いぬ
静かな星空が広がっていて、私はひとりだった。昔からこの辺りは夜静かだったけれど、今夜は特に静かな気がする。自分が息をする微かな音と、心臓の音がだけが鮮明だった。
――私は、生きてるんだ。
私の中に、どんな魂があるんだとしても。
今私は私を感じているし、これまで過ごしてきた日々が変わることはない。
少し冷静になって考えてみれば、簡単なことだ。
父が、父じゃなかった。
その事実は確かにショックだったし、あまりの衝撃の大きさに逃げ出してしまったけれど。
でも、これまで父は、間違いなく私の父親だった。自慢で大好きな、私の父親。菓子職人としても尊敬できる、私にとって一番頼れる存在。それはこれからも変わることはない。
星空を見上げて、はぁっと息を吐き出す。
――父さん、私が逃げ出してどう思ったかな。
自分の幼稚さに呆れつつ、それでも父ならどんな行動をしたとしても、大らかに受け止めてくれるんだろうと確信していた。
「咲穂」
ようやく落ち着いてきた私の思考を引き戻したのは、清彦の声だった。
「清彦……」
星空から視線を戻した先に、少し息を乱した清彦が立っていた。慌てて追いかけて来てくれたみたいだった。
清彦はいつだって、私が悩んだり泣いていたりすると、いつの間にかそばに来て、黙って隣に寄り添ってくれた。時には私が泣いている原因に立ち向かっていってくれたりもして。幼心に「なんでこの子はここまで私を必死に守ろうとしてくれるんだろう」と不思議に思っていた。
私の前で息を整えていた清彦は、小さく深呼吸してから口を開く。
「俺はさ、いつも生まれ変わる時は突然で。しかも親は絶対にいない。いっつも一人」
突然話し始めた清彦の声は、内容の重たさにそぐわないあっけらかんとしたものだった。びっくりして目を瞬かせていると、うーんと伸びをした清彦が、さっきまで私が見上げていた星空を見上げて続ける。
「生まれ変わってすぐゴミ捨て場に捨てられてたり。狐の姿のまま路地で弱ってたり。結構ひどい目にもあってきた。でもさ、近くにお前がいるってすぐに分かるんだ。匂いと感覚でさ」
気がつくと、清彦の視線が私に向かっていて、私はなぜか胸が痛くなった。
「お前が俺にとって、どれだけ希望になってるか、お前は知らないだろうけどな。昔の俺が勝手に決めたルールに沿って生きなきゃいけない俺の人生だけど、それでもお前がいるから楽しいんだ」
いつも以上に真剣な表情の清彦が困ったように笑う。不意に、今よりも大人っぽい清彦によく似た青年の笑顔が脳裏に浮かんだ。その青年に頭には、ぴんと尖った耳が付いていて、不思議と懐かしい気持ちになる。誰だろうと頭を悩ませているうちに、その青年の残像は消えてしまう。
「だから、あんまり悩むな。おっさんはお前の父親だし、お前はちゃんとお前だし」
「……清彦」
「それに、お前の作る菓子とか料理、全部美味いし。それってすげー価値あると思うぜ」
唐突にそんな風に褒められて、私は「もう」と頬を膨らませる。なんだか気恥ずかしくなって視線を逸らした。
「今はさ。お前は咲穂で、俺は清彦。それでいいじゃん」
清彦の言葉はあたたかく、力強かった。
そうだね。私たちは自分の中の魂を自分で見ることも感じることもできないんだから、今の自分のままで生きていくしかない。 単純で、でも一番大切なことは「そのままの偽らない自分である」ということ。清彦の何気ない言葉が、胸に深く突き刺さった。
「うん。清彦……ありがとう」
ついさっきまで沈んでいた心が嘘みたいに晴れやかな気持ちだった。こんなとき一人だったら、延々と悩み続けてしまうだろう。清彦がいてくれて良かった。心からそう思う。
「それで、お前さ。行くんだろ?」
「えっ?」
清彦はさらに近づいてきて、私の隣で肩を並べると首を傾げた。
「龍に関係する三つの寺。何だっけ? 龍覚寺と龍福寺と龍寿寺。そこに行けば、白妙が小龍として目覚めるかもしれないんだろ?」
清彦は冒険に行くのが楽しみ、といった様子でうずうずしているのがよく分かった。一緒に行くのが当たり前、みたいな清彦にどこか安堵しながら私は頷き返す。
「そう、だね。今出来ることといったら、それしかないもんね」
少し不安な様子が顔に出ていたんだろうか。清彦が心配そうに顔を覗き込んできた。
「何だよ。なんかはっきりしない言い方だな」
相変わらず、清彦は私の心中を察するのが鋭い。ごまかしが利かないのは分かっていたから、私は肩を竦めて正直な気持ちを口にした。
「そりゃ、不安だよ。だって、白妙が龍で、昔大龍の怒りをかって三つに裂かれちゃったとか……。私たちが勝手なことして、大丈夫なのかなって」
隣に並ぶ清彦を見上げると、鼻の脇を掻きながら私を見下ろしてくる。
「ま、そりゃそうだよな。でもまあ、昔話がどこまで本当なのか、俺にだってわかんねーし。行くだけ行ってみるしかないんじゃないか?」
それはそうなんだけれど、私はなんだか嫌な予感がしていた。それは漠然とした畏れと不安だった。自分が選びしたことが、どんな結果をもたらしてしまうのか。想像もつかない。
「ほんと、俺って中途半端なんだよな~!」
唐突に大きな声を発した清彦に、私はびっくりして目を見開く。
「なあに? 突然」
「記憶も力も中途半端でさ。お前のこと、ちゃんと守れるか不安だっつーの」
「守る……って。そんな大げさじゃない?」
「これだけは絶対なの! 俺の中でそう決まってるんだよ。だって現にお前、変なところにハマりかけたじゃん。あれ、香島先生が気づかなかったらやばかった」
そうだった。私はつい数時間前、闇に取り残されてしまいそうになったんだった。あの底知れない闇は、今いるこの世界とはまったく違う空間だった。
「あそこは何なの? 清彦は知ってる?」
「あの場所は、常しえの闇だ。永遠に明けない夜の世界。地獄と言えば、地獄なのかもな」
淡々と話す清彦の声は冷静で、それが事実なんだと突きつけられる。そんな場所に迷い込んでしまっていたなんて。転んだだけでそんな場所へ連れて行かれてしまうあの場所は、やはり尋常でない空間だったんだと改めて思う。
「不安なのは俺のほうだぜ。危なっかしくて、そそっかしくてさ」
「……それって、私のこと?」
「当たり前だろ」
「年下の癖に偉そうなんだから」
口を尖らせると、「今はな!」と返される。確かに私たちが出会った過去を含めれば、どちらがどれくらい年上なのかさっぱり分からなかった。なんだか、急におかしくなってきて笑いがこみ上げてくる。
くすっと笑うと、清彦が訝しげに眉をひそめた。その顔が可笑しくて、私はつい笑い声をあげてしまう。
「何だよ、急に」
次の瞬間には泣けてきて、泣き笑いみたいになってしまった。自分の中の感情がうまくコントロールできない。清彦といてほっとしたのに、どうしようもない孤独や不安、そして悲しみや切なさが胸に去来する。
「私のせいで、ごめんね」
色んな想いが込み上げてきて、涙がぽろりと零れ落ちた。
結局、私には本当の親がいなかったという事実。そして、普通の幼馴染だと思っていた清彦は私を守るために何度も何度も生まれ変わり、私の隣にいてくれるのだという。私という存在が、清彦をおかしなルールで縛りつけ、自由を奪っているんだと思うと、どうしようもない痛みで胸がずくんと疼いた。
嗚咽を噛み殺し、流れる涙が足元に落ちるのを見ていると、頭上から大きなため息が聞こえてくる。清彦に呆れられてしまったかもしれない。私は手の甲で涙を拭った。
「なんも分かってねえな。さっきも言ったのに!」
はっと顔を上げると、清彦がやれやれと肩を竦めるのが目に飛び込んでくる。
「今の俺は清彦なんだって。俺はお前と交わした約束や自分で作ったルールが嫌なわけじゃない。今ここにいるのは自分で選んだからだぞ。嫌だったらとっくにどこかへ行ってるって」
「……」
「そんでもって、それはおっさんや香島先生も同じだ。みんな、お前の傍にいたいからここにいるんだ。それを忘れんなよ」
突き放すような言い方だったけれど、清彦の優しさと強さを確かに感じた。私は泣いて赤らんでるはずの顔を隠すように後ろを向いて、もう一度涙を拭う。
「咲穂、ここか!」
気持ちを落ち着かせていると、今度は突然野太い聞きなれた声が響いて、私は肩を揺らした。建物から出てきたのは、私が大好きな人だった。
「咲穂。悪かった。今まで黙ってて本当に悪かったと思ってる」
開口一番そう謝って頭を下げる父は、いつもより少しだけ覇気がない。大柄な体を小さく丸める姿は、とても寂しかった。
言いたいことはたくさんあった。何でもっと早く言ってくれなかったの、とか。ずっと嘘をついていたなんて酷い、とか。
でも清彦が教えてくれた。父も先生も清彦も、自分がそうしたいから私の傍にいてくれるんだって。そして、不意に気がついた。それは私もまた同じだということに。
「さほ! 泣いてたの?」
父の後ろから顔を出すなり、私を見つめて駆け寄ってきた白妙が、心配そうにそう声をかけてくる。
「さほを泣かせたの清彦なの?」
頬を膨らませて清彦に詰め寄る白妙は、私を庇うように両手を広げた。
「清彦、ちゃんと謝って」
清彦は違う違うと慌てて両手を振る。その焦った気配を見て、白妙は腰に手を当てながらさらに詰め寄った。
「いやいや、俺じゃないって!」
とんだとばっちりだと後図退りする清彦と、口を尖らせる白妙。二人の様子を見ていたらなんだか心が温かくなる。
私も、白妙の傍にいようと自分で決めたんだ。それは無償の愛情なんだと思う。相手を大切にしたいという、あたたかでごく自然な気持ち。そこでようやく、父や清彦の気持ちや想いが分かった気がした。
「白妙、ありがとうね」
不意に口をついて出た言葉に、白妙は驚いたように目を丸くした。白妙に微笑んで見せてから、私はゆっくりと父の傍に向かう。大きな背中を小さくしていた父の前までくると、緊張しながらもしっかりと父を見上げた。
「私のそばにいてくれて、ありがとう。父さん」
父を父と呼ぶことが、こんなにも緊張することだなんて。どきどきしながら固まった表情の父を見つめていると、父はあっという間に二人の間の距離を詰めて、私の体をぎゅっと抱きしめた。
まさか抱きしめられるとは思ってもみなくて、私は驚きのあまり言葉を失う。でも私をすっぽりと包み込む太い腕が小刻みに震えていることに気づき、胸がいっぱいになった。
「これからも、よろしくね」
搾り出すようにしてそう呟き、父の胸の中、震える腕に手を添える。父は言葉こそなかったけれど、何度も頷いているのを感じた。
そんな私たちを、清彦と白妙、そしていつからそこにいたのか香島先生が穏やかな顔で見守っている。私は色々な優しさを感じて、ゆっくり瞼を閉じた。




