えを
夢の終わりは突然で、私は強い遠心力を感じながら目覚めた。どうやら私は車の後部座席にいて、誰かの膝枕の上で寝ていたみたいだ。滑らかな生地の感触を頬に感じながらゆっくり目を開けると、膝枕をしてくれていた人が私の覚醒に気づき、はっと見下ろして来る気配がした。
「さほ、起きましたか?」
ソーダ水のような爽やかな声で名前を呼ばれると図らずもどきりとする。ほんの少し幼さの混じる声色は、白妙のものに他ならなかった。
「う、うん。私また気を失っちゃったの?」
「ええ、わたしの目の前で倒れた時はびっくりした」
ありがとう、とお礼を言いながら起き上がり、私は改めて隣の少年を見やる。
「咲穂は白妙が力を取り戻すたびに失神するのな」
清彦が助手席からそんなふうに茶化してきたが、香島先生の派手なハンドル捌きと車体の揺れに「うっ」と口元を押さえた。
あの龍福寺での出来事のあと、記憶と神力を再び取り戻したという白妙は、少年から青年へと移り変わる年頃まで成長し、声のトーンもだいぶ落ち着いたものになっていた。なるほど、力が増えるたび、見た目や性格も成長するらしい。
ほんの少し――ほんの少しだけ、幼くて何も知らず拙かった白妙を懐かしく思い寂しさを感じたものの、私は元の自分を取り戻していく白妙の喜びをひしひしと感じた。
「体が大きくなると、咲穂が小さく見える。ーー不思議だな」
「もう、急に大きくなりすぎだよ。こっちが成長についていけないじゃない」
白妙の純真な言葉を聞くと、私はまるで親にでもなったかのようなしんみりとした気持ちになる。父も私が成長するたびにこんな気持ちになっていたのかな。寂しさと同時に感じる喜びは、なんとも表現しづらかった。
「さほのあんドーナツが食べたい。それからみんなで土鍋ご飯を食べたい」
「そうだね。私も家に帰ったらあまーいあんこ玉とお団子とご飯、お腹いっぱい食べたい」
私はすでに帰ったあとの食事のことを考えていたけれど、無情な知らせが運転席から聞こえて来る。
「まだ帰れないんですよー。クサビラから龍寿寺の異変について聞きましてね。今向かっている途中なんです」
「え、これから? それと異変?」
「ええ、何やら力ある妖が龍寿寺に集まっているらしいんです。詳細は不明ですが、小龍が力を取り戻すことで、ほかの妖の類に影響が出ているのかも」
そんな恐ろしいことをさらっと語り、香島先生は再びハンドルを切る。心地よいとは言えないその運転と話の内容が、私の眠気を一気に吹き飛ばしてくれた。
車の外を見ればすでに日が傾きかけていて、民家も見えず、もの寂しい雑木林が続いていた。ここはどこだろう。対向車が来てもすれ違えないほど狭い道だ。
「一時間くらいは車に乗ってるよ。もうそろそろ到着してもいいんじゃない?」
清彦は青ざめた顔で香島先生を恨めしそうに見ながら言った。香島先生はその言葉を請け負うようにこくりと頷く。
「清彦君の言うとおり、もうすぐ到着しますよ」
私はスマートフォンを取り出し、GPSのマップを開く。すでに龍福寺からはるか東に移動していて、関東の最東端が地図上で確認できるくらいだ。
「白妙の尾は、ずいぶん遠いところに落ちたんだね。頭とお腹は印波沼の近くだったのに」
「なぜ尾だけがこんなに離れた場所に落ちたのか、疑問は尽きませんね」
私たちの小さな疑問に、白妙もまた首を傾げた。再びマップに目を落とすと、この辺りに多くの寺社仏閣が集まっていることが分かる。香島先生が話したように、もしかすると、このあたりも地脈の穴がある土地なのかもしれない。
「なあ、これまで聞いていいのか分からなかったけどさ。白妙は三つ裂きにされた時のこと、覚えてるのか?」
白妙のことを気遣いつつも、清彦がそう問いかける。白妙は胸に手を当てて一瞬口をつぐんだが、すぐ決心したように「鮮明に覚えている訳ではないですが、記憶の中にあります」と答えた。
「痛かっただろ?」
「体が痛いというより、心がとても痛かった。わたしは大龍より切り捨てられて、小龍としてあの沼に住んでいましたが、大龍の逆鱗に触れた後、それまでの全ての記憶や力が散り散りになってしまったのです」
白妙は少し考えるように顎に手をやり、目を伏せてから言葉を続ける。
「そう、わたしははるか昔、大龍の一部でした。大龍の心――何かを愛し、慈しむ心から、わたしは生まれ落ちた。そして、生まれた瞬間から探し求めていたのは『佐保姫』です。それがわたしの生きる意味の大部分でした」
そこまで話し終えると、白妙は小さく息を吐き出し、私を見つめた。いや、私の中にある『佐保姫』を見ているのかもしれない。白妙は以前とは違う戸惑いや苦しみを含んだ瞳をしていた。
私が好きだったあの何の陰りもない澄んだ菫色が、憂いを帯びて曇るのが何故かとても悲しくて、切なかった。
「わたしは常に『佐保姫』を探して、『佐保姫』がいる時代に目覚めていました。昔も今もそれは変わらないけれど、力を失ってからは永く目覚めることがなかった。だから今、小龍として不完全な状態なのにも関わらず、さほの前にいることが不思議でならないんです」
白妙の疑問に誰も答えることができないまま、沈黙が落ちる。私達はそれぞれ自分の中にある答えを探そうとしたけれど、良い答えは見つかりそうもなかった。
「俺と白妙は少し似てるな」
ポツリとそう呟いた清彦の声音は、いつもよりも弱々しく張りがない。それが車酔いからなのか、複雑な感情からなのかは計り知れなかったけれど。
「わたしは清彦のことも思い出しました。あの頃はまだとても可愛い小さな狐で、わたしと縁側でよく昼寝をしましたよね」
白妙が嬉しそうにそう語る反面、清彦は「昼寝?縁側?」と記憶を辿るように悩んでしまう。やがて何かを思い出したかのように膝を叩いた。
「白妙、お前、松虫姫の庵に居候してたあの爺様だったんか!」
「そうです。懐かしいな。あの家もとても居心地が良かった」
二人が意気投合してその頃のことを語り始め、私はその内容が、直前まで見ていた記憶の夢と同じことに気づいて「あ…」と思わず声を出してしまう。
「私がさっき見た記憶は、病気を治すために松虫姫として、薬師仏の近くで暮らしていた記憶だった。小さな狐もいたし、品のいいお爺さんもいた」
「まじか! やっぱ松虫姫も佐保姫で咲穂だったんだな。てかでも、白妙は完全に力を取り戻すと爺さんになるのか?」
再び考え込む清彦に苦笑いしつつ、私もまた頭の中を整理するために目を閉じる。
あれが、清彦と白妙だったなんて。
少しずつ少しずつ、記憶の糸が整理されていく。全ての糸は過去と未来に繋がっているような、そんな気がした。
***
結びの場所である龍寿寺に着いたのは、日が落ちる直前の黄昏時だった。
これまでの二つのお寺とは違い、大きな駐車場があり、周辺はかなり綺麗に整備されている。
駐車場のすぐ脇に緩やかな坂道があって、その起点に二本の石柱が立っていた。そこには「天竺山 龍寿寺」と刻まれている。
車から降りるとすぐに、嫌な雰囲気がした。時間帯も相まってか寒気がしてきて、私は両腕で自分の体を抱く。
「いますね」
「いるな」
香島先生と清彦が緊張した声で同時に呟くと、私を背に庇い、周囲を慎重に伺った。何が「いる」のかは私には分からなかったけれど、この何とも言えない嫌な気配は常闇を思い出させる。まだ微かに夕暮れの光が差し込んでいたけれど、完全に日が落ちたら――。あまり考えたくはない嫌な予感が背筋を凍らせた。
「“門”を通ったら、呑み込まれるかもしれませんね」
香島先生は今までになく険しい表情で、二本の石柱を見つめる。清彦は先生と私、そして白妙を順に目で追ってから門を凝視した。
「どうする? 行くのをやめるか?」
「いえ、このまま放置しておくほうが危険だ。闇は闇を呼び、手がつけられなくなるかもしれない」
先生の口調が変わり、それがさらに恐ろしさを掻き立てていく。私は足がすくみ、その場から動けない。次第に太陽の光が消えて、宵闇が訪れるのも時間の問題だった。
「行きましょう。――大丈夫。わたしから離れないで」
その時、立ちすくむ私たちの前に進み出たのは、恐れも何も感じていないような風情の白妙だった。白妙がゆっくりと両手を広げると、その動きに合わせて柔らかな光の膜が現れ、私たちを包み込んでいく。
「――結界か」
香島先生は白妙の力の発現を目の当たりにして、驚きを隠せないようだ。それは私も清彦も同じだった。
「はい。まだ小さなものしか作り出せませんが、この内側にいれば魑魅魍魎は入って来れないでしょう」
「魑魅魍魎?」
本や妖怪のアニメで見聞きしたことのある言葉に反応し、私は思わず聞き返してしまう。香島先生はふむ、と顎に手を当てた。
「そうですね。古くは水辺や山などの自然の中に住んでいた妖怪や精霊が悪に転じたものです。今この地に集まっているのは、明らかに小龍の再生に乗じて、力を取り戻そうとする妖でしょう」
それらがどんな風に私たちに害をなそうとするのか想像もできなかったけれど、香島先生や清彦が身構えるくらい、重大なことなのだということは分かった。
「着いてきてください。わたしは、そこへいく必要がある」
凛とした姿勢で、白妙は歩き始める。それに合わせ、私たちも覚悟を決めると後に続いた。
“門”を通り過ぎると、一気に空気が変わるのが私でも分かった。例えるなら、湿度が高く蒸し暑い時期に似た息苦しい空気。小さな動悸を感じながら、私は無意識に白妙の着物の袖を握りしめていた。
「さほ、怖がらなくても大丈夫。わたしたちは悪意からさほを守ることができる」
白妙の自信に満ちた言葉が、私の鉛のように重い体をなんとか動かす。前には白妙、後ろには香島先生と清彦がいてくれた。いつもとは逆に、導くように私の手を取り、白妙は本堂へと迷わず進んで行く。
緩やかな坂を登り切ると、突然強い耳鳴りがした。「ちっ」という清彦の舌打ちが背後から聞こえ、次の瞬間、私たちを包んでいた結界の膜の外側から何かが激しく打ちつける衝撃を感じ、私は足を止めてしまう。
そうして、私はそれが“見えて”しまった。
膜の外側に渦巻く――怒り、苦しみ、憎悪、飢餓――そういった強い闇の塊がそこにはあった。常闇とは違う、蠢く闇、無数の目。それらは一瞬で私を恐怖に陥れる。
がくりと膝が崩れ、私はその場にうずくまってしまった。尾が封じられているはずの本堂に近づくにつれ、魑魅魍魎の力は濃縮されているかのように強くなるようだった。
「こ、こわい、こわい、こわい!」
恐怖に耐えられなくなり目を閉じた私は、白妙の手を振り解き耳を塞いだ。その間にも、結界を破ろうとする激しい衝撃が私たちを襲う。
「さほ、手を!」
落ち着かせようと再び差し伸べられた白妙の手にはっと気づき、手を伸ばそうとした、そのほんのひと時の隙を、闇は見逃さなかった。
「くそっ、結界が破れる!」
「なんてことだ。咲穂ちゃん、立つんだ、立って!」
何が起きているのか、一瞬分からなかった。白妙が私を振り返り手を差し伸べたのが確かに見えたのに。その次の瞬間には、淡く光る膜に亀裂が入り、その隙間から黒い残像がもの凄い勢いで入り込んできて、視界を覆い尽くしてしまった。
孤独、寒さ、苦しさ、この世の悲しみ全てが凝縮したような苦痛が、全身を駆け巡っていく。
結界が解かれる寸前、香島先生は鹿に、清彦は妖狐へと転じ、私をその力で守ろうとしてくれた。でも、その二人の力さえも奪おうとする魑魅魍魎の悪意は、あまりにも深く混沌としていた。
「いけ! 白妙! 咲穂のことは任せろ! 自分を取り戻すんだ!」
清彦が叫び、白妙の背中を押す。白妙は微かに頷くと、暗がりの中に浮かぶわずかな光の方へ走っていった。
「わたしの尾よ、ここに戻れ!」
闇の隙間から、白妙が短く叫ぶのが聞こえた。その声に呼応するかのように、本堂が激しく光り始める。その光はあまりに強く、すでに日は落ちていたのに、再び太陽が昇ったかのように辺り一帯を照らした。
その光がくまなく降り注ぐと、やがて静かであたたかな雨が降り始める。私たちを覆っていた闇が溶けて蒸発するかのように消え失せていくのが分かった。
汚れが水で流れ落ちるように、暗く冷たい闇が雨で洗い流されていく。降り注ぐ雨粒が、本堂の上に浮かぶ丸い玉から発せられる光に反射し、キラキラと輝くのが見える。
「白妙――」
私たちが見上げた先には、光と共に現れた大きな龍が漂っていて、その慣れ親しんだ菫色の瞳が、私たちをしっかりと見下ろしていた。




