲のとぐろが巻き、突然大きな雷鳴を落とす。稲光が沼に幾つも落ち、それはまるで流星が大量に降り注ぐような光景だった。


「…っ!! あれは!」


 最初にそれを見つけたのは清彦で、興奮と焦りの混じった複雑な声音で叫ぶ。


「龍だ。しかも、白妙の倍以上の大きさの!」


 激しい稲光で目がチカチカしてしまい、私は大龍の出現に気づくのが二人よりも遅かった。でも、光に目が慣れてくると、私もその姿を確かに目にした。


「あれが、大龍…?」


 それは、あまりにも巨大だった。印波沼全体を覆っていた雲のとぐろこそが龍であり、稲光とともにそれは姿を表す。

 白妙と同じ、発光する瑠璃色の鱗。印波沼がそのまま生き物になったかのような巨大な体躯。大きく鋭い龍の頭は、すでに私たちの存在に気づいているかのようにこちらを向いていた。



ーー小龍よ。お前がなぜ、引き裂かれたのか、その罪をよもや忘れたとは言わせぬぞーー



 声ではない、それは稲妻の音だった。恐ろしい怒りの音に重なるように、大龍の意識が伝わってくる。



ーー大龍よ。もちろん、わたしはわたしの罪を忘れてはいない。わたしはその罪を償うため、今ここに来たーー



 白妙は大龍に対峙し、そして、自らも再び龍へと転化した。

 立ち向かうように沼へと飛んでいく白妙を、私と清彦は祈るようにして見送る。今この時、私たちにできることは、祈り続けることだけだった。


ーー何故わからぬのだ。何故我がお前を切り捨て、切り裂いたのか。永き時をこの地で過ごしてなお、わからないというのかーー


 大龍の怒りが空を震わせる。身の震えるような恐ろしさと共に、得もしれぬ深い悲しみと絶望が伝わってくる。


ーーわたしはあなたの一部だった。はるか昔、あなたは“愛し慈しみ、信じる”という気持ちを捨て、この地を去った。わたしはそこから生まれ、あなたの代わりにこの地を守ってきたーー


 白妙は圧倒的な存在の前で、とてもちっぽけに見えた。でも、畏れも見せず、凛として大龍に語る姿は私の心の中では、とても大きく見える。


ーーこの地に生きる人間たちの心に触れ、分かったのです。なぜ佐保姫が人としての輪廻を選んだのか。その魂に寄り添うことで、わたしは知ったーー


 “佐保姫”の名を出したことで、大龍の怒りと苦しみが増幅していくのが分かる。


ーー…何を知ったと言うのだ…ーー


ーー人の命は儚くも短い。それは永遠を生きるわたしたちとは決定的に違うもの。しかし、短いからこそ、人は悲しみや苦しみ、絶望を感じてなお、必死に生き、命を輝かせるーー


 白妙はまっすぐに、大龍を見据えた。




ーーそれは希望なのですーーー




 白妙の言葉に、大龍は定まらない意識を燻ぶらせるように低く唸る。




ーー希望など…そんなものが何になる。私から佐保姫は去った、それがすべてなのだ。我の『時』はその時より止まり、この先も動くことはないーー




 頑なに白妙の言葉を受け入れようとせず、大龍は再び雷鳴を響かせた。印波沼の上空に分厚くて黒い雲が集まり、それは印波沼の大きさよりもさらに大きく膨らんでいく。


「やばいな」


 清彦が空を睨みながらポツリと言った。何がやばいのか、私には想像もできなかったけれど、これまで何度か闇にのまれる経験をしてきたこともあり、私ははっと息を呑む。


「闇がーーやってくるの?」

 私の呟きに、清彦は頷く。

「たぶん。闇というか天の怒りというか。しかもめちゃくちゃデカくて強いやつだ。俺や香島先生になんとかできる代物じゃない」


 常闇でもなく、魑魅魍魎でもない。それは大龍のーー天の怒りだと清彦は言う。


「どうしたらいいの」

「…どうするもこうするも……」


 頭をガリガリと激しくかいて、清彦は対峙する大小二頭の龍を見つめる。


「白妙には、何か考えがあるはずだ」


 そうこうしているうちに、大龍は天空に集まる大きな黒い渦のなかに身を置こうと、さらに上昇を始めた。白妙はそれを追いかけるように自分も上昇していく。


ーーお前を許すことなどない。お前はここで消え果てるのだ。今度こそ、跡形もなくーー



「ああ…」



 その言葉を聞いた瞬間、私はすべてを悟った。

 大龍が、本当に心から佐保姫を愛していたこと。佐保姫と同じ時を共に歩みたかったけれど、叶わなかったこと。あの時、私は大龍に殺されたわけでない。ーー自ら命を絶った。自ら諦めてしまった。それこそが、大龍を絶望させたのだと。


 どんなに佐保姫を思い慈しみ愛しても、互いに違う方向を向いてしまった。ーー誤解と齟齬(そご)

 そして、大龍は自分の中の心の一部を捨て去り、全てを拒絶したのだと。


 でも大龍の欠片は小龍となり、この場所で見守り続けた。大龍と小龍は“おなじもの”。大龍にとって諦められなかった希望こそが小龍であり、小龍が佐保姫の魂を探し、民と触れ合い、交流し続けたのもまた、大龍に他ならなかったのだ。


 そして、『私』は思い出した。

 遠い、あまりにも遠すぎる記憶の中で忘れ去っていたその名前を。




ーーかれのなは、あさひこ。




「朝彦」


 そう呟いた時、辺り一面が光に包まれた。



***



 私はその瞬間の出来事を、離れた場所で見ていたーーと思う。意識は朧げで、咲穂としての“自分”をどこか遠いところから見ているようだった。現に私は光に包まれる自分自身の体と、その隣で驚く清彦の姿を上空から見ていたから。


 朝彦、と言う名前は大龍の真名であり、佐保姫が呼んでいた大切な彼の名前だった。その名を呼んだ瞬間、全ての時が巡り、光り、輝くのが分かった。


 月よりもなお、明るい太陽がそこにあった。厳密には太陽ではなかったが、温かく柔らかな春の日差しが降り注ぎ、闇の黒を優しい色彩で彩っていく。


 色は咲穂の体の周辺から広がり、大桜は蕾を付けたかと思えば、みるみるうちに満開に。春の風が吹き渡り、草木が芽吹き田んぼに蓮華の花が咲き誇っていく。


 その優しい光と風が、空で睨み合う二頭の元へ舞い上がっていくと、やがて二頭はその光に包まれていった。



ーー佐保姫。



 大龍が戸惑いながらその名前を呼ぶ。気がつけば、咲穂ーー佐保姫は十二単を身にまとい、薄く輝く羽衣を揺らしながら、手を天へと伸ばしていた。


「お、おい、咲穂?」


 隣で清彦が青ざめながら、佐保姫の動きを凝視している。


(清彦、私はこっちだよ)


 虚空に漂う意識だけの私の声に、清彦は気づくはずもなかった。そこで、私ははっきりと気づいた。私の体の中の佐保姫が完全に覚醒したことに。そして、“私だった体”に今いるのが佐保姫であり、咲穂としての自我が消えかけている事実に。


(清彦、白妙…! ーー聞こえないの…?)


 必死に名前を呼ぶのに、私の声はすでに声ではなかった。実体がなく、ただの意識に過ぎない私は、次第に薄れ、何かに呑み込まれていくことに抵抗などできなかった。


(香島先生、父さん、みんな……、私はまだ消えたくない、消えたくないよ…)


 白妙と出会ってからのこと、それ以前の咲穂としての記憶。全部私にとってはかけがえの無い大切なもの。

 佐保姫や大龍にとっては取るに足らないものかもしれないけれど、私は、私は…、


「私は、咲穂!ーーー清彦!白妙!父さん!!」


 私は諦めずに、大声で叫んでいた。





「咲穂!!!」





 私の名前を呼ぶ声は誰のものだったのだろう。その力強い声が、私を包み込んでいく。



 私の意識は私自身の体に引き寄せられ、それと引き換えに、美しい十二単姿の春の神ーー佐保姫は、艶やかな長い黒髪を揺らし、空中へ舞い出た。

 佐保姫は、白く輝く羽衣の裾を掴んでいた私の手にそっと触れると優しく微笑み、ささやく。




「ーーありがとう、咲穂」




 昼間のように輝く春色の光の中、人の姿に転化した大龍ーー朝彦が、佐保姫の元へと降り立った。



「佐保姫…」

「朝彦、ようやく会えました」



 二人は見つめ合い、静かに抱きしめ合う。


 全てのわだかまりがその瞬間立ち消えて、やがて春の風と共に柔らかな催花雨(さいかう)が降り始めた。



 とても静かに雨は降り続き、その光の雨の中、二人の姿はゆっくりと消えていくのだった。

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