うへ
頭の中がぐるぐるしている時は、手を動かすに限る。もとから、あまり考えすぎない性格の私は、まだ仄暗い早朝に、「今日はあんみつだ!」と思いたち、早速戸棚から天草を取り出した。
あんみつのメインは寒天。
この寒天が、あんみつの良し悪しを決めると言っても過言ではない。私は磯の香りがほんのりとするのが好きだけれど、清彦なんかは「磯くせー」とか言って、あんまり好きじゃないみたい。これは好みの問題。
袋から白色の硬い繊維質な海藻をざらりとボウルにあける。元は赤紫色だったとは思えないが、天日干しを何度か繰り返すとこんな感じのベージュ色になるんだと、テレビで見たことがあった。
さっと水洗いしてぎゅっと絞る。大鍋に水を張り、酢を入れて強火で煮立て、沸騰したところに天草を放り込んだ。
ふつふつと煮たてながら、あくが出れば丁寧にすくう。鍋の中で天草がゆらりゆらりと動くのを見ながら、私はメグリガミの語った過去の出来事に思いを馳せていた。
――頭は「龍覚寺」に、腹は「龍福寺」に、そして尾は「龍寿寺」に今も眠る。
白妙は小龍だという。龍、という存在が俄には想像できない。あんなに小さな白妙が実際はあの大きなドラゴン、――私の中ではゲームの世界でよく見る火を吐くモンスターのような姿――だなんて。
さらに、大龍に怒られて、三つに引き裂かれた? ここまでくると、もう訳が分からない。
とにかく、三つのお寺を巡ってみるしかない。きっと清彦も手伝ってくれるはず。まずは目の前のことを一つ一つやっていくんだ。
そう心に決めると、なぜか肩の力が抜けた。
私には頼れる存在があり、心の拠り所がある。それがこんなにも心強い。
――大丈夫。きっとうまくいく。
鍋を見ると、煮汁が少し黄色味がかってきた。もう少ししたら40分。煮汁の濃度を確認して、もう少し煮詰めることにする。
ようやく納得のいく濃度に落ち着いたら、天草をザルで濾して、寒天液の出来上がりだ。
大きめのタッパーに寒天液を流し込み、粗熱をとってから冷蔵庫にしまったところで、作業場の入り口に小さな人影を見つけた。
「白妙?」
声をかけると、眠そうに目をこすりながらこちらに近づいてくる。
「うん、咲穂、なにしてるの」
まだ半分夢の中にいるような白妙に近づき、目線を合わせるようにしゃがむ。
「あんみつを作ってたの」
「あんみつ?」
「そう、甘くて、ツルツルの白玉とあんこと四角い寒天のハーモニーが最高なお菓子だよ」
「はーもにー」
「後で一緒に食べようね」
よく分かっていないながらも必死に言葉を真似る白妙は本当に可愛らしい。まだ眠っていても良い時間だったけれど、白妙はどうやら喉が渇いているようだ。
「白湯、飲む?」
「うん、あったかいやつ」
朝一番には、まっさらで熱すぎない白湯が体には優しい。私は二人分の白湯を用意して、近くの作業台の前に置かれた椅子に白妙を座らせた。
二人で並んで白湯を飲んでいると、心がとても穏やかになった。静かに白湯をすする音が、ひどく懐かしいような、不思議な気分を呼び起こす。
――龍覚寺に行かなければ。
私は唐突にそう思った。龍覚寺は、清彦とよく遊んだ場所でもあり、家からも遠くない。白妙も連れて行けるはずだ。何かに突き動かされるように私はスマホを取り出すと、清彦へメッセージを送る。
“龍覚寺に行こうと思うんだけど、一緒に行ってくれる?”
日曜日の朝の6時50分だし、絶対まだ清彦は寝ているだろうと思っていたら、案外早く既読がついて、ピコン、と返事を知らせる音がした。
“オッケー。何時集合?”
まるでちょっとそこまで遊びに行くみたいなノリの返事に、私は緊張を緩めた。清彦のこういうフットワークの軽さみたいなものが、昔から羨ましかった。
“朝ごはん食べて、支度したらまた連絡するね。9時半とかどう?”
“了解。んで、おやつはあんの?”
“おやつ? あんみつなら持っていけるけど”
“げっ! 磯くせーやつならいらね!”
そんなやり取りを隣で見ていた白妙が、「なあに? どこかへいくの?」と悲しげな表情でこちらを見てくるので、私は少し焦ってしまった。
「ううん! 今回は白妙も一緒に行かない? 近くにあるお寺なんだけどね」
そう軽い気持ちで誘ってみれば、白妙はみるみる表情を明るくして、文字通り飛び上がった。
「うん!! 行く!!」
考えてみれば、白妙がここに来てから、お店と家以外の場所へ出かけるのははじめてのことだ。私は少しだけ不安になる。
「外へ行くの怖くない?」
そう問いかけると、白妙は可愛い仕草で首を傾げた。
「こわい?」
白妙は怖い、という感情をあまり理解していないようだった。私は苦笑しながらも、白妙の小さな手を握る。
「私と手を繋いで、一緒に行こう」
「うん!」
握り返されるその温もりを、私はただただ守りたい、そう思った。
***
その後、固まった寒天と、残り物の餡子、それから白妙と一緒に作った白玉を柄物の可愛い小さな蓋付きケースに入れ、保冷剤と黒蜜を準備した。
途中でお腹が空くかもしれないので、塩むすびと梅干し入りのおにぎりを二つづつラップに包み、自分と白妙の分の水筒に麦茶を入れて、大きめのリュックにしまう。
白妙はいつの間にか動きやすそうな作務衣に着替えていて、私の準備が終わるのを待っていた。
「行くのか?」
私が作業場で早朝から何かをしていたことに気づいていたらしい父が、身支度を整え終わった私に声をかけてくる。今日はお店はお休みということもあり、頭にいつものターバンは巻かれておらず、寝癖もそのまま。気の抜けた姿ではあったけれど、表情は真剣そのものだった。
「うん、清彦も一緒だよ」
「あいつが一緒なら、一応は安心か」
本当は俺がついて行きたいところだ、と言葉を続けながら肩をすくめる父は、珍しく気弱に見える。
「心配?」
「そりゃそうだろう。可愛い娘なんだから」
「突然そんなこと言わないでよ」
今まで、父からそんな風に言われたことはなかった。本当の血のつながった親子だと思っていた時よりも、今の方が本当の親子のように心が近いような気がするのはなぜだろう。
「何かあれば、すぐ連絡しろ」
スマホを取り出し、私に振って見せるので、私はうんうん、と頷いてみせた。
しばらくすると店の方から戸を叩く音がして、私は清彦の到着を知る。白妙の手を取り「行こっか」と目線を落とすと、白妙は私を見上げて大きく頷いた。
「行ってくるね」
「おう、気をつけてな」
父に別れを告げ、私は白妙の手を引き店の入口へと向かった。
「よっ! 準備万端だな」
店の前には、穴の空いたジーンズと黒いTシャツにグレーのパーカーというラフな格好の清彦が待ち構えていた。私が背負おうとしていたリュックを奪うように取ると、さっと背負ってしまう。
「結構重いな、何入ってんの?」
「今回はいなり寿司は無しだけど、おにぎりとか色々」
「えー、いなり寿司ー」
残念がる清彦を尻目に、私は白妙の様子を伺う。店の前の通りを見つめて、少し緊張しているようだ。無理もない。白妙にとってははじめて見る新しい世界だ。
「大丈夫だよ、白妙。行こう」
声をかけると、白妙はおずおずと私を見上げてから、小さく頷いた。
爽やかな風が頬を撫で、陽の光が強くない午前中特有の草や土のにおいがする。予報を見たけれど、今日は晴れ時々曇り。気温もそこまで上がらないらしい。3月の中旬、まだ肌寒さはあったが、探索にはぴったりの日だ。
探索、とはいっても、家から徒歩十分程度の場所にあるお寺だし、なんなら歩くのは小学校の時の通学路だ。
「なーんか、こんな風に通学路歩くの、懐かしいな」
清彦も同じことを考えていたらしい。私は「ほんとにね」と同意する。小学校は坂道を上がりきった高台にあったが、龍覚寺は高台の手前にある森の中に静かに佇んでいた。その森では、学校の授業でも「自然観察」やら「写生大会」などが行われていたから、私と清彦は何回も訪れたことがある。
「私達が生まれ育った場所に、龍の伝説なんてあったんだね、全然知らなかった」
「それなんだけど、学校の図書室にあった郷土資料みたいなやつ、借りて読んでたら確かに載ってた。後で咲穂にも貸すから読んでみ」
まさか勉強嫌いの清彦が、図書室で本を借りてくるなんて。驚きのあまり返事ができなかった私を清彦は睨めつけてくる。
「オレだって本くらい読むっつーの」
漫画とか雑誌でしょ、と呟いたのを聞き漏らさず、清彦は子供みたいに口を尖らせた。
「とにかく、結構面白い話とか書いてあったから。龍神関連の昔話もいくつかのってたし」
「そうなんだ! 帰ったら読むよ」
そんな話をしながら、白妙に合わせてゆっくり歩いていくと、ほどなくして目の前に新芽が芽吹き始めたばかりの森が見えてきた。それまで静かな住宅街だったにも関わらず、そこだけが緑の塊のようになっている。
「ほら、白妙。もうすぐ着くよ」
目の前に広がる木々を指差すと、白妙は足元ばかりを見ていた視線をあげて、私の示す方角に目をやった。
「ここは?」
「ここはね、龍覚寺というお寺だよ」
「りゅうかくじ?」
きょとんとした顔で当たりを見回す様子を見ると、白妙はやはりなんの記憶もないようだ。なぜ記憶がないのか、その記憶を取り戻すことが、白妙にどんな変化をもたらし、その変化は白妙にとって良いことなのかさえ、今の私には分からない。
「行くか」
清彦は軽い足取りで森の入り口に入っていく。通りに面した寺院名碑には「本尊薬師如来 龍覚寺」とあり、ここが目的地に間違いないことが分かった。
三人で整備された石畳を歩いていくと、やがて山門が見えてきた。古い四脚門は全体的に黒っぽく、瓦葺きの屋根には薄く苔がむしているように見える。小さな頃は考えもしなかったが、この場所の厳かな雰囲気に、今ようやく気づいた気がした。
山門を通り歩を進めていくと、急にぽっかりと大きな広場が現れる。
「お、懐かしい。この境内でよく銀杏集めたなぁ」
清彦はずんずんと先に進み、今は若葉が萌える大銀杏の下でその大木を見上げ、何かを思い出しように笑った。きっと小学生の頃の思い出だ。学校のボランティア活動で、秋の境内清掃をしていた時、清彦と銀杏の投げ合いをして先生に怒られた、そんな記憶。あの匂いまで思い出せる。
私は記憶の中の境内を思い起こしながら、乱立する石碑や、今はなき三重塔の跡に遺された大岩を見回る。
「これはなに?」
その大岩の前にぽつんと建つ看板の前に立ち、白妙は神妙な面持ちで私を振り返った。
そこにはこの岩の説明が書かれていた。名前は『不滅の石』。
白妙にどう説明しようか悩んでいると清彦がいつの間にかやって来て、「大雨でも日照りの日でも、三重塔の中心礎の石にたまった水は増減しなかった。ゆえに不滅の石と呼ばれる」と書かれた一節をそのままを読み上げて「ふーん」とひとつ呟いた。
白妙は清彦の言葉を聞き終えると、突然その場にしゃがみ込んでしまう。
「どうしたの、白妙!」
私は焦りを隠せず、しゃがんだ白妙に合わせて膝をついた。
「ここが、ずきずきする」
白妙はその美しい艶やかな銀髪のこめかみの辺りを両手でおさえ、目をぎゅっと閉じていた。額にはうっすらと汗が浮かんでいて、私はますます焦ってしまう。
「どうしよう、清彦」
清彦もまた、緊張した表情で白妙を見やり、辺りを見回す。
「ここ、昔から住職とか管理者がいないんだよな。無人で、近所の人とか小学生が掃除に来るくらいで」
あたりに自分たち以外人気はなく、聞こえるのはただ鳥のさえずりと風のそよぐ音だけ。
小さく呻き声をあげる白妙のその小さな背中をゆっくりさすった、その時。
白妙の全身が突然淡く光り始め、その光は次第に強くなっていった。




