つち
結局、その日の朝炊いた小豆は駄目にしてしまった。当たり前だが、全体的に焦げくさくなった小豆は商品にはならない。仕方ないから焦げてない部分はホットケーキの生地に混ぜ込んで即席小豆ホットケーキにして朝食で食べることにする。
冷蔵庫にバニラアイスあったかな。焼きたての小豆ホットケーキにはバニラがとても合うのだ。
餡子の仕込みを任されるようになって二年。初めの頃は失敗ばかりで焦がしたことも数え切れない。その度に少しだけ焦げた香りのする小豆は「小豆ホットケーキ」に変身した。今では糸原家定番の朝食メニューのひとつだ。
餡子の仕込みには時間がかかる。特にこしあん作りは手間だ。私は残っていた作り置きのこしあんで、自分の担当であるあんドーナツ作りを始めた。ありがたいことに絲原製菓店の看板メニューとなった手作りあんドーナツは、私の自慢の一品でもある。
ぼーん、ぼーん、と柱時計が鳴る。鳴った数は七回。もう朝の七時だ。開店まで三時間。急がなくっちゃ。私はこだわりの酒種で発酵させたパン生地を切って伸ばしては、中にこしあんを入れて成形していく。
「咲穂、あの子はどうした」
あらかた今日の仕込みを終えた父寛太が、工場の入り口からひょこっと顔を出して聞いてきた。
「うん。体拭いて着替えさせて隣に寝かせてる。センセは来てくれるの?」
「あぁ、一応連絡はいれたけど、あいつ朝弱いからなぁ……。まぁ開店までには来てくれるだろ。しかし、空から落ちて来たって? なんでまたそんなお伽話みたいなこと」
「でも本当だもん。雨が降り出したら突然雷が光って、それで……」
父は派手な柄のターバンを巻いた頭のてっぺんをぽりぽりとかきながら、大きな肩をすくめて見せる。
「咲穂の言うことを疑ってるわけじゃないって。あの子供の容姿を見れば、尋常ならざる者だってことは想像がつくさ」
尋常ならざる者――それは人間離れしている、ということだ。よく聞く話だったら、妖とか神様とか。本で読んだり古い伝承で聞いたことはあったけれど、とても信じられない。
父があまり動じていない様子なので、私は首を傾げる。大抵のことは大らかに考え、懐の深い父だった。私が学校に馴染めず不登校になったときも、「別にいいさ。勉強は家でもできる」と私に寄り添い受け入れてくれた。
そんな父だから、こういった事態が起きてもゆったりと構えることができるのかもしれない。父なら自分が妖の世界に迷い込んだとしても、割とうまく適応できてしまうかも。……なんてね。
工場の隣には狭いが畳の休憩室がある。そこに寝かせた子供のことを思い返して、私は目を伏せた。
子供は日本人ではなさそうだった。いや、顔の造作はどこか日本的で和風な感じだったけれど。恐ろしいほど整った顔立ちをしていた。そして、とにかく色素が薄い。白、というより銀色に近いグレーの絹糸のような髪と、血管が透けて見えそうなくらい真っ白な肌。そして、上質な白い着物。とにかく白い。真っ白な子供。
地面に倒れて水浸しになっていたというのに、子供の着物と帯は全く汚れていなかった。着物の扱いなんて知らなかったし、父に聞いても要領を得ないので、一応水にさらしてからお風呂場で干してある。
とりあえず自分が昔着ていたパジャマを引っ張り出して着替えさせ、使っていない布団を敷いて寝かせている。自分で診る限り、顔色も悪くなかったし、すやすやと穏やかな寝息も聞こえてきていたので、私は一応はほっとした。
「一体、何者なのかな……。あんな小さくて、家族は心配しているだろうし」
「家族、ね」
父は私の言葉に対して意味深に呟くと、「ちょっくら様子見てくるわ」と言って工場を後にする。
「あの子、ちゃんと目を覚ますかな」
小さくそう呟きながら、私はあんドーナツをまん丸く形作るのを再開した。二十個ほど包み終えたら、濡れ布巾を被せて一息つく。この間に油と粉砂糖の準備をしなくては。
私は作業台から離れると、大鍋に油を入れて火にかける。油切りのためのバットと網も用意してしばらく待つ。油の香りが強まったなと感じたところで菜箸を入れると、箸の周りに細かい気泡が集まってきた。これが適温の合図だ。
私は寝かせておいた白いあんドーナツを油の中に投入していく。まずは四個。ぱちぱちっという油の音ともに、何ともいえない香ばしい香りが工場に広がっていった。
七分ほど、油の中で転がしながら揚げていく。一度にたくさん揚げてしまうとムラができるので、一度に四個、と前に自分で決めた。ころころと転がしていると、だんだん膨らみきつね色になっていく。
タイマーがピピっと鳴り、私は手早くあんドーナツを油からあげる。良い香りだ。今日も美味しそうに出来あがった。さて、どんどん揚げていかないと。
二十個ぶん揚げ終えて、油を火から下ろす。粗熱を取る間に手を洗って一息ついたところで、私は妙な視線を感じて顔をあげた。
工場の入り口から中を伺うように、白い影が見える。一瞬幽霊かと思って口の中で小さく悲鳴をあげてしまったが、よくよく見れば……あの白い子供だ。
「起きたの!?」
つい大きな声を出してしまってから、しまった、と思った。子供は驚いたのか、入り口の陰に身体を隠してしまう。
「ごめん、ごめん。怖がらせちゃったかな? 身体は大丈夫?」
出来るだけ優しい声でそう話しかけると、一呼吸おいてから子供はおずおずと顔を出してこちらを伺ってきた。良かった。自分で歩いてきたみたいだし、元気そうだ。
「ここは、どこなの?」
鈴を転がすような声、というのはまさにこの子の声だと思った。澄み切った美しい声音で、私に問いかけてくる。小さく小首を傾げる様子は、まるでさり気なく咲く愛らしいスズランを思わせた。
私は一瞬で、この子の魅力にとらわれてしまっていた。
「ここは、絲原製菓店よ」
「いとはら……?」
「そう。甘いお菓子を売るお店なの」
「おかし?」
おうむ返しに言葉を重ねる子供は、男の子なのか、女の子なのか。そういえば服を着替えさせる時は焦りすぎていて、身体をきちんと見てもいなかった。愛らしく美しいこの子供は、生まれたての赤子のようにまっさらな白いキャンバスのようだ。
「あなた、お名前は?」
「なまえ、とは?」
「……」
会話を続けるほどに、霞のような手応えのなさを感じ不安になる。五、六歳くらいに見えるのに、何も知らない、分からないようだ。まるで記憶を失ってしまったかのような……。
「わたしはね、咲穂っていうの。『さほ』よ」
「さほ……。あなたのなまえ」
可憐な声で名を呼ばれると、不思議と幸せな気持ちになった。心の奥底から湧き上がる喜びに、私は満ち足りた気持ちになる。なぜだか目頭も熱くなってびっくりしてしまう。この子は一体何者なのだろう。その疑問はどんどん強まっていく。
「なにもわからない。なにも……。わたしはだれなの」
その瞳が悲しみに揺れるだけで、胸が締め付けられるようだった。私はその子のもとに駆け寄ると、膝を折り、目線を合わせて手を取った。それはごく自然な衝動だった。
「大丈夫よ。私がそばにいてあげる」
「さほが?」
「ええ。あなたの不安がなくなるまで、一緒にいるわ」
じんわり伝わる手のぬくもりが、この子にも伝わるといいのだけれど。
その時、ぐぅ~っという可愛らしい音が響いた。その音に一番びっくりしているのは、鳴らした本人だったので私はくすりと笑ってしまう。子供はお腹のあたりをさすってキョトンとしている。
「お腹空いてるみたいね」
「このあたりが変なの」
「何か食べる?」
「このにおいは? すごく良いにおい」
「あぁ! 作りたてのあんドーナツがあるの。あとはお砂糖をまぶせば完成なのよ」
油を切り終えたあんドーナツの山を見せると、子供の表情が突然きらきらと輝きはじめた。私はあんドーナツの中からひとつ手にして、バットに入れておいた粉砂糖を丁寧にまぶした。
それを小皿にとって子供の目の前に置いてあげると、綺麗な白い子供は、晴れやかな笑顔を浮かべて私を見上げてくる。
「これは、あんどうなつ?」
「そう。私特製のあんドーナツ! どうぞ召し上がれ」
子供はあんドーナツを前にして、とても嬉しそうだったけれど、どう食べたらいいのかひどく悩んでいるようだった。
私はもうひとつ、あんドーナツを手に取って粉砂糖をまぶすと、大きな口を開けてぱくりと一口食べてみせる。子供の大きな目が真ん丸く見開かれていく。
菫色の美しい瞳に、今度は私の方が目を丸くしてしまった。見たこともない宝石のような輝きだった。
その瞳に魅入られていると、視線がかち合う。なぜだか胸がどきりとした。
白い子供は小さな紅葉のような両手であんドーナツを持ち上げると、ゆっくりと口に運ぶ。かぷっと口にすると、みるみる表情が変わっていった。
「おい、しい!」
子供の口から言葉が自然と生まれる。そしてその言葉は、私がもらって一番嬉しい言葉だった。
「でしょう!」
私たちは仲良く並んで席につくと、できたてのあんドーナツを黙々と食べ続けた。もちろん、あたたかな緑茶と一緒に。