さる
絲原製菓店に戻ってくると、心の底から安心できた。見慣れた木の看板に触れ、入り口の引き戸を開けて私たちは「ただいまー」と店内へ入る。
入った途端、いつもの甘い菓子の香りが漂い、父が奥の工場で何かを仕込んでいたことが分かった。
何も並んでいない空のショーケースの前には香島先生と小脇に豆の入った袋を抱える父が並んでいて、私たちの帰りを待ち侘びていたようだった。
「おかえり!」
「おかえり〜。無事帰ってきて良かった」
ほんの近所のお寺へ行ってきただけなのに、私はかなり疲れた顔をしていたようだ。父と香島先生に「なんかあったな、こりゃ」と顔を覗き込まれ苦笑いする。
「おお、白妙! 前よりでっかくなったか?」
私の後に続いて入ってきた白妙を見て、二人は目を丸くした。驚くのも無理はない。まっさらで幼いだけの白妙ではなく、そこには聡明そうな子供が佇んでいたから。
「先生がいてくれて良かった。白妙を診てほしかったの」
清彦は家に本を取りに行くといって一旦帰ってしまっていたから、今日の出来事をかいつまんで私が話すしかなかった。私が倒れた後のことは、白妙が補足してくれる。
「そうか。そんで後二つの寺に行けば白妙は完全に元通りになるってわけか」
「咲穂ちゃんの説明だと、やっぱり、三つの寺にそれぞれ龍のかけらがあるんだろうね。しかも、封を解けるのは咲穂ちゃんだけのようだ」
白妙のことも、もちろん気にしてはいたが、香島先生は私の様子をとても心配しているように見えた。
「咲穂ちゃんと白妙は強い縁で結ばれているようだね。それに…、うーん。咲穂ちゃんにも以前なかった佐保姫の力が備わっているように感じるんだ。記憶とともに、力が戻る仕組みなのかもしれない」
「佐保姫の力?」
「それが何なのか、僕も知り得ないんだよ。佐保姫は僕なんかより、もっともっと古い神の一人だから。でも、春を司る神だということは確かだ」
「春の神様…なんだか御伽話みたい。あ、そういえば夢の中でも桜が咲き乱れてたな」
話せば話すほど混乱して、何を信じればいいのか分からないような気持ちになる。自分の中に佐保姫の特別な力が備わったなんて、何も実感できなかった。
「まあ、疲れただろうし、とりあえず少し休んだほうがいいだろ。近所の人に良いほうじを茶をもらったんだ。淹れてくる」
父がそう言って奥へ行くのを見送っていると、香島先生が「ほらほら、座りなさい」と私と白妙を近くの縁台に呼び寄せる。私たちは並んでそこに座った。
しばらくすると父がお盆に湯呑みと急須を乗せて戻ってきた。湯気のたつ湯呑みを私と白妙に渡し、自分と香島先生の分はカウンターに置く。
「熱いから気をつけてな。白妙のは少しぬるめにしといた」
香ばしいほうじ茶の香りをひととき楽しんでから一口飲むと、一気に気持ちが癒されるのを感じた。煎茶も番茶も玄米茶も好きだけれど、ほうじ茶のまろやかな甘みにはどこか懐かしさがあって昔から大好きだった。
「今日の話を聞いていると、三人だけで残りのお寺に行かせるのはちょっと心配だな」
ほうじ茶をすすりながらそう話す香島先生は父の顔を伺った。父もまた大きく頷いて答える。
「清彦がついているとはいえ、子供たちだけでは手に負えんかもしれない」
何かを決意したように、父は戸棚から古い大きな地図を取り出してきた。
「なぁ白妙。残りの寺がどのあたりにあるのか、今なら分かるか?」
カウンターに地図を広げると、龍角寺の場所にペンで印をつける。私たちが住んでいる印波郡の中央には、大きな沼ーー印波沼があり、そのちょうど右上あたりに龍角寺があった。
白妙はしばらくその地図を眺めていたけれど、湯呑みを置くと地図の上に手をかざす。
こうやって改めて地図をみると、印波沼は蛇行した巨大な沼で、まるで龍のような形をしていた。生まれた時からずっとここで暮らしてきたのに、それに全く気づきもしなかったなんて。
やがて白妙は片手ではなく確かめるように両手で地図にくまなく触れると、「ここにお腹が、ここに尾があるよ」とこともなさげに答える。
私たちは白妙の指差した場所を確かめ、父はそれぞれに印をつけた。
「なるほど。腹は沼の西側にある地蔵堂のあたりで、尾は…かなり遠いな。ここは大寺村のあたりか?」
「うーん、この辺は電車もバスも通ってないし、行くなら車かな」
そもそも印波沼はかなり大きく、その周辺はほとんどが田んぼで目印のようなものはない。たとえ地図上で場所が分かったとしても、そこに辿り着くのに徒歩では、白妙の体力的にも難しいかもしれなかった。
「仕方ないなぁ。僕が車を出すよ」
呑気に香島先生が言うので、私はびっくりして目を丸くしてしまう。
「え! センセイって車の運転できるの?」
子供の頃から香島先生を見てきたけれど、これまで一度も車を運転している姿を見たことがなかった。先生はえっへんと子供のように胸を張り、「伊達に長生きしてませんから」と自慢にならないような自慢の仕方をしてくる。
ちなみに父は、確か免許を持っていなかったと思う。小さな頃から移動する時はもっぱら自転車だったから。
「決まりだね! 久しぶりのドライブ楽しみだなぁ」
すっかり出かける気満々の香島先生に、私と白妙は顔を見合わせ、そして父を見上げた。
「俺はまた留守番か!」
「一緒に来てもいいよー」
「いや、お前の運転、怖い」
「あの時はすんでところで事故らなかったよ」
何やら始まった不穏な会話は聞かないようにして、私は改めてその地図を見つめる。
「…さくら」
白妙も私と一緒に地図を覗き込んでいたけれど、唐突にそう呟いたので弾かれたように顔を上げる。
「桜?」
「うん、約束の桜。わたしが眠っていた場所」
白妙は、蛇行する印波沼を龍と見立てたとき、ちょうどその背のあたりの、田んぼと集落の境目を指し示した。
車の運転について語らっていた二人も、白妙の言葉を聞きつけ地図に視線を戻す。
「ここは、波止部の大桜か。俺も一回だけ見たが、それは見事な古い桜の木だ」
「この辺りには古い遺跡がいくつも遺されているんだよ。昔は神もいたようだが、今は草木が遺るだけの場所だ」
とても大きな大木で樹齢は四百年を悠に超えるらしい。春にはそこここから多くの人が満開の桜を見に来るんだと二人は教えてくれた。ちょっとした春の人気スポットとなっているようだ。
「約束の桜、か」
私は夢の中で見た桜吹雪を思い出し、まだ見ぬその大桜がとても大切なもののような気がして胸を押さえる。何かを思い出しそうだったけれど、頭の中はまだもやがかかっているように不鮮明だ。
しばらく皆で地図を囲み、ああでもないこうでもないと話をしていたが、店の入り口が無遠慮に叩かれたので私たちは現実に引き戻された。
「おーい、咲穂、本持ってきたぞ」
清彦はまるで自分の家のように店へ入ってくるなり、私に分厚い郷土史を手渡した。いくつかの場所に付箋が貼ってあり、清彦が熱心にそれを読んだことが伺える。
「ありがとう。今夜読んでみる」
受け取りながらお礼を言った私に返事をするよう手を振りつつ、清彦はカウンターに広げられた大きな地図を興味深そうに見た。
「この印がついてる場所って、白妙が?」
「うん。三つのお寺の場所。ちょっと遠いし、次回は香島先生が車出してくれるって」
「まじか! んー。でも嬉しいような、不安なような…?」
清彦もまた、香島先生の運転技術が不安らしい。そんな清彦を見て、香島先生は「大船に乗ったつもりで任せておいてよ」と自信満々で胸を張る。清彦は頭をかきながら、私に助けを求めるように視線を送ってきた。
「大丈夫なのか?」
「たぶん、ね」
私は完全に冷めたほうじ茶を、一気に飲み干した。
***
その夜、私は自分の部屋の机で、「印波郡の歴史」を広げた。清彦が一つ目に貼った付箋の場所には、印波沼の誕生から開発の歴史が事細かに記されている。
(印波沼は昔から沼地だと思ってたけど違うんだ)
古くは広く開けた古鬼怒湾という内海の一部で、印波沼ではなく、印波浦と呼ばれていたらしい。その頃は淡水ではなく海水で、現在までに多くの貝類が発掘されていると。
その後、土砂の堆積や海退によって少しずつ陸化していったけれど、印波沼のような小さな入江は陸化から取り残され、湖沼化していき、今の姿へと変化していった。
(長く開発が行われたにも関わらず、水害は収まらず、噴火や冷害、旱魃などの天災が、民を苦しめたのね)
二つ目の付箋の場所を開くと、そこには印波沼周辺に伝わる伝承が挿絵付きで書かれていた。
『龍神伝説』と題された伝承を読み進めていくと、私は脳裏に強くイメージが浮かんでくるのを感じた。
――豊かな水をたたえた湖沼を見下ろす丘の上。貧しい村里にひっそりと佇む薬師堂。
そこに、一人の青年が時々やって来ては村人たちを訪ね、田畑を一緒に耕したり、読み書きを教えたり、歌を歌ったりしている。
さらに、美しい衣装を身にまとい、従者を引き連れた若い姫が加わり、薬師堂はひととき賑やかな時を迎える――。
龍神伝説は、龍が人間の姿となって村人と交流するところから始まる。村人たちは、長年続く疫病や旱魃に苦しんでおり、雨乞いをしても願いは叶わず、それを憐れんだ龍が、雨を降らせるため身を捧げたことが書かれていた。
――雨を止めていたのは大龍王で、それを承知で雨降らしを行った小龍は、大龍の怒りを被り、稲妻で体を三つに裂かれた。
(もし、この小龍が白妙であるなら…なんて悲しくて優しい龍なんだろう)
胸を押さえながら、次の付箋の場所を開く。そこには『松虫姫伝説』と題され、天皇の第三皇女についての物語が美しい絵と共に記されていた。
――松虫姫はとても美しい姫でしたが、年頃になり、重い難病になってしまいました。あらゆる治療の手を尽くしたにも関わらず、病は重くなるばかりでした。
ある夜、天皇の枕元に龍神が現れ、あるお告げをします。「印波沼に効験あらたかな薬師如来がある」と。
天皇は藁にもすがる思いで、姫をその地に向かわせることにしました。
長い旅路を経て、薬師堂に辿り着いた一行は、薬師如来にすがるほかなく、松虫姫は来る日も来る日も一心に祈りを捧げました。
従者達も機織りや裁縫、養蚕など都の技術を村人に教え、少しずつ村に馴染んでいきました。
数年が過ぎ、松虫姫の病は消え去り、晴れて都へ戻ることになりました。都の技術を広げるため乳母を村に残すことにし、また都から姫を乗せてきた牛も年老いていたため残しましたが、姫と一緒に帰れないことをいたく悲しみ、近くの池に身を投じました。
病の癒えた松虫姫を見て喜んだ天皇は、僧に命じて七仏薬師如来像を祀った松虫寺を建立させました――
そこまでを一気に読むと、失われたピースがひとつずつ埋まっていくのを感じる。清彦はこれを読んで何か気づいたことがあったのだろうか。
(清彦と話さなきゃ)
私はそう思いながら、強い睡魔に飲み込まれていった。




