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なれ

 このまま雨が降らなければ、(さと)の者たちは飢えて生き長らえることはできないだろう。全ての土地は水と土壌の豊かさ、そして太陽がなくては成り立たない。そのどれか一つでも欠ければ、生き物は死に絶えてしまう。人も草木も動物も、全て。


「稲も野菜も、全て枯れてしまいました。近くにある大杉も色を失い、どの土地もひび割れています」


 乳母の杉慈の悲しい報告は、私を悲しませるよりも、駆り立てた。このところ痩せ細り、生気のない表情を浮かべる杉慈をはじめ、すでに病に倒れてしまった従者もいる。


「何とかしなくてはなりません。私は郷の者が以前教えてくれた龍神の祠へ行き、雨乞いをするつもりです」


 私の言葉に杉慈は眉を顰め、力無く首を振った。


「すでに幾人もの民や大師さまが雨乞いを行なったではありませんか。それでも雨が降らないのは、龍神様がお許しにならないからです」

「それでも、私はこの郷のために祈りたい」


 一度は私の病を癒してくれた、この大切な場所が枯れて朽ちていくのを、ただ見ていることなどできなかった。


「私は行くつもりです。杉慈」


 私の揺るがぬ決意を見て取り、杉慈は諦めたように微笑んだ。


「姫様は幼き頃より、強情なところがおありでしたね。ならば私も共に参りましょう」


 私と杉慈は、揃って沼地の近くにある龍神の祠へ赴くこととなった。それを見ていた狐の翠玉と、いつの間にか草庵で寝起きするようになった老師もまたこの道中に加わり、沼を見下ろす丘の上の郷から沼地のほとりへと向かうのだった。


 そうして辿り着いた龍神の祠には、すでに供物がいくつも供えられていて、何人もの民が祈りを捧げた跡があった。

 私もまた、手作りの菓子の包みを精麻で結び、その苔むした小さな祠に捧げる。


「姫様、祝詞(のりと)を」


 杉慈の掛け声と共に横笛の深い音色が響き、私は懐から白い布を取り出した。


――かけまくも かしこき そのおほみかみの ひろまへにまうさく――


 雨乞いの祝詞とともに、私は舞った。それは都で父である帝が好んでいた春の祭事での舞だった。

 扇はなかったから、都から持ってきた中で一番美しい絹の白布を扇代わりに、私は謳い踊る。


 しかし、空がほんの少しだけ雲に覆われただけで、どんなに祝詞を唱え続けても、舞い続けても、雨の一滴も落ちてくる様子はなかった。


「姫様、もう、これ以上は」


 どのくらいの時がたったのか分からないほど、私は無我夢中で舞い続けた。やがて杉慈が疲れ果てて笛の音が途切れても、私は諦めなかった。


「…あっ」


 気持ちは折れずとも、身体は限界に達していたようで、私は舞の途中、足をもつれさせてしまう。そのまま地面に手をついてしまい、舞は止まった。


 枯れた土を握りしめ、私は悔しくて悲しくて涙が零れ落ちるのを我慢できなかった。ぽたぽたと落ちる涙が雨ならどんなに良いか。龍神はそれ程までに怒っておられるのかと、私は草も生えない地面を弱々しく叩いた。


「この沼に残る水が、空から降ったらどんなに良いでしょう…」


 私が声を震わせるのと同時に、それまで私の舞を黙って見守っていた老師が、すっと前に進み出てくる。


「それが、あなたの真の願いか」


 これまでの腰の曲がった老爺ではなく、姿勢を正した姿で私を見据える老師の瞳は、知性と品を持ち合わせていた。それはまるで何百年もの時を見てきたかのような深い眼差しだった。


 私は真実、その願いを心から祈り頷く。


「あなたの中にいる佐保姫に誓おう。わたしは必ずや雨を降らすだろう」


 老師の体が次第に光に包まれ、その姿形が淡い残像のように霞んでいく。

 杉慈が畏れのあまり震えながら私の手を取り、「姫様…もしや、あの方は」と呟くのを聞きながら、私もまたその事実に気づき、杉慈にしがみついた。狐の翠玉もそばにやってきて、小さく唸る。


「降雨を大龍が止めている今、わたしが雨を降らせば大龍の怒りを被るだろう。その逆鱗に触れる時、わたしの体は三つに裂かれ、地上に落とされる。それは決められた定め」


 その声は大地に滲み入るようにあたりに響き渡り、祠の上に濃い霞が移動していく。その霞が次第に大きくなり、沼地へと広がっていくと、中から生まれ出た龍がゆっくりと天に昇っていくのが見えた。


 私たちは信じられない気持ちでその光景を目の当たりにしていた。龍の長い体が雲の中に吸い込まれ見えなくなると、遠くから雷鳴が轟くのが聞こえてくる。


 その雷鳴は次第に大きくなり、稲妻が空を割ったかと思ったその時、激しい閃光が走った。やがて空から三つの光が地上に向かって流れ落ちていく。まるで流れ落ちる星のように、その光が沼地の周囲に散っていくのを見ていた私の頬に、一滴の雨粒が落ちた。


「なんてこと…。雨が…」


 しとしとと降り始めた雨は、誰かの流す涙のようだった。その光景はあまりにも悲しく、切なく、私たちの胸を締め付けるのだった。



***



 夢の中の悲しみが、目覚めてもまだ続いているような気がした。恵みの雨がようやく降ったにも関わらず、犠牲はあまりに大きく、松虫姫の心が晴れることはなかった。命と引き換えにしてまで雨を降らせた過去の小龍は、どんな気持ちだったんだろう。

 

 すでに三度目ともなると、記憶からの覚醒に慣れつつあった。でも、なんだろう、強風にでも吹かれているかのような感覚に、私は緊張しながらもゆっくりと目を開ける。


「…っ!!!」


 私は声にならない声をあげた。まったく状況が理解できない。私は何かにまたがっていて、手で二本の細い竹のようなものを掴んでいた。それはとてもしなやかな感触で、ほのかに温もりも感じる。さらに背後から誰かに抱え込まれていて、私の手に大きな手が重なっていた。


「おい、大丈夫か、起きたか?」


 私の覚醒に気づいて声をかけてきたのは清彦で、後ろから私を覗き込むようにしてくる。首を巡らせ、清彦の姿を確認しようとした私を静止するように、「う、動くな!」と焦る声がした。


 そこでようやく私は自分がどこにいるのか理解した。瑠璃色の大きな鱗が輝く“生き物”の背中に、前後で私と清彦がまたがっていて、遥か高い空の上を“飛んで”いる。風を切るように早く、湿り気を含んだ雲の中にいて、雲の切れ間から眼下に広がるのは月明かりに照らされたーーおそらく印波沼だった。


「わ、わ、私たちどうなってるの?」

「シロだよ! 白妙! 龍に戻ったんだ!」


 風の音が強くて、私たちは大声で話さなくてはならない。こんなにも高度が高く、しかも雲の中にいるというのに普通に呼吸できているのは、この生き物ーー龍に転じた白妙を包み込む淡い結界のようなものが、私たちをも包んでいるからだと推測した。

 どれくらいそうしていたのか…、清彦は私が滑り落ちないように必死に後ろから支えてくれていたけれど、さすがに疲れているようだ。


「龍に戻ったのはともかく、なんで私たち飛んでるの!?」

「そんなの、シロに聞けよ!」


 そんな、無茶な…と思っていると、私の心を見透かしたかのように、龍の声が直接耳に響いてくる。


「咲穂、わたしはそこへ行かねばなりません。今こそ、大龍王の許しを得るために。そのためには佐保姫の魂を持つ、咲穂ーーあなたが必要なのです」


 白妙の声は、清流を流れる川の水の音のような静謐さがあり、聞いているととても落ち着くものだった。すでにそれは大人の男性のもので、気品と知性を持ち合わせた深い響きがある。


「どこへ向かっているの?」

「わたしと大龍がまだ一つだった頃に、佐保姫と過ごしたあの桜のもとへ」


 私は白妙が力を取り戻すたびに見た記憶の中でも、一番初めに見た場面を思い出していた。咲き乱れる桜の木のそばで、平和に過ごしていたあの春の記憶。


(そこで、何が起こるというの)


 私の不安を感じ取ったのか、白妙は首をゆっくりと巡らせると、その大きな菫色の瞳に私を映し出す。龍となった白妙の大きくて長い顔には、白妙の面影はひとつもなかったけれど、瞳の輝きだけは遠い昔から間違えようがないーーそう確かに思う。


「ともかく、早く着いてくれー! 俺は高いところが苦手なんだー」


 こんな時でさえ、変わらない清彦に安心する。そういえば小さい頃、公園のジャングルジムのてっぺんから降りられなくなったことがあったっけ。生身でこんなに高い場所にいるなんて、到底信じたくないに違いない。


「ちくしょー! シロが香島先生の運転で喜んでたのは、こういうことかよ!」


 やけくそで叫ぶ清彦が、何を言っているか一瞬分からなかったけれど、少し考えて、香島先生の運転と同じくらいーーいやそれ以上のスリリングさが、龍の背中にあると気づいた。

 白妙は遥か昔、こんな風に、この大空を自由に飛んでいたのかもしれなかった。


 当の白妙は素知らぬ顔で、目的地へとスピードを上げる。清彦は「ひいっ」と声をあげ、神に祈るように何かの呪文を呟いた。


 自分が鳥にでもならない限り、印波沼の全景を上空から見下ろすことなどできなかったから、こうやって白妙の背中から地上を見下ろす経験は貴重だ。

 奇しくも満月の夜。月の光に浮かび上がる印波沼は、まるで龍が天へと昇っていくような形をしていて、私はその時改めて、“龍が住まう”ことの意味を知った気がした。


「もうすぐ着きます。下降するので準備してください」


 白妙がそう知らせてくるので、私は白妙の額あたりから生えている触覚のようなものをしっかりと握り直す。ジェットコースターで落ちていくときのような、胃のあたりが持ち上がるような感覚を感じながら、私たちは白妙に必死にしがみつき、その下降に身を委ねた。


 やがて、白妙の体は地上に降り立つと、休耕地と思われる畑の一部で私たちを背中から降ろした。しばらく同じ姿勢で緊張していたこともあり、地面に足を置いた時には平衡感覚がなくなっていて、ふらついてしまう。


 そんな私を咄嗟に清彦が片腕で支えてくれた。自分も大変だったと思うのに、まずは私を気遣ってくれるその優しさが嬉しかった。


「大丈夫か?」

「うん、なんとか。あ、そういえば香島先生は?」


 龍寿寺での出来事の後、私は再び完全な記憶の世界に入ってしまっていて、どうなってしまったのか全く分からなかった。ただ、白妙が完全に力を取り戻したことと、香島先生が今この場所にいないことだけが明らかだった。


「お前がまた倒れた後、白妙は龍に変身して、この場所に向かう必要があるって急いでたから、二手に別れた。俺たちは白妙と一緒に、香島先生は車でここに向かってるはずだ」


 空を飛ぶ方が圧倒的に速いから、香島先生が到着するのはまだ時間がかかるだろう。この一日であまりにも多くの出来事があったけれど、それを思い返すような余裕はまだない。


 気がつくと、いつのまにか白妙は龍から人の姿へと戻っていた。


 幼く無垢な子供でもなければ、聡明で凛とした少年でもない。ましてや腰の曲がった老爺でもなく、白妙は年齢は不詳ながらも、立派な青年の姿をしていた。


 銀色の長髪を後ろでひとまとめにし、光沢のある月白色の着物に淡く発光する白銀の羽織を合わせ、星空のような帯を締めている。


 現実とはかけ離れた美しさから目が離せないまま、私は白妙にどう接すれば良いかわからなかった。

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