ゆわ
――さほ、おきてよ、さほ!
私を呼ぶ声。夢から醒める時の曖昧な感覚の中、私は今度こそ、自分へと戻らなくちゃいけないと思った。
(だって、まだあんみつ、食べてない!)
私は恐る恐る目を開け、様子をうかがう。目の前には私を覗き込んでくる二人の瞳があって、私は一瞬で安堵した。
「さほ!」
私を夢から引き上げるように名前を呼んでくれていたのは、白妙だった。白妙は横たわる私の手を必死に握りしめて、目にうっすらと涙を浮かべていた。
夢の延長のような気がしていて、頭の中は整理できていなかったけれど、繭のようになってしまった白妙が脳裏に蘇り、私はガバッと身を起こす。
「白妙! 体は大丈夫なの!?」
私は目の前の菫色の瞳を見つめた。そう、記憶の奔流の中でも見た、この優しげで悲しげな瞳。
「うん、なんともないよ。それより、さほはどこか痛いところない?」
自分よりも私の心配をしてくれる白妙が健気で、胸がぎゅっとなった。
そばには清彦もいて、私たちのやり取りを見ながら頭を掻いていた。清彦が困った時によくする癖で、私はもう一度安心して息をついた。
少し落ち着きを取り戻した私は、どこか様子の違う白妙をしげしげと観察する。これまでの無垢でまっさらで幼なげな雰囲気の中に、確かな生命力と、力強さを感じる。
なんでそう思うのか自分でもわからないけれど、確かにそう思うのだ。
――そして。
白妙は、十歳くらいの見た目に変化していた。幼ない雰囲気の中に垣間見える凛とした風情。表情も豊かになったように感じるし、何より、その瞳の中に、『私』を確信したかのような、絆のようなものを感じた。
「なんか白妙、大きくなった?」
そうみたいだな、と清彦は白妙の頭にポンと手を置き、大きく息を吐き出した。
「本当に焦ったぜ、全く。シロは龍の頭を吸収しちまうし、お前は倒れちまうし…」
ごにょごにょと言葉にならない愚痴をこぼしたあと、清彦は私を見下ろして「ずいぶん良く眠ってたみたいだし?」と小さく皮肉ってきた。
「…たぶん、遠い昔のことを夢に見たと思う」
私の言葉に、二人はそれぞれ違う反応をした。清彦は訝しそうに眉をひそめ、白妙は悲しそうに微笑む。
「それは、佐保姫としての記憶か?」
「うん、たぶん」
メグリガミが私たちに話してくれた過去の出来事よりも、おそらくはさらに昔の記憶だったように思う。私は『佐保姫』として大龍の青年と出会い、同じ時を過ごし、そして殺されたのだった。
メグリガミが語った小龍は、もしかするとあの豪雨の中で絶命した私の前にひっそりと佇んでいた人かもしれない。菫色の瞳は、白妙のものと全く同じように澄みわたり、美しかった。
(大龍は自分の一部を捨てて、天へと帰ってしまったんだ。その一部分が小龍なのだとしたら――)
私は気絶する直前に触れた厳かな箱を確かめたが、それはすでに輝くこともなく元のようにぴったりと蓋が閉められていて、中身は見えなかった。
「俺が約束を交わした『佐保姫』は、そん時の帝の末姫だったはずだから、なーんか違うんだよな。咲穂が夢に見たのは、もっと前のお前ってことか」
うーん、と腕を組んで悩んでしまった清彦の前で、私と白妙のお腹が同時にぐぅーーーっと大きく鳴った。
「お腹、すいたね」
「お腹すいた!」
そんな私たちに拍子抜けしたように、清彦は声を出して笑う。
「腹減ったなー。そういえば、お前のリュックどこやったっけ…」
頭を掻きながら辺りを探し始めた清彦を手伝うように、私と白妙もまた手を繋いで堂内から外へ出た。
時計も何もなかったから時間はわからないけれど、太陽が西に傾き始めていたから、どうやらお昼は過ぎてしまったみたい。
「ねぇ、さほ」
突然白妙が私の手をくっと引いたので、私は振り返り「どうしたの?」と返事をした。
「少しだけ、思い出したよ」
「…うん」
「わたしは、さほがいなくなって、とても悲しかった。さほがいない時代はいつも一人きりだったから、その間は眠っていたんだ」
肩よりも少し長く伸びた銀髪が、太陽の光を受けて淡く輝く。聡明さをたたえた菫色の瞳が私をひたと見つめ、それを縁取る長いまつ毛が揺れた。
「もう、いなくならないで。さほ」
立ち止まって不安げに声を震わせた白妙に、私はどう答えていいか分からなかった。私も白妙と同じ。これまで何の記憶もなかったはずなのに、今は胸の奥で『佐保姫』の存在を確かに感じていた。でもそれはまだ私に馴染んでいない。
でも、これだけは確信していた。
「前にも言ったでしょう、白妙。あなたのそばにいるって。私は白妙が大好きなんだから」
そう、それだけははっきりしてた。白妙がたとえ佐保姫を殺めた大龍の一部だったとしても、白妙は白妙に他ならない。私の目の前にいる、この小さな命がとても大切だった。
私は改めて、白妙の少しだけ大きくなった手を握りしめる。
白妙は以前の屈託のない笑顔に、ほんの少し落ち着きを加えて、私の手を握り返してきた。
「わたしもさほが大好き」
その言葉は、いつか見た美しい低音と重なって聞こえた。
***
清彦が堂内の入り口に置きっぱなしになっていたリュックを見つけてきた。
私たちは境内を離れて、お寺の脇にある小さな休憩所のような一角へ移動すると、気を取り直して、そこからおにぎりとおやつを取り出す。
大きめの保冷剤を入れていたので、おにぎりはほんのりと冷たくなっていたけれど、お腹が空いていたのでそこまで気にならない。
別で持ってきた海苔を巻いて、それぞれにおにぎりを頬張る。パリッと音を立ててから咀嚼すると海苔とご飯の甘みが、空腹に沁み入るようだった。
「日本人はやっぱりおにぎりだよなー!」
清彦が唐突にそんなことを言うので、私は思わず吹き出してしまう。
「急にどうしたの。まぁそれには同意するけど」
「でも、一番はお稲荷さん」
今度また作ってくれよな、と念をおして、清彦は大きめのおにぎりをぺろりと平らげた。
清彦は足らない、とばかりにリュックを漁り、家にあった駄菓子の詰め合わせとあんみつを取り出す。あんみつは私たちに押し付けるように渡すと、自分はビニール袋からとんかつ風の駄菓子を勝手に食べ始めた。
「これうまいよなー。何枚も食いたい」
「もう、私と白妙のぶんも残しておいてね!」
「いいじゃん、あんみつがあるんだし」
「一応三つ持ってきたんだから、清彦も食べなよ」
「えー…」
そんなやり取りをしながら、私たちは清彦に遅れておにぎりを食べ終えると、早速あんみつを食べる準備をする。
三つ分の小さなタッパーにはすでに寒天がわけて入れてあった。そこに別で用意しておいた白玉と餡子を入れて、持ち運び用の黒蜜をとろりとかけたら即席あんみつの出来上がり。ここにアイスを入れたらさらに美味しいんだけどな。
「白妙も、どうぞ」
出来上がったあんみつを白妙に渡すと、「わたしが作った白玉が入ってる!」と笑顔で喜んだ。一緒に白玉を作る時、ただの丸じゃつまらないと、三角や四角、ハートや星など、色々な形を作って茹でたのだ。
「お、俺んとこには星が入ってる」
「ほら、食べよう!」
「うん、いただきます」
清彦は少し躊躇していたけど、カラフルなスプーンであんみつを口に運ぶ。それを見て、私も黒蜜を絡めながら待ちに待ったあんみつを一口食べた。
「あー、美味しい!」
「ん、けっこういけるかも?」
「白玉ってつるつるしてておいしいね」
それぞれに感想を言い合い、私たちはあんみつを並んで食べた。
清彦は本当に久しぶりだったみたいで、「小さい頃食べた時は苦手だったけど、今はいける。俺の舌が成長したってことか?」なんてしみじみと腕を組んで首を傾げた。
白妙は寒天や白玉の口当たりが気に入ったみたいで、もっと食べたい!と言ったけど、今は余分に持ってきていなかったから「帰ったらアイスも添えてまた食べよう」と約束した。
あんみつを食べ終えても、私たちはまだお腹が空いて、私がセレクトした駄菓子セットを広げる。あんこ玉に、たまごぼうろに、ミルク煎餅。白妙が気に入ったのは食べると口の中がパチパチするお菓子だった。
「なにこれ! 口の中で何か動いてる!」
初めはおっかなびっくりしていたけれど、その刺激が癖になったらしく、白妙は一気にその粉を口に含むと目を白黒させる。私と清彦はそれがあんまりおかしくて大笑いしてしまった。
「こんなふうにしてると、シロが龍で、俺や咲穂の中に何かいるなんて信じられねーけどな」
清彦がポツリとそんなことを言うので、私はまたあの夢を思い出してしまう。雷に打たれた時の衝撃と、鈍い痛み、冷えていく身体を感じながら遠のく意識。
そして、怒りに満ちたあの双眸はこれからも何度も思い出してしまいそうだった。
「白妙は、ここにあった龍の頭から神力を少し取り戻したんだよね」
「ああ、たぶん。そういやシロに聞くの忘れてたけど、お前神力っぽいの何か使えそうか?」
清彦の聞き方はざっくりとしていたけれど、白妙は少し考えてから手のひらを出した。
「わたしの縁の地の場所がわかるよ」
差し出された手のひらに光が現れ、静かに発光する。その光に驚きながらも、私たちはその光の中に見たこともない寺が浮かんでいるのに気づいた。
「残りの龍福寺と、龍寿寺か。なるほどな」
「うん、それとあともう一つ。わたしが眠っていた場所も分かる。そこに行けば、大龍を呼べるかもしれない」
「大龍を?」
私は思わず聞き返してしまう。大龍を呼べたとして、もし再会したら、私や白妙はどうなってしまうのだろう。無邪気に教えてくれた白妙でさえ、分からないはずだ。
正直なところ、私は怖かった。
このまま、全ての寺を巡り、白妙が全ての力と記憶を取り戻した時、白妙が、白妙ではなくなってしまうような気がして。いや、力を取り戻してこそ、真の小龍に戻れるのだろうけど。
この、とても平和な瞬間が幸せで温かいほど、私はその瞬間が近づくのが、少し怖いのだった。




